思いがけず目覚めたまま、生きようとする感情がある
文句こそ言わないものの、不味い、と表情が訴えていた。言葉数が減る代わりにさっさと飲み込もうと咀嚼の回数が増え、ようやくごくりと喉が動いたと思ったら、すぐさま水で腹の底まで流し込んでいる。それでも一度舌の上を這った感触が消えないのか、食事の最中はずっと苦い顔をしたままだった。
正常な反応だと思う。
その様子を適当に窺いながら、俺も同じものを口の中に放り込んだ。きっちり20回、そいつを歯ですり潰してからあっさりと喉に通す。舌の感覚というのは麻痺をするもので、同じものを食べ続けているとそのうち慣れが来る。一応は俺にも、あんなふうに苦い顔をしながら食事をしていた時期があったのだが、いつの間にか食べ方を覚えてしまったというか、……否、勿論不味いとは思っているのだが、一度極限の飢餓状態を体験したことのある身は、味の良し悪しよりもとにかく胃に流し込むことを優先するようになったらしく、何も意識しなくても、むしろ何も意識をしない方が楽に食べることができた。
特別なことはなにもない。食べなきゃ生きていけないからとか、そんな事を考える間もないほど本当の飢えは恐ろしく、理性感覚を失くさせるものだと俺は知っているというだけの話だ。
宿の食事は、それぞれの宿によって違いはあれど、当然野宿のときとはくらべものにならない。心底安心した顔をして湯気立つ白飯を口の中に駆けこんでいるそいつが、何だかどうにも不憫に見えてきたのはいつ頃からだろうか。かといって野宿中の飯を改善しようという努力は俺の中には湧いてこなかった。だってこいつが勝手についてきているだけなのだから、俺がこいつのために俺のやり方を変える必要性はないのだ。それはもう此処までくると一種の暗黙のルールでもあった。守らねばならない理由も曖昧なままの。
気付けば、スプーンを右手に握りしめたまま奴が俺の顔をじっと見上げていた。どうやら俺の食事の手が止まっていたことが気になったらしい。渋々手近なところにあった豆のスープを掬って口に運ぶと、それを待っていたかのように声をあげた。
なぁ、美味いか?
いきなり何を尋ねてくるのやら。首を傾げて、不可解だと言外に告げつつ、特に何も考えずに俺は返事をした。
もう少し濃い方がいい、と。
妙なものが荷物に混じっていることには気付いていた。麻袋に包まれた香草だということも明け方に確認済みだった。あいつが買い物をしてくると大概何か持たされて帰ってくることも最近知った。気付いていて、確認していて、知ってもいたが、疑問には思わなかった。だからその日の野宿で、奴が唐突に飯は自分が作るなんて言い出した時は普通に驚いたのだ。驚いたが、直ぐに奴が手にした一枚のぺらい紙切れを認めてしまったために、それが表に出ることはなく、何を荷物の前でもたついているんだと思ったらそういうことか、と、妙に緊張した面持ちで返事を待っている奴の顔を見ながら、じゃあやれよと適当に承諾してしまった。おかげでいつもより飯の時間が遅れて、俺は地味に襲い来る空腹の波と戦う羽目になって若干機嫌を損ねた。反面、奴の方は紙切れを片手に何度も鍋の中の液体の味を確かめて、よし、と誇らしげに小さく呟いたかと思うと、さっさと器にそれを注いで俺に突き出してきたのだった。
一瞬それを見て顔を顰めてしまったのには、一応理由がある。長く繰り返した悪食の結果、俺の舌は随分と鈍感に成り果てていて、不味い、食えないものはともかく、正直「美味い」という感覚がわからなかったのだ。しかし戦慄く腹の虫は、眼前から漂う香ばしい匂いにつられてぐうと音を立て、そいつを口にしろと急かし立ててくる。逡巡ののち、ようやく器を受け取ってそいつをゆっくりと口内へと運んだ。
出来たばかりであたたかい、舌に染み入るスープの深い味は、どこにでもありふれているようで今まで一度も味わったことのないものだった。思わずまじまじと器に注がれたスープを眺める。具だってそんなに大したものは入っていない。そこらへんで手に入るものばかりだし、肉なんて丁度数時間前に倒したばかりの、ある意味では実に活きの良いやつだが、確かあれは臭味が酷くて調理がしにくかったはずである。
ああこれは、欲が、出る。
視界の端に、思わず、といった体で両手拳を握りしめる奴の姿を認めて、俺は内心頭を抱えた。
ずっと昔に失くしたからもういいやと思っていたものを、再び与えられてしまったのだ。思いおこせばそれは限度を知らない。少し渇いた舌の根が、今までの不足を取り戻したいといわんばかりに俺の頭に訴えてきた。単純な飢えではない食欲の類。
五日間の長旅を終えてようやくたどり着いた町で、俺は珍しく宿に荷を下ろしても眠気に襲われなかった。窓から見た陽の翳り具合も見て、近くで買い出し用の財布の確認をしている同行者の姿も見て、一度腰かけた寝台から立ち上がる。真上から覗き込むようにして、緩く握られていた財布を取り上げた。驚いて咄嗟に取り返そうとしてくる頼りない手をあっさり身長差で躱して中身を見る。少々心許ないが、先に幾つか物を売れば問題はなさそうだった。
腰の辺りでうろうろしている頭を小突く。さっさと行くぞと言えば、目を丸くさせて俺を見上げてきた。え、シェゾも行くのか?寝てなくていいのか?慌てたように尋ねるそれを無視して廊下に出る。ばたばたとその後ろを細かい足音が追い駆けてくるのが小気味良い。
町の入口、広場になっている辺り。さっき宿を探す途中で見かけた店に並んでいた、あれは確か水分が多く、あまり日持ちはしないが甘酸っぱくて果肉も柔らかい果物だった。急に食べたくなったのだ。もうあやふやな古い記憶の中から、何故か今頃ふっと湧いて出たその味を、誰かと共有したくなったなんて、馬鹿馬鹿しいにも程があるけれども。
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