部屋に戻ろうと廊下を行けば、聞き慣れたピアノの音がした。案の定部屋ではオリビエが鍵盤を叩いており、入ってきたミュラーを歓迎するように美しい音を響かせる。ミュラーは何も言わず、観客としてちいさな演奏会が終わるのを待った。
「やぁミュラー・・・お疲れさま、嫌な役目を押し付けてしまったね」
それが何のことを指しているかはすぐに理解した。先ほどまで少しはなれていたのは、着替えていたからだ。
鉄のにおいを残したままオリビエの前に立つのは些か不安が残る。
「誰かがやらねばならんことだ」
「それでも好んですべきことではないと信じたいね」
なぜ殺さないのだ、という怒声なら何度も耳にしたことがある。我ら誇り高き帝国貴族の命を狙ったのだ、死を以て購わせよ。ただ私腹を肥やして自らの保身ばかりにその矮小な頭を回転させる、お前たちに誇りを語る資格があるのかと心のなかでは悪態を吐きながら、ミュラーは冷静に言葉を紡ぐ。
「我々は帝国軍隊であり、蛮族の集まりではない。法の下、皇帝の命の下、然るべき処置であると判断できねばその行為は殺戮と何ら変わりあるまい」
しかしそれは、返せば法の下、皇帝の命の下、剣を抜き引き金を引いて、それを正義と名付けることもできるということだ。しかし揚げ足取りのような真似をする気はない、事実だけを拾い上げる。それもまた自分が軍人であるが故、従う力の下の身故。
無益な殺戮には、たしかに興味がない。戦うことを本懐とはするものの、それは相手の命を奪うことと同義ではない。しかし例えばミュラーの使命を果たすのに障害となるものが居れば、迷いなく討つだろう。いや今さら言葉を飾る必要もない、殺すだろう、それが役目だから。
帝国内の抗争は激しく、見てみぬ振りをしても雄々しく糾弾の声を挙げても、無関係では居られないのが現状だ。オリビエの命を狙うものは多数居たが、オリビエはどんな暗殺者も犯罪者も、殺してしまえとは決して言わなかった。例え自らその銃口を人に向けても命は奪わなかった。おかげで危うい綱も何度か渡ったが、その選択に間違いはないと云うようにオリビエは堂々としていた。
「まずは姿見が必要なんだよ」
言いたいことはわかる。やりたいことも知っている。争いごとが嫌いなのだ、わかっている。だがそんな気高い我が儘もいずれ通用しなくなることを、ミュラーはずっと昔から懸念し続けてきた。
そしてそれが現実となっても、オリビエが決してその態度を覆さないであろうこともまた。
人を殺すのは本懐ではない。軍人だから、その過程にそれが含まれることはあろうと、それ自体は目的とはなりえない。好もうとも思わない。しかしミュラーにも、こうして剣を突き立てるときは来る。戦場以外で。奪うために。自由と尊厳を。この手で。
後悔しないことだけが慰めか、優しい我が儘を守るためだと呟けば、幾分も修羅になれそうだった。
「ミュラー、だいじょうぶかい?」
「ん?・・・ああ」
「今日はもう休んだらどうかな。大丈夫、君が見張って居なくてもちゃんと仕事はするからさ」
「・・・本当か?」
「本当だとも。・・・そんな露骨に不審の目を向けなくともいいじゃないか」
いつもの軽口を叩きながら痛ましそうにミュラーを見る。当たり前だ信用などあるか阿呆と突き返せば、すっかりふざけた声色でわめき返す。それが半ば当たり前で、半ばため息の出るはなしで。
・・・自分は軍人だ、そうであってよかった。ほんのすこしの美しい感情も、あの男の下に置いていけば、それだけですべてを守れる。
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