見事な美しさを持つ細剣だった。それを皇帝陛下の手から受け取ったことは、これこそ帝国の一兵卒として最高の誉れと涙も出そうな感動であった。この褒美は皇帝陛下の病を治療した功績を認められてのものであり、勿論それを行ったのは自分ひとりでは決してなかったが、この剣を授けようと陛下が仰られた瞬間、グレイがジャンの背中を軽く押し出したのだ。視界の端には、ジャンの直属の上司であるネビルの姿も認められた。緊張したなどというレベルの問題ではなかった。文字通りジャンは硬直して、ぎこちなさを隠せないまま皇帝陛下の前へ歩み出た。




懐かしいことを思い出した。あれはまだ、親衛隊にも所属していない頃の、本当にただの一兵卒だった頃のこと。見た目も中身も今より若い…というより幼いジャンに、見た目や身なりは変わったが、中身は今と大して変化のないグレイが、そこには居た。

別段仲が良かったわけではない。彼ら以外にも兵士はたくさんいて、ジャンはむしろグレイよりも他の同期たちとよく話したし、共によく任務をこなした。ジャンは元来よく喋る男だった。幼少期はブルエーレで親の商売を手伝いながら育った。愛想を作るのでなく、心から表情を生み出せること。気遣うことを意識するのでなく、自然にふるまえること。それを優しい父親に教え込まれた彼は、隊の中でも好印象で、友人も多かった。

反対に、グレイは隊の誰とも馴れ合うことはなかった。時間のあるときは、仲間と談笑するよりも修練所で剣を振っているような男だった。必要最低限のことしか口にせず、その言い方もどこか尊大で、ついでに愛想もなかった。同じ隊に属するものたちも彼を遠巻きにした。それを、彼も全く気になどしなかった。

同じ隊に配属されたふたりだったが、しばらくお互いに言葉を交わす機会は訪れなかった。灰色の髪と瞳を持った、この不思議な男についての噂はもちろん、ジャンも知っていた。気になる人物ではあったが、もともとあまりひとつのことにこだわることのない彼は、グレイを見るたびにその噂を思い出す程度の認識しか持たなかったのである。



それが破られたのは、ある日の休憩時間だった。その直前に、ジャンは隊長と手合せを行っていた。毎週恒例の訓練の一種なのだが、ジャンは毎度いい結果を残せずに同期たちに笑われていた。親しい友人たちの笑いは、慰めのものだった。しかし中には悪意のこもった笑いもあることを、彼は肌で確かに感じ取っていた。
悔しさをそのままに、ジャンは修練所へと足を運んだ。昼の時間は人が少ない。当然ながら、皆一様に午後に備えて昼食をとっているからだ。ジャンも食事をしていないわけではない……ただ、いつものように同期たちと談笑しながら食事をとる気になれず、ほとんど駆け込むようにして喉に通した。

手頃な場所を陣取って、腰の剣を引き抜く。ジャンの得物は長剣だった。軍から配給された一級品…幼い頃の商人体験で培った目利きは今でも冴えている…今のジャンの命とも呼べる大切なものだったが、先ほどは無様に取り落としてしまった。いつも愛想よく調子よく、もちろん自分は明るい人間だとジャンは疑っていなかったが、あたりまえの感情はあたりまえに持っているのだ。笑われれば悔しい。格好悪いところを誰かに見られれば恥ずかしい。思い返して、舌打ちをした。されると印象がわるいからしたくなかった。けれども思わず口をついて出た。

型を確認するように剣を振う。仮想敵のあらゆる行動パターンを予想して動きに反映させる。長剣は、相手の間隙を縫いながら一撃をどれだけ大きく叩き込めるかが重要だ。


ギンッ!と鈍い音がした。剣が修練所の地面に突き刺さる。やはり手から滑り落ちたようで、右腕がひどく痺れていた。左手で手首を握りながら、開いてとじてを繰り返す。突き刺さったままの剣がそのままがらんと地面に転がった。

「あ、」
「……」

拾わなくてはとそちらへ体を向けると、先にそれを拾い上げた手があった。灰色の髪の隙間から、灰色の瞳が見えた。先の時間にも姿を見た、他にそんな特徴的な髪と目を持っている人間はいない。それは紛れもなくグレイであった。ジャンは頭を掻いた。
「いやぁ、ははは……すまない」
口をついて出たのは、そんな言葉だった。
「どうして俺に謝る。お前に何かされた覚えはないが」
「いやぁ、その……」
自分が、誤魔化してやり過ごしたいと思っているのは明白だった。そんな自分を嫌悪した。ちらっと様子を窺えば、既にグレイはジャンから視線を外しており、何かを考えるように手にしたジャンの長剣を見つめている。

「…すまない。それ、返してもらえるか?」
「ああ、」
そう返事したものの、グレイはやはり剣を見つめたままだ。ジャンは苛立つよりも首を傾げた。しばらくして、不意にグレイが顔をあげた。長い前髪がさらりと流れ、灰色の瞳と再び相見える。思ったよりも綺麗な顔をしているとジャンは思った。
「少し待っていろ」
「へ?」
返してもらえると思って差し出し続けていた手には何も乗せられず、グレイは踵を返して修練所の隅へと足を運んでしまう。ジャンは慌ててそのあとを追った。そこには修練用の武器が所狭しと並べられてあったのだが、グレイはその中から迷いなく細剣を引き抜き、そのままジャンの右手に握らせた。
「な、なんだ?」
「それを使え」
「これ、細剣だぞ」
「お前はそっちの方が向いている」
ジャンは素直に困った顔をした。同じ隊に所属しているとはいえ、ジャンはまともにグレイと話をしたことなどなかったし、これがほとんどはじめての『コミュニケーション』というやつだったのだ。なのにいきなり長剣をとられて細剣を持たされて「それを使え」だなどと言われても。

困惑は尤もなはずだったが、グレイは当然というようにジャンが細剣を扱うのを待っているように見えた。何を言ってやればいいかわからず、ジャンはあきらめて構えを取る。細剣の使い方も一通り教わっているからそこは難しくない。だが実際に振うとなると、ずっと長剣を扱ってきたクセが抜けず、どうしてもぎこちなさが残る。

2,3度ジャンが細剣を扱うのを見てすぐに気付いたらしいグレイが、先ほどの武器の列から同じよう細剣を引き抜いた。ジャンはグレイの様子をそのまま観察する。彼もジャンと同じく、長剣を好んで使っていたはずだ。細剣を使うところを見るのははじめてだった。
「構えろ」
しかし彼はジャンのようにぎこちなさもなく自然な体でそれを構え、瞬間、普段使いの武器ではないことなど感じさせない動きを見せた。来る、と理解していたにも関わらずジャンの動きは鈍る。そこを見逃さずにグレイは大胆に踏み込み、素早く手首を返してジャンの喉元を確実に狙ってきた。弾こうとしたが一歩間に合わず、少し動けば喉に刺さる、というギリギリのところでグレイの剣は止まった。しばらくそのまま硬直する。

ジャンはゆっくりと両手を挙げた。
「参ったよ。すごいな君は」

思ったよりも間抜けな声が出た。素直に感嘆してしまったのだ。普段使いではないのが本当に不思議だ、まるで自分の腕の延長のように扱っている。動きに澱みがないし、相手の急所を突くことに対して躊躇いもない。賛美できる部分はたくさんあった。何より、軍で教わった型を大きく外れずに、我流を混ぜ込んでいることに驚いた。
「お前の方がもっと上手くなれる」
「…さっきから気になってたんだが、何を根拠に言ってるんだそんなこと」
こちらとしては、語尾に疑問符をつける意味でそう言ったつもりだったのだが、伝わらなかったか無視をされたか、グレイはそれに対して返事はしなかった。元の場所にさっさと細剣を返して、あろうことかそのまま立ち去ろうとした。ジャンは思わず、待った待った!と声をあげて、その左腕を掴んだ。
「なんだ」
少々不愉快そうに細められた灰色の瞳が、やはり印象的だった。

「できれば、……できれば、もう少しここで教えてくれないか?時間があればでいいからさ。ひとりじゃどうにも……」
口にするべきかは最後まで逡巡した。だがここは思い切るしかない、あのぎこちなさでひとり練習していても実になる気はしないし、かといって今から他の人間には頼みにくかった。やはり困ったように頭を掻くジャンを、グレイはただ黙って少し見つめた後、左腕を掴むジャンの腕を取り払ってから、
「……仕方ないな」
と、小さく頷いた。
「本当か!」
「ああ」
ジャンはこの上なく破顔して、自身の右手でグレイの右手をしっかり握りしめた。握手のつもりだったのだが、右手を掴まれた瞬間、反射的にであろうかグレイは避けるように腕を引いた。しかしそれにも気づかないまま素早くそれを掴みとったジャンは、そのままもう片方の手も添えて上下に大きく振る。グレイが眉を顰めるのが見えた。













皇帝陛下から賜った細剣を、掲げたり構えたりしてみながらジャンは懐かしい記憶に思わず笑みを零す。あの時グレイが自分に細剣を渡さなければ、今ここでこれを自分が受け取ることもなかっただろう。あれから、修練所に居るグレイを捕まえては何度も手合せをした。グレイが軍を去ってからもひとりで毎日通い詰めた。グレイが毎日そこで剣を振っていたのを真似するように。

「おい」
既に夜も更けていた。宿の外で何度も細剣を振っていたジャンに、グレイが声をかける。
「もう休め。二つの月の神殿からそのまま戻ってきたから、体力の消費も激しいはずだ」
「ああ、悪い」
「……何も悪いことを、」
「された覚えはないっていうんだろ?君は変わらないな」

形は、少し変わったかもしれない。軍の制服姿しか見たことのなかった彼だったが、今は冒険者らしい恰好で、得物もあの頃の長剣ではない、長くて古ぼけた刀を腰から提げている。
「いいからさっさと休め」
声を殺して笑った。グレイが訝しげにこちらを見る。

世話焼きな人間だということはない。むしろ必要以上に人の敷居へ踏み込んでくることのない奴だというのに。自分とは正反対だった。自分の場合は、ついうっかり踏み込んでしまうといったことが多かったが、それは置いておいて。


「なぁグレイ」
「なんだ」
「俺に細剣を勧めた理由って、結局なんだったんだ」
「……」

宿に戻ろうとする足をぴたりと止めて、グレイはしばしその場に立ち止まる。
「………お前は詰めが甘いが、器用な奴だ」
「へ?」
「無意識に相手の動きを探り、感情の流れや行動の要因、それらを機微に捉えて自分がどう対応すべきかを常に考えている。細かいことを気にしないわりに、そういった部分での気の回し方は鬱陶しく思うほどに手が込んでいる」
「……ええっと、つまり俺の性格、というより性質?からそう判断したってことか?」
「腕力はあるが、頭の出来がよくないのも含めてな」

最後のは半分、冗談交じりで口にしたのだろう。表情こそ変えなかったものの声が少し柔らかくなった。ひどい言い様だと少し抗議してみるが、笑いが堪えきれなくて結局それも冗談になってしまった。



そういった性質自体は、まだ親の庇護の下で生きていた時代に培われたものなのかもしれないが、正確に相手から読み取ろうと意識しはじめたのはきっと、グレイと関わってからだ。何を考えているかよくわからなさそうに見えて実はとても明快な思考をしているこの男の、しかし複雑で突飛な感情表現を察してやろうと躍起になった。そこに境界線は見えていなかった。他人の領域に踏み込まないのは自分の領域を侵されないためだと、そんな当たり前のことだって無視をした。だってほら、君だっていつもその外側から、先を、物を、相手を指し示してみたり教えてみたりしてないで、たまには同じように隣を歩いていきたいときもあるんじゃないか?


細剣を仕舞う。陛下から賜った大切なものだ、丁重に扱わなければと思うと同時に、これが折れるくらいには使い込まなければと首を強く縦に振った。旅の先々に修練所はないが、歩調は緩めないで進んでいきたいのだ。追いつくことができなくなってしまわないように。


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