「会話ができないの」
「はぁ、それは、あいつが喋ってくれないってことですか?」
「違うわ、会話にならないのよ」



迷いの森でジャンに会ってから、迷いの森を出て人里を歩くようになってから、いろんなことがあった。いろんなひとと出会った。はじめこそはジャンだったけれど、彼はそのとき多忙の身で、ゆっくり会話を持つようになったのはこうして共に旅をするようになってからだ。だから実質、はじめて会話をする相手として得たのは、彼に紹介されたグレイだった。

クローディアは、人と話すのが苦手だ。慣れていないといえばそうだし、嫌いだといってもよかった。森に居た頃人間として言葉を交わすのはオウルだけであったのと、そのオウルは自分が赤ん坊の頃からずっと自分の面倒を見てくれた親代わりの存在だったというのが大きな要因だ。自分がわざわざ言葉で伝えずとも大概のことは察してくれた。加えて、森の仲間達と交わすのは、言葉ではない。それをどんなふうに表現すればいいかクローディアにはわからないが、とにかく人と接するのとは根本が違うのだということは、人里に出てからすぐに彼女が理解したことだった。


よく喋る人なのだろう、言葉の嵐のように勝手に会話を推し進めてやはり嵐のように去っていくジャンと比べて、クローディアはグレイを雷のような人だと決めつけた。普段は特に必要がない限り会話を持とうともしないが、怪しくなる雲行きと共に突然鮮烈な言葉を落とす。直撃を受けたものは動けなくなったりあるいは命を落としてしまうこともあるのかしらと想像しながら、それは周囲にも確実に感電現象を引き起こす。そんな人間だと思った。

人間は言葉で主にコミュニケーションを交わす。だから、面倒だと思った。今まで話すことを習慣としていなかった身は、必然と言葉を用いることを煩わしく感じてしまう。そこで相手に伝わらないことを良しとしてしまう。誤解されたままでも構わない、そこでまた言葉を錬成しなおす方がずっと難しい。

その点、グレイとの旅路はクローディアにとって随分と楽なものだったとも言える。逆に、その楽さに慣れてしまったのかもしれなかった。バファル帝国領土内からはじめて外に出て、ローザリア、クジャラートまで足を運ぶ中、ふたりだった旅の道連れは5人になった。会話が増えた。否、会話をしなければ成り立たないのが、きっとふつうなのだ。




言いたいことがあれば言え、それが旅の当初から、グレイがクローディアに言い続けてきたただひとつのことだった。はじめは半分聞き流していた。

「ちゃんと口にしてくんなきゃ、わかんねえだろ」
エスタミルで出会ったジャミルにはそう言われた。何の話をしているときだっただろうか。次の目的地についてだったかもしれないし、戦闘時のフォーメーションについてだったかもしれない。別に何も無いと答えれば、嘘吐け、と不愉快そうに返された。
「不満だって顔してるぜ、あんた」
それは貴方でしょう、という言葉だけが頭に浮かんだ。ジャミルとはいつもこんな風に険悪な空気を作った。そのたびにいつもジャンが間に入って話を逸らした。彼の気遣いを察していたからか、ジャミルはそれ以上クローディアにつっかかることはなかったし、クローディアは基よりそれ以上ジャミルと会話をする意思を持たなかった。ミリアムはジャンに乗っかって更に空気を軽快にさせた。グレイは何も言わずにそれを窺っているだけだった。



比較的、ではあるが、話しやすいと感じたのはやはりジャンだ。はじまりは彼だったのだから。だから、彼に尋ねた。

「私、何か言いたそうに見えるの?」
「ジャミルさん辺りに何か言われましたか?」
彼女は首を横に振った。
「彼と関わる前から、グレイにも言われたわ。言いたいことは言えって」
「それは…その、あいつのいわば信条のようなものですから」
「信条?」
「誰かに頭を下げたりするタイプじゃないってことは、クローディアさんもお分かりですよね」
「………」

確かに。どんな人間に対しても彼は尊大な態度を崩さない。命令口調で話すことが多いのも知っている。だが高圧的だというより、彼の中にはいわゆる身分の高低のような概念がないのだろう。理由なんてものまでは推察できないが。




そういえばジャミルは、グレイにもよく突っかかっている。エラそうな物言いが我慢ならないと本人は文句を言っているが、ミリアム曰く『あれは仲が良い証拠でしょ』、らしい。クローディアにはよくわからない。
「あれで仲が良いの?」
「あれだけやって仲間で居ることをやめない、ってところがね」
可愛いじゃないのとミリアムは笑う。クローディアは少し顔をしかめた。



「貴方はあの人が嫌いなの?」
「なんだよ、藪から棒に」
「いつも文句ばかり言ってるでしょう」
「あのなぁ」

同じ弓を使う者同士で、手入れや補強のために武具屋に寄っていた。待ち時間の暇にクローディアは率直な疑問をジャミルにぶつけた。『あの人』で彼女が指した人物についてはすぐにわかったのだろう、ジャミルは呆れた声色を出したが、いつもの不愉快さはなさそうであった。
「人を勝手に心の狭そうなヤツみたいに言わないでくれよ。そりゃ一緒に旅してんだから文句のひとつやふたつ、あって当然だろ」
「じゃああの人が好きなのね」
「そういう風に言うなって。誤解されたら困る」
「貴方とあの人は仲が良いって、ミリアムが言っていたわ」
「やめてくれよ、気色悪い」
「あの人も、貴方を邪険にしたりしてないものね」
「……なぁ、クローディア」

ジャミルの表情が、今まで見たことのないものになっている。神妙そうでありながら、どこか浮ついて気恥ずかしげだ。いつも澱みなくすらすら発せられる声は、戸惑いからか少々どもっていてぎこちない。どうしたというのだろうとクローディアが首を傾げると、ジャミルはぶんぶんと頭を大きく横に振った。

「あんた、そんなにおしゃべりだったか?」
「………」
そんなに喋っているつもりはなかった。だが確かに、普段の口の堅さに慣れていればこれは少しおかしく思われる状況なのかもしれない。何が訊きたかったのだろう、会話を遡りながらクローディアは考えた。
「今のあんたの顔、教えてやってもいいんだぜ」
「………」
「もっと他に俺に言いたいことがあるんじゃないのか、なぁ」
「…わからないわ」

そう、わからなかった。ジャミルよりも長く彼と旅をしてきたはずなのに。雷のように言葉を落として、他人を感電させていくあの人と、まともに喋ったことなど一度もない。言いたいことは言えと自分に言い聞かせるくせに、ジャミルのようには催促してくれず、ジャンのようには会話を引き出してくれず、ミリアムのようには絡んできてくれない。何もしてきてはくれない。雷は一瞬、音がして光ったと思えばもうどれだけ目を凝らしても見ることができず、僅かな痺れが残るだけ。

それでもかまわないと、ふたりで歩いていたときは思っていた。会話など面倒で、言葉で伝えるのは難しい。必要とされないならその方がいいと思っていた。

「…貴方と、」
「ん?」
「貴方と、言葉を交わしているときのあの人の方が、黙っているときよりもずっと、好きなの」






ミリアムは何度も瞬きして、不思議そうにクローディアを見た。クローディアの表情はいつもと変わらない。だがそこからは、少々思い込みが強くて気配を察しないミリアムにもわかるように感情が乗せられていた。
「あんたがそんなこと言うなんて、思いもしなかったわ」
「変、だと思う?」
「ううん、あたいはそっちのあんたの方がいいな」
輪郭が見えてきたみたいで、と、彼女は無邪気に笑う。輪郭とはなんだろう。かたち、自分の姿のことか。今までずっと自分は、透明人間だったのだろうか。
「簡単よ。今みたいにすればいいじゃない。ほら今できてるんだから、あいつ相手にできないはずなんてないよ」
クローディアの背中を軽く叩くミリアムはなんだかうれしそうだった。そこからはずっと、スキップするような足取りで彼女はクローディアの前を歩いた。






ジャンが頭を掻いて乾いた笑い声を出している。ああ、ジャミルのときと同じだ。戸惑っているような気恥ずかしげなような。あの後、ジャミルには大声で笑われた。俺に嫉妬するなよと文句を言われたが、嫉妬など微塵もしているつもりはなかったから、少しだけ彼を睨んだ。
「クローディアさん、あいつもそんなに器用なやつじゃあないんですよ。確かに、無駄話は好かないって言ってますし、放っておいたらひとっことも喋ってきやしませんけど、でもそれはそうだな……貴方と同じような理由だってあるんです」
「でも会話にならないのよ」
「話をぶった切ってしまうというんでしょう?詮索させる暇も議論を交わす暇も与えないって。昔っからそうなんですよ、グレイって男は」
「でも、」

何かが違うのだと、クローディアは首を振った。ジャンが一方的に話しかけるのに対して、勝手に会話を終わらせようとする彼のすがた、かたち。違う、自分とは違う。帝国内を観光していたときには一度も見られなかったのだ。

「貴方がうらやましいんじゃないのよ」
「ええ」
「自分が悔しいの」
「ええ」

ジャンの優しげな声が心地よかった。人間は、言葉を尽くす生き物だ。煩わしいし面倒で、もうそれ以上にはないけれども、このやり取りはどこか何か幸せを感じた。


それがほしかったのだと思った。


















「強い敵が居るのね」
「だろうな」
「危険を冒しても構わないと思えるほど、貴方にとって価値あるものなの、あれは」
「さあな」
「………」
「準備はできたか。良ければ、行くぞ」
「負けることは考えないの」
「結果が見えていないなら、考えるだけ無駄だ」
「怖くは、ないのね」
「怖いさ」
「見えないわ」
「必要ないからな」
「本当に?」
「少なくとも今は」
「私が怖いといったら?」
「それは仕方ない」
「貴方ひとりでも行くというのね」
「そうだな」
「貴方は勝手な人だわ」
「そうだろうな」
「怒らないの?」
「そんな風にしかなれなかったからな」
「諦めているの」
「受け入れているんだ」
「それは運命?」
「いいや」
「わからないわ」
「それでいい」
「……貴方がわからないわ」
「奇遇だな、俺もわからん」
「…………もう、良いわ」
「行けるのか?」
「ええ」



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