広い店内を見渡しながら、俺は床に座り込んで酒場の主人から貰った林檎のジュースを飲んでいた。傍らには、床に転がって目を閉じたままの、シェゾが居る。
あのとんでもない騒動の後、それなりに元気に復活した人や、他にも静観していた客たちが、主人と給仕の女性と一緒に店の片付けをしていた。俺も途中までは手伝っていたのだが、ある程度のところで主人に止められ、店の中央付近で眠ったままのシェゾを指差された。宿まで誰かに頼んで運んでもらうかいと尋ねられ、確かに、あんなところで寝たままでは片付けの邪魔だろうと思った俺は、そうしようと頷こうとして思いとどまる。
……申し訳ないけど、一度目が覚めるまであそこに置いといてくれませんか?
シェゾの寝起きの悪さを知っている俺は、他の片づけを手伝っている人たちひとりひとりにも頼み込むようにしてそう告げた。呆れて悪態吐かれるかと思っていたのに、何故か皆同情的で、じゃあ代わりに兄ちゃんが起きるまで面倒見といてくれなんて手伝いの男の人に言われてしまった。彼は恐らく、騒動の合間に口笛を吹いて煽っていた客だろう。作業中もずっと調子良さそうに繰り返しては、周りにどやされていた。
もっとしっかりしなくちゃなぁ。
ぼんやりと、深夜の眠たい頭で考えていたのは、そんなことだった。船を漕ぎ始めた身体に気付いて慌てて頭を振り、瞼を擦って林檎ジュースを喉に流し込みながら、とりあえずシェゾが起きるまでは絶対に寝るものかと意地を張った。どのくらいで目を覚ますかの見当はつかない。もしかしたら明け方までこのままかもしれないが、それでも。
もっとしっかりしなくちゃ。
ついていくと決めたのは俺だ。出来る事は少なくても、出来る限りの事はしていかないと。口でも態度でも俺の事は考慮してないという体を見せるシェゾが、それでも最初に言った通りに俺がついていくことには何も言わないまま、しかし俺の存在を許すなら、きっともう互いの不可侵を守りながらこの先を続けるのは難しいだろう。むしろ、今までそれを暗黙の了解として罷り通せていたのがおかしかったのだ。此処まで生活を共にして、互いの領域を侵さないままなんて、本当は無理だったに違いない。
実際に、もう無視のできないところまで来ている。
再び船を漕ぎ始めた時に、ようやく隣の気配が身じろいだ。はっと顔を上げ、霞む視界を瞬きで鮮明にする。シェゾの瞼がゆっくりと押し上げられて、いつもの蒼い目が、しかしいつもよりもどこか幼さを持ったまま、周囲を確認するように右から左へ動く。
「あ」
「……あ?」
「おはよう、シェゾ」
まだ夜中だけど。
シェゾはそのまま暫く俺の顔をぼんやりと見ていたが、ようやく頭が冴えてきたらしい。直ぐにいつものように眉を顰めて不機嫌そうな表情を作り、腕を支えに身体を起こした。そしてそろそろすっかり片付きつつあった店内を見渡す。シェゾが起きたことに続いて気付いたのは、あの酒場の主人だった。直ぐに林檎ジュースを持ってきてくれた。店を荒らしたことに触れないのは、きっとあの炭鉱夫たちを無言で返したのと同じ理由かもしれないし、もっと別の思惑があるのかもしれない。俺が少し、落ち着かない様子でふたりを見ていると、シェゾは懐から金と、先日潜った遺跡で見つけた魔力結晶を取り出して主人に渡した。主人は黙って受け取っていた。
未だ何処となくもやもやとしたものを抱えたままの俺でも、それが一種の契約成立の瞬間だったことは、わかる。シェゾに頭を掴まれながら一緒に立ち上がって、空になったグラスをカウンターに置き、その向こう側にいた給仕の女性に頭を下げた。彼女はうっすらと笑って俺に手を振ってくれた。
夜道を歩く。宿までの道のりを遠く感じたのは、いつもよりシェゾの歩くスピードが遅かったからだろうか。澄んで晴れた空にはいくつも星が見えていた。綺麗だなぁと思う間もない、眠くて真っ直ぐ歩けなかったのだ。何とかシェゾの背中と踵を見据えて必死についていくも、夜中の街の静けさと暗さも相俟って、俺は歩きながら船を漕ぐなんて高等芸をしそうになっていた。
だから、前を歩くシェゾが立ち止まっていたことにも気付かなかった。
「ぶっ」
思い切り背中にぶつかって、少しだけ目が覚める。
「な、なに?どうした?」
「いや」
見ると、しきりに懐を探って渋い顔をしていた。
「……忘れてきた」
「何を?」
「地図」
「店に?」
「……店に」
俺は思わずちょっと笑った。
「明日取りに行けばいいんじゃないか?あの人たちならきっとちゃんと置いといてくれるって」
「…………」
あれだけ騒いだ手前、また戻るのが気恥ずかしいというのはわからなくもない。そんな事をいちいち気にする奴だということも、それなりに理解はしてきた。だからこそ、酔っ払って暴れて高笑いまでした、あの瞬間を俺は多分なかなか忘れることができないと思う。
「あのさ」
再び歩き出した背中と踵を、今度はそれなりにしっかりとした意識で追い駆ける。静かな夜道に自分の僅かに高い声は、よく響いた。
「何だ」
シェゾの返事をする声も、よく聞こえた。
「俺、あの時お前に連れて行って欲しいって頼んだよな」
「あの時?」
「アルル達が居た街から出ていくときだよ」
急いで歩幅を大きくして、未だゆっくり歩いているシェゾの隣に並んで顔を見上げた。いつも通りの不機嫌そうな顔だが、何かを思い出すように目線が周囲を泳いでいる。
「……それがどうした」
「お前は、勝手にしろって言ったよな」
「言ったな」
「で、俺は勝手についてきたよな」
「そうだな」
不意に、シェゾが彷徨わせていた視線を俺の方へと下ろしてきた。
「そろそろ嫌になったか?」
その目はちょっと笑っていた。自嘲しているようにも見えたし、俺を笑ってるようにも見えた。でも俺はただ、焦らず首を横に振って、まさかと一言返す。
「ひとりじゃ此処まで来られなかった」
「……此処まで来てお前に利はあったか?」
「うーん、どうだろう。どうだろうな」
確かに、まだ記憶も戻らない。元の姿に戻る手がかりも掴めていない。旅に出る前、シェゾについていく前にも、一度言われたことがあるのだ。君がそれを受け入れるならきっとそのまま幾らでも生きていく道はあると。確かに、此処でまた新しい記憶を持って、新しい自分を持って、生活していくのも悪くはない話なのだろう。
「目的を達成するって意味だったら、たぶん、利、にはなってないんだと思うけど」
旅立つ前にアルルには、この街で暮らすんだったら力になれることもたくさんあるよと言われた。しかし同時に彼女は、それでもどうするかは君次第だと、俺の背中を押しもした。
「でも結構楽しいから、それでいいよ」
やっぱり自分が何者なのかは知りたい。何がどうなって、今の状態になったのかも、知りたい。知らないまま、知らないままでいい顔をしながら日々を暮らすのは、シェゾについていく大変さよりも、たぶん俺にはつらい。
「……まぁ、お前が楽しかろうが楽しくなかろうが俺には関係ないことだがな」
「あ、それなんだけどな」
「あ?」
「改めて、もうひとつ頼みたいことがあるんだ」
「断る」
「ええ、まだ何にも言ってないのに」
「嫌な予感がした」
「う、うーん……」
「そこは否定しろよ」
「いや、其処まで面倒じゃないけど、けど、お前は嫌がるかもなって、それは確かに」
「なんだそりゃ」
「頼みって程の事じゃないんだけどな。ちょっとした約束……って、約束は嫌いなんだっけ」
もっとしっかりしなくちゃなぁ、と、シェゾが眠っている間に思っていたことを必死に思い出す。この旅で少しだけ俺も学んだ事だ。人の善意に付け込むのでも、悪意に託けるのでもなく、事実と価値を優先して相手と取引をすること。
「じゃあ契約でもいい」
「お前なぁ、俺に何を誓わせる気だ、何を」
「一緒に来てほしいんだ」
今は口先だけの簡単なものになるとしても、差し出せる対価だけは用意して相手に差し出す。
「今までは勝手についてきたから、これからは俺にもついてきてほしい」
「…………」
「代わりに野宿中の飯は作るし、買い出しは行くし、協力できることには協力する。役に立つよ、絶対。立たなくなったら、その時が契約終了でいいから」
「……お前、それ今までとおんなじじゃないのか」
「でもそれをお前に認めてもらったわけじゃなかった」
以前の俺にはその発想すらなかったのだから、仕方ないと言えば仕方ないのだろうけど。でも重ねた月日の中で、うやむやにしてきたことはきっとたくさんあって、お互いに枷となっていた事も少なからずあった筈で、これからも俺がお前についていこうとするなら、改めて俺はきちんとお前に頼まなきゃならない、と思ったのだ。
だってこの先もきっと、俺はひとりじゃ何処にも行けない。
シェゾは、以前俺が人買いに会ったときとおなじような複雑な表情を浮かべて、俺から視線を外した。宿はもうすぐだったけど足取りはひどく重くて、しんと静まり返る周囲の沈黙が、逆にうるさく感じた。
俺は返事を待つ。
やがて宿の建物が見えてきて、その玄関扉の前に立って、ようやくシェゾが口を開いた。ドアノブを掴む手はそのままに、しかしまだ捻ることはしていない。傍らの俺の方には目もくれず、むしろ敢えて視界に入れないようにしている節はあった。
「別に契約なんか要らねえよ」
思ったよりも、穏やかな声だった。
「俺について来させたいなら、毎回俺が納得できるような理由を持ってきやがれ。そしたらその都度考えてやる」
そうして告げられた言葉も、俺が今までシェゾから受け取った言葉の中では、一番穏やかで優しい言葉だった。
俺は大きく頷いて、扉を開いたシェゾの後に続いた。
「ところでさ、ずっと気になってたんだけど」
「まだ何かあるのか」
「まだっていうか……」
互いに寝台へ潜り込む。しみついたアルコールや煙草のにおい、夜道で冷えた身体を洗うことも考えたが、まずはとりあえず睡眠をとらなければ、特に俺が、明日からの旅についていけそうもなかった。あたたかな毛布の下で少し微睡ながら、俺は身体を捻ってシェゾの寝ている方を向いた。何故かシェゾも珍しくこっちを向いていた。
「お前、俺の名前覚えてる?」
「……へ?」
「覚えてるよな?」
「……あ、当たり前だろ」
「じゃあ言ってみろよ」
「…………」
「…………」
「………………」
「……やっぱり覚えてないんじゃ……」
「ま、待て。覚えてる覚えてる。えっと、チビ……ガキ……」
「なんだよそのチビとかガキとか!」
「う、うるせえなちょっと待ってろって言ってんだろ。……チビ、ナス、だったから……えっと………」
「……お前そんな風に俺のこと呼んでたの?ていうかほんとに覚えてるのか?」
「お、思い出した。じゃない、覚えてる。……ラグ、ナス、だろ」
思い切り此方の様子を窺いながら告げられた名前に、俺は盛大にため息を漏らしながらも直ぐに、そうだよと笑いながら肯定する。暗くてきちんとは見えなかったけど、シェゾの表情が僅かに緩んだのを確認した。本当に忘れていたみたいなのはちょっと頂けないが、思い出してくれた事は素直に喜ぼう。
「ちゃんと覚えてくれよな。そう、ラグナスだぞ」
「だからちゃんと覚えてたって」
「チビでもガキでもなくってラグナスだからな?」
「あーはいはい」
「『はい』は一回でいいんだよ」
「しつこいぞお前」
「ラーグーナースー」
「わかったわかったラグナス!」
これでいいんだろと言わんばかりの勢いで告げられた名前で瞼が下りる。今日はそれで満足だった。ふわふわと、ずっとシェゾの後ろをついてまわっていただけの俺の存在が、小さな口約束の上だけでも構わない、ようやく確かな形で其処に生まれたのだ。俺にとってはそれが、何よりも大事なことだった。
お名前を、どうぞ
踵よっつ、珍道中。