庇護を失くした子供は、いつも拠り所を探している
海は、わりと好きだ。入って泳ぎたいわけではないし、潮風で肌がべたつくのはいつも面倒に思っていたが、それでも海はそれなりに好きだった。
この世界で海に関心を持つものは少ない。其処は俺たちが生きている陸地とは違う神の支配する領域で、侵入するためにはその神の眷属になることが求められるからだ。それは裏を返せば、陸地で生きることを捨てることにもなる。海辺の街で漁師を生業にし、海へ船を出しているものたちは皆、海神へと身を捧げたものたちだ。勿論仕事が終われば陸地に上がってはくるが、彼らにとって其処はもう故郷ではない。その肉体が死した後は、当然、海神のもとへ直ちに送られることになっている。
随分前の話だが、その海神の眷属となる儀式について調べていた時期があった。今は形式化していて、魔術めいた要素は限りなく薄くなってはいたが、それでもその形式の中には確かに、古い魔導の呪文と契約の謳い文句が存在した。かつて海女をしていたという老婆から、岩場の影にひっそりと人目につかないよう設けられていた神殿の話も聞いたことがある。あれはかつて陸地だったところが水没したという意見が主流だったらしいが、実際に目にした彼女は、あれは明らかに海を通らなければ辿りつけないように作られていたと俺に語った。
あの話の真相は結局わからずじまいだ。老婆の言っていた神殿は、数年前の大幅な地形変動で入り口が崩れてしまったことが後になってわかった。恐らく、中も相当な被害を受けているだろう。残念だ、無事だったなら一度中を確認しておきたかったと思いつつ、俺はその件からは手を引いたのだった。
契約、という言葉の持つ意味は重たい。人ならざるものとそれなりの取引を成立させるならば、相応の覚悟が必要となる。人間の口約束なんかとは比べるまでもない事だ、紙の上だけで成立するそれとも違う。しかし、だからこそ俺はその重さには一定の信頼を寄せても居た。少なくとも、人間同士の軽薄な腹の探り合いのような、いつ言葉尻を捉えられて覆されるかもわからないような約束事よりはずっと、信じるに値する。
本能で生きている者たちの、本能への従属は絶対的だ。其処に信を置くならもう、俺もどちらかと言えばそっち側の生き物なのだろうか。
実際、魔に属するものと契約を結ぶのは、人間と交渉事をするよりも随分と楽な仕事だった。たとえば……はじめて探索する遺跡や洞窟は当然だが内部の地図などない。自分で構造を把握して地図を作っていくしかないわけだが、古代都市の廃墟くらいの規模になると流石に面倒になってくる。そんな時は、ある程度敵意のない魔物に頼んで目的の場所まで案内してもらう方が遥かに労力は少なくて済む。そういった魔物を見つけられるかは運次第ではあるが、意思の疎通さえ可能なら後は贄が用意できればいい。大抵は食糧、もしくは魔力の籠った品。……厄介なのに当たれば血や肉のひとかけらなど。契約を破ったときは始末してしまえばいい、当然、そのことを相手が理解していれば反故にされることは滅多にない。最近だとリュンクス……猫の姿をした化物……の群れと交渉をしたが、食糧袋をまるまる寄越したお蔭で街に帰り着くまでの空腹が酷かった以外は、特に何事もなく探索を終えることができた。
魔物に道案内される傍らで、そういえば俺の、あの小さい同行者は、終始居心地の悪そうな顔をして周囲を警戒していた。
街に着き、空腹で閉口しながらも、通りを行き交う人間の姿を見て僅かに安堵のため息を吐いていたことも、俺は知っている。
人の善意を心の底から信用しているような奴だった。街へ買い出しに出かける度におまけだという言葉の上で渡される物が、売れ残りの処理の一環であるとか、常連の獲得のためであるとか、至極真っ当な意図を以ているものであるという発想がそもそもないらしい。喜んで受け取り、報酬という形でなしに与えられるものに多少の罪悪感を感じ、申し訳ないなぁとのたまう反面、悪意を徹底して許さないとでもいうような正義感は、俺からすればたいへん幼稚に思えたし、この世界には相応しくないものにも見えた。実際に、奴はもしかしたら異質な存在なのではないかと俺は考えても居た。他に根拠も何もない、ただの妄想紛いの発想だから誰にも言ったことはないが。
その日は何故か、物資の補充を終えて宿に戻ってきた奴の足音で目が覚めた。寝台の上から首を傾けて、隣の寝台で荷物を整理している奴の様子を窺い、また余計なものを持たされていることに気付いて僅かに眉を顰める。同時に漂ってきた磯のにおいで、そういえば此処は海辺の街だったということを寝惚けた頭で思い出した。
遺跡があるかもしれない。
徐に身体を起こして、俺は早速酒場へと足を運んだ。別に付いてこなくてもよかったのに慌てて後ろをついてくる奴の歩調に、一応は軽く合わせてやりながら、陽も落ちた薄暗い街の通りを突き進む。この辺りでも規模が大きめの、歴史も深い街だ。もしかしたら街自体に過去の遺物が残っている可能性もある。しかし長い時の中で複雑化した街の構造は、比較的新しい建築物の合間に隠れてしまった古い石造の家や道を中心に形成されたスラム街を初めとし、他の大きな街との中継地点に存在するという経済的利点と相まって富裕層との隔絶が生まれ、極端に治安を悪化させても居た。
表の大きな通りからは外れるが、仕事終わりの地元の漁師たちで賑わう酒場を選んで扉を開く。少し狭い店内はほぼ満席で、カウンター席に1つ2つ空席がある程度だ。俺はカウンターで適当な酒を注文し、瓶ごと抱えてひとつの集団の円の中へと歩みを進めた。その周辺はアルコールと潮の妙なにおいがした。
集団の中のひとりが此方に気付き、酒で赤らめた顔をひょいと向けながら何の用だと尋ねてくる。酔っ払ってはいるが意識は鮮明なようだ。机の上に酒瓶を置きつつ、俺は何の前口上もなしに海神の神殿跡を知っているかと尋ねた。顎髭をしきりにさわりながら口にするのを渋る男のグラスに酒を注ぐ。すると次々と集りだした他の奴らの相手もしなければならなくなって思わず寄った眉間の皺を見て、はじめに注いだ男が大きな声で笑った。つられて周りの連中も次々に下卑た笑いを起こす。
興味があるなら行ってみるといい、崖下に降りる道がある。ただし、干潮じゃないと海の中だぜ。……それに最近は海神さまの機嫌も頗る悪い。連れて行かれないように気をつけろよ。……特にちいさい子供なんかはすぐに目をつけられるぞ。何せまだ地上に出て日の浅い生き物だからな、海神さまに近しい存在なのだろうさ……、……。
子供、の単語でふと我に返る。そういえばずっと後ろをついてきていた気配がない。顔を上げて酒場の入り口の方を見遣ると、丁度其処で俺に背を向け、外の誰かと話をしているらしいあの餓鬼の姿が目に入った。
途端に嫌な予感がして、俺は酒瓶を集団の机の上に置いたまま、その隣に適当な額の金を並べて早足で入り口へと向かった。近づくにつれ、相手側の顔が認識できるようになる。女だった。嫌な空気を纏った女だった。悪意や敵意は感じない……隠すのが上手いのではなくて、自分の行う事に疑いを持っていない類の性質のわるさだ。
俺は咄嗟に声を上げた。その声に、餓鬼の方が俺を振り向いた。女が、人の好さそうな笑みを浮かべたまま、入り口を空けるように横へ逸れる。しかし一分の隙も見せず未だ奴の肩に手を置いたままなのを見て、俺は確信した。これは人買いだ。目立った得物は持っていないようなので、恐らく他にも何処かに仲間が潜んでいるのだろう。俺は直ぐに餓鬼の頭を掴んで女から引き剥がし、早足で宿へと向かった。後を追ってくる様子はなかった。
子供は高く売れるのだ。……何で俺がそんなことを知っているのかと訊かれたら、この長い旅の間で身を以て学んだからと答える他ない。まだ心身ともにこの傍らの餓鬼と相違なかった時期に、危うく売り飛ばされそうになったことがあった……記憶の中でもとびきり最悪な出来事に分類されているから今まで完璧に忘れていたのに、畜生め。
と言っても安易に騙されて引っ掛かったわけじゃない。船に乗っていたのだ……地方の領主が運営していた正規の定期便で、俺の他にも幾人かが乗り合わせていた……その船ごと拉致された。小さい船で、下手に暴れれば沈む可能性があったから陸地についた後でさっさと逃げ出そうと考えていたところ、俺ともう2人くらいだけ別の船に移されて定期便は返された。
腕を掴まれ口を塞がれながら、周囲を取り囲む奴らが言っていたことをしっかり聞いていた。子供で、魔導師で、おまけに身なりが良い。見た目も上々でどんな用途でも高く売れそうだ。いろんな意味で吐き気がする言葉だった。そのまま縛られて船倉に放り込まれて、とにかく脳内で奴らへの悪態と罵声を響かせつつ、俺は脱出方法を模索した。本気でやれば負ける気はしなかったが、それでもこの船に乗っている奴らの息の根を止めたところで後がない。もう少しマシな策を、と揺れる船内で考えていると、足下に濡れた感触がした。木製の床板がじわじわと水に浸かってきていることに気付いた。……其処からの判断は早かった。俺はずっと存在を隠し続けていた剣を虚空から引き摺り出し、縄と錠を解いて船倉の扉を吹き飛ばした。外は嵐だった。
海水を吸った服は重く、溺れかけた身は疲労で動かず、頭痛でロクな思考もできない。しかし俺は、流れ着いた浜辺で水を吐きだしながら、あの嵐が嘘のように晴れ渡った空を見て確信を持ったのだ。
やはり人間は信用ならないと。
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