腹の底の化け物は、時に解放を望む瞬間がある




最近、空ける酒樽の数が増えた。

……いや、街に着いた後酒場に行く回数が減ったから、一度に飲む量が増えたのかもしれない。勿論酒場へは、酒を飲む為ではなく情報収集のために繰り出しているのだが。いつの世も人が集まる場には情報も集まるもので、周辺の近況や生の情報を知りたいときにはやはり最適の場所だった。仕事を終えた街の人間の他にも部外者が居たりする。商人の護衛についている傭兵や、地方領主お抱えの師団やら。同業者にも稀に会う。



昼間に街へ着いた場合はそのまま一眠りし、日が落ちてから酒場へと向かうのが常だった。一度睡眠不足の状態で他人と会話して揉め事になったことがある。あまりの眠さに正直何故そんなことになったのかはさっぱり覚えていないのだが、極力目立ちたくないという意思が勝り、それからはきちんと頭の働く状態で情報収集することを心掛けていたし、故に酒場へ行って酒を飲むことになっても、其処まで量を重ねたことはなかった。

酒には強い自信がある。何て言ったって魔導師だ、魔導力の回復には魔導酒という特別に蒸留された酒を飲むのだが、当然普通の酒と差異はあるもののアルコールが多分に含まれていることには変わりない。幼い頃から常飲し、自身の耐性や限界量を把握するのは勿論、もとより魔導師の才能がある人間というのはアルコールに強い傾向にもある。
街から街への移動、遺跡の探索などの間で、魔導力を回復するために使う魔導酒の数は、正直其処まできちんと数えてはいない。魔物の縄張りを突っ切ったり、遺跡の奥の財宝を守る番人とやりあったりした場合は一度に飲む量も増えたりするものだが、此処最近はそれがやたらと多く感じる。宿に着くとすぐに眠気に襲われるのも、恐らく移動や探索中の消耗が激しいからだろう。そしてどれだけ空けたかを覚えていられないのは、消費した分の魔導酒を買い足してくるのが自分じゃないからだ。



そう、あの同行者のチビガキである。



ああそういえば。別に子供が酒を飲んではいけないルールなどない(地域によっては定められているところもあるとは聞いた)が、夜の酒場に餓鬼を連れて行くのは何かと面倒だと思っていたのだ。特にあのちびはどうにも大人しくしているのが苦手らしく、買い出しに限らずとにかく何かしらすることはないかと常に探している節がある。俺がただ飲みに行くだけならともかく、情報収集に行くのだと知っているなら、まず間違いなくついてこようとするし、酒場に入ってからも積極的に話を聞きに行こうとするだろう。頭は悪くない、そもそも見た目は餓鬼だが中身はもう少し上なのだ、人当りの良さをうまく使って相手と話をするのもまぁ悪くない。しかし交渉術は壊滅的だった。嘘やハッタリを交えて駆け引きができない時点で、正当な取引の場でもないところでは完全に不利だ、だからできれば宿に置いていきたいし、ついてきてしまったなら手短に済ませた方がいい。……結果、その思考の煩雑さに負けて、最近は繰り出す回数自体が一気に減ってしまった。


他人と居ると面倒なのはこういう事があるからだろう。
幸か不幸か、邪魔をしてくるわけではないのが更に苛立ちを育てている。勝手についてきているだけなのだから、俺には関係ないと無視を続ける事に、今更ながら限界を感じつつあった。















それでも必要な情報を取りに行かなければならない時は来る。その日滞在した街の近くに、無視できない大きさの魔力反応があったのだ。恐らく遺跡か何かが存在しているのだろう事は直ぐにわかったが、肝心の場所が特定できず、話を聞きに回っている内にこの酒場の店主に行き当たった。一見普通の中年男に見えたその店主は、単刀直入に遺跡のことを訊くと過去に入ったことがあると軽く答えた。カウンター席に座り、地図を広げ、入り口の場所と、当時の中の様子の説明を細かく受ける。そこで成程、今は何かしらの理由でかなり力は衰えているが、この男は元同業者だったのではないかという確信を持った。

故に、好奇心が首を擡げて尋ねてみたのだ、もしかして魔導酒も置いているのかと。店主は特に表情を変えることもなくその場に屈みこみ、棚の下の方から瓶を取り出した。魔導師のお客は久しぶりだよ。淡々と告げながら、俺が今しがた飲んでいたグラスとは別のグラスを用意して注いでいく。俺もまさかこんなところで元同業に会うなんて思わなかった。言いつつ、注がれた一杯を飲み干した。街に着いたときにはもう夕暮れで一眠りすることもできず、まだ回復しきっていなかった魔導力が体に戻ってくるのを感じて少し良い気分になる。






ふと喧騒の隙間から、女の怒鳴るような、愉快ではない声が響いた。それだけが騒がしい店内の中でも一際目立つ色をしている。俺と会話をしていた店主がちらりと目を上げて、俺の後方、どうやら店の中央辺りにあるらしいテーブル席の方を見遣り、少し迷惑げに眉を顰めた。会話の内容までは聞き取れないが、女の声と、酔っ払っていることは確実な男の下品な声が言い争っていることはよくわかった。

普段なら思い切り見過ごしていたところだ。しかし何故かその時の俺は、店主に対して無駄に饒舌になっていたらしい。
「常連か?」
店主の目線の先へは特に興味も示さず、酒を煽りながら短く尋ねていた。
「ええ、まぁ。近くに炭鉱がありまして、其処の奴らなんですが。……領主さまが直々に雇っておられるものですから、何故かこの辺でもでかい顔しやがるんですよ。仕事自体は重労働なもんで、鬱憤が溜まってるのはわからなくもないんですがね」
「へえ」

店主が話をしている間に、隣の席の気配が動いた。先まで身を乗り出して広げた地図を確認し、酒場の喧騒に居心地悪そうにしながらも大人しくしていた小さいのが、突然、足の届かない椅子から下りたのだということはすぐにわかった。嫌な予感を察する間もなく、そいつはカウンターの上へと精一杯腕を伸ばし、俺が飲んでいた酒瓶をひとつ掴み取ると、そのまま迷う事なく店の中央に向かってぶん投げる。



実に小気味良い音がした。と、同時に、俺は内心頭を抱えた。



「あのクソガキだ!!」
ああ知らない。俺は知らない。忘れていたが、隣の小さい同行者は、呆れるくらい正義感が強かった。街で困り顔の人間を見つけたら、気になって仕方がないのかちらちらと視線を投げているし、それで厄介な事を頼まれても平気で承諾する。その上俺にはその事を知らせず、ひとりで何とかしようと試行錯誤した挙句俺にも面倒事が降りかかってくることがあった。

俺を巻き込むなと釘を刺したら、だったら放っていってくれと言うのだ。これは俺の問題で、お前には関係ないことだから。苦々しさもない、本当に当然のようにそう思っている風に口にするから、腹の立つことこの上ない。見た目以上には頭の回る奴だが、やっぱりそういうところはただの餓鬼だった。

……いや、見た目が中身より下回ったからこそ、意固地になっているのかもしれない。



今度はその餓鬼と、柄の悪そうなでかい声が背後で言い争いを始めたのがわかったが、俺は頭を抱えたままとりあえずグラスの中身を空にした。無視だ、無視、無視。と、決して其方の方向など見てやるものかと目を背けていたら、左隣に何かが勢いよく飛び込んできてカウンターにぶつかった。思い切り机が揺れる。ちらりと横目で確認すると、椅子に思い切り頭をぶつけたらしい男が目を白黒させていた。ああ、本当に勘弁しろってんだ。


店主に向かって代金を突き出し、俺は勢いで席を立つ。ようやく振り返った背後は険悪な雰囲気が漂い、店の中の誰もが中央付近の、ガタイだけはいい男たちと完全にチビのガキひとりとのにらみ合いを見守っていた。が、俺は直ぐにちび餓鬼の方へと歩み寄って、腰辺りにある首根を掴み、出入り口に向かって引き摺り始める。勿論、掴まれた方は慌てて抗議の声を上げた。
「ま、待ってくれよシェ、」
「おいてめえ!」
しかしその声は別な怒号にかき消される。ずんずんと大股で歩き、出入り口まで一直線に向かっていた俺の進行方向を塞ぐようにして現れたのは、人相のわるいスキンヘッドの男だった。

「てめえ、そのガキの保護者か?ああん?」
「…………」
「そいつが俺たちに何やったか、知らねえとは言わせねえぜ兄ちゃんよお!」
いや知らねえよ。見てねえし。あ、でも俺の飲んでいた酒瓶が一本消えたってことはよーく知ってる。本当にくそったれだ。
「ガキがおイタをしたなら、責任取るのが保護者の役目だよなぁ!?」

保護者。…………保護者……保護者?
責任?ガキの不始末の?
おいふざけんな。



スキンヘッドの男が大きく拳を振り上げてきたのを視界の端に捉えた瞬間、俺の中で蠢くものがあった。怒り、とか、苛立ち、とか、感情としてはそういうものに近い何かだったのかもしれない。しかしその時の俺にそれを分析している暇はなかった。ガキを掴んでいた手を離し、振り掛かってきた拳を右に受け流してそのまま相手の懐へ潜る。間髪入れずに最小限の動きで渾身の一発を鳩尾に入れた。ミシッ……と骨の軋む音が聞こえて、どうやら狙い通りにいったらしいことを実感する。これでこいつはしばらく喋りも動きもしないだろう。目障りな木偶の坊が一匹消えた。
「……ガキの不始末を俺がつけろ、だと……?」
だが満足感はなかった。いうなれば耳元で飛び回る煩い蝿を、一匹潰しただけというあの感覚。腹の底で蠢く何かに促されて、俺は自然と口を開いて、その奥からそいつを引き摺り出そうと、していた。





「ふざけたこと抜かしてんじゃねーぞ筋肉ダルマ。そもそも手前らがガキの目から見てもくっだらねえと思わせるような真似をしてたんだろうが。それは手前らの不始末じゃねーのか?ああ?自業自得の癖に逆上してガキの売った喧嘩に飛び付いて、挙句転がされたから俺にも責任取れだなんて、アホか?バカか?のうみそぷーなのか?言っておくが俺はこいつの保護者でもなんでもないし、風俗でもねえのに女引っかけようとしてるクソどもと関わり合うようなクソみたいに無駄な時間を過ごすつもりもねえんだよ」





周囲がすっかり静まり返っていたのも良い事にぶち撒ける。ああ、ちょっとだけすっきりした。よし帰ろう。そう思って足を動かすと、先に鳩尾を打って倒した男の腕を思い切り踏ん付けてしまった。くそう、倒れても邪魔な奴だ。進行方向から退かそうとそいつを蹴飛ばすと、先まで静かだった連中が何故かこっちに向かって飛びかかってきた。

見れば、三人。少しズレたタイミングで違う方向から来ている。あ、これは……と、一瞬で回転した頭に従って身体を動かした。真っ先に飛び込んできた奴の脇腹に、威力を弱めた爆裂の魔法を当てて吹き飛ばす。飛ばした方向は、奴らが陣取っていたテーブルだ。床を滑るように飛んだそいつはテーブルの脚に激突する。しまった、角度を間違えた。あともう少し上方に修正していたら後頭部がきちんとテーブルの角にぶつかるはずだったのだ。
仕方ない、次の奴で試すか。幸いにも実験台は自分から突撃してきてくれるので、困ることはない。

続けて来た奴も同じようにして別のテーブルへ沈めた。するとその近くで静観していたやつが立ち上がり、更に別のところに居たやつが立ち上がり、瞬く間に周囲が騒がしくなる。酒瓶どころかグラスが飛び、皿が飛び、それらが割れる音が響き、相変わらず俺の方には木偶の坊がやってくる。




そのあたりの記憶は、あまり鮮明ではない。






























一瞬にして祭りのように騒がしくなった周囲が、だんだんと静まり返っているのにも気付かず、額を皿の破片で切ってだらだらと血を流す男を地面に落として、ようやくその場に立っているのが自分だけであることを知った。足下には気絶している奴ら、端の方には、喧騒を避けるためにテーブルをバリケードにして潜んでいるもの、痛みでのたうちまわっているもの、楽しそうに口笛を吹いているもののすっかり顔を腫らして痙攣しているもの。

その状況で、俺だけが一切の傷も作らず立っていた。

「ククッ……ふ、ははははははっ!!」
思わず笑いが込み上げてきて、ようやく最後の澱みが体の中から消え去った。近くにひっくり返っていたテーブルの上に腰かけ、思う存分声をあげると一気に瞼が下りてきた。あ、そうかそういや夕方に着いたから寝てなかったんだった。

でもまぁいいだろう、敵は全部倒したから。俺の邪魔をする奴はいま、此処にはきっと、居ないから。

先に凭れるものが何もないことも理解せず、俺は意識を完全に手放した。





夢は見なかった。



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