サガは目を覚ました。ゆっくりと明確になっていく視界には、慣れた自室の天井が映っている。窓の外は明るい、朝が来たのだ。上半身を起こしながら傍らの時計を見て時間を確認し、床へと足を伸ばした。
今日は、わたしの誕生日である。
24hours ago
サガは今までただの一度も、この日を忘れたことはない。どんなに多忙な時期でも、それどころではないほど鬱屈を抱えていても、この日だけは忘れたことがなかった。
何時だって生まれた日は特別だ。
強い罪悪感は消えないまま生きることを続けていても、生まれたことまで罪にはできない。それをサガは知っている。祝われたいなどと傲慢は疾うに捨てた。自分はそれに値する人間ではないし、誰かに欲しいとねだるような権利も心もない。
だから今日も、ただ目を覚まして生まれた日に想いを馳せるだけ。これまで続いた自分を振り返りながら、これから続く自分を考えるだけ。
23hours ago
「誕生日だろう、サガ。おめでとう」
声をかけたのはアフロディーテだった。両腕に真っ赤な薔薇の花束を抱えて、教皇宮へ参内するサガを一歩手前で待ち構えていた。サガはやわらかに微笑んだ。その笑みにアフロディーテも美しい顔を穏やかに綻ばせ、腕の花束を差し出した。
「これは貴方に」
「ありがとうアフロディーテ。今年も変わらず、美しいな」
形が崩れないよう慎重に花束を受け取り、彼の隣をすり抜けてサガは、上の教皇宮に向けて歩き出す。
before 22hours
思い出はいつも華やかだった。
「おめでとうございます双子座様」
神官が、自分よりも明らかに年下のサガに向かって、恭しく頭を下げて賛辞の句を並べる。雑兵から聖闘士、果ては教皇までもがサガに美しい言葉を与えた。嬉しい、とは少し違う。有り難さと誇らしさ、サガはそう、自分がこの聖域で聖闘士として女神の為に生きていけることに、強い誇りを抱いていた。
本心のない賛辞があることだって、当然わかっている。
それをひとつひとつ察して意識するなど無駄なことだ。その悪意とも呼べない感情は人間なら誰だとて持つもので。好ましい感覚と思えなくともサガにはどうしようもない。それでもこの光景はサガの記憶の中で少しも褪せることなく鮮やかで、美しかった。
「サガ!」
こちらに向かって走り寄る忙しない足音が聞こえて、サガの腰ぐらいに位置する頭が目の前に4つ。
「おめでとうサガ!」
サガを下から覗き込むように彼らが顔を上げる。ずい、と差し出されたのは大きな紙袋で、既に中身は溢れ落ちそうな程に詰め込まれていた。
21hours ago
誕生日まで執務を行うことはないよと、教皇宮へ向かおうとするサガにアフロディーテは声を掛けた。同じことを、既に上で書類をまとめていたデスマスクにも言われた。サガは困ったように笑った。誕生日と言えど、仕事は仕事、役目は役目だ。代わりにやるからとサガを追い返そうとするシュラにも申し訳がない。わたしの事なら気にするなと、説得したところで納得されそうもないが、どうしたものか。
「そもそも執務を休んだところで何もすることがないのだ」
机の上に転がした本の続きを読むのか?ここずっと整理をしていない部屋の片付けをするのか?修練場へ赴いて後輩たちに指導を行うのか?
「何でも勝手にすりゃあいいじゃねえか。あんたの誕生日だぜ」
デスマスクが返した答えは尤もで、同時にサガを困惑させた。仲間外れを喰らった子供のようにサガはシュラに助けを求めた。シュラも困ったように首を横に振るだけだった。
20hours ago
とぼとぼ、という形容がぴったりくるほど、見るからに落ち込んだ様子で十二宮の階段を下りてきたサガに、カミュは頭をさげて祝辞を述べた。サガは柔らかく微笑んで礼を返したが、どことなく空気は沈んでいる。
「どうしたのだ」
「デスマスク達に執務を休めと追い出されてしまった」
「誕生日なのだから、妥当ではないか」
しかしすることがないのだ。正直にそう告げてもカミュは笑ったり呆れたりしなかった。思案するように少し眉をひそめ、サガをじっと見つめている。
「昔は必ず休暇を承っていたのに」
「それは…」
今日は特別な日だという、確かな認識が存在したからだ。己が産声をあげ呼吸を始めた瞬間を、誰よりも己が忘れ得ぬよう。
「…わたしだとて、あの頃はまだ誕生日に喜ぶ小さな子供だったのだよ、カミュ」
「そんな筈はない」
寂しそうに告げたサガに、カミュは素早く食い下がった。怒りや苛立ちはない。突き詰める声はむしろ静かで穏やかだった。
「そんな筈はない。サガ、貴方がこの日を蔑ろにしたい筈はない。何度死んで、何度甦っても変わったりなどしない、わたしは知っている」
何を、などとは愚問だろう。サガはようやく表情を曇らせた。遠い昔この腕に抱き上げた幼い体は疾うにサガと同じくらいに成長して、既に同じ目線に立ちつつあったのだと。当然のことに今更俯いた。
before 19hours
「えーっ!今日はサガ稽古つけてくれないのー!」
修練場の入り口にミロの不満そうな声が響いた。その隣には同じく不満げに頬を膨らますアイオリアと、ふたりのようにあからさまではないが、不服だとはっきり顔に描いたカミュが居た。その三人の見上げる先には、いろんな人から受け取った贈り物を腕いっぱいに抱えたサガが居た。
「誕生日なんだ、だから今日1日サガはおやすみだよ。代わりに俺が全員纏めて見るから」
「ええー!」
「ええーとか言わない!」
その隣で三人を小突いて説得するアイオロスにサガは申し訳ないと顔を向けた。
「無理を言ってしまったな」
「なぁに、気にするなよ。せっかくの誕生日じゃないか。1日休んだくらいで女神はお咎めなんてしないよ」
次は彼に対して文句を口にし始めたミロとアイオリアをふざけた様子で小脇に抱えてはしゃぎながら、ああ俺からも、おめでとうサガ、と屈託なく笑ったアイオロスはそのまま修練場へと消えていく。腕に抱えた荷物で手も振れないサガは姿が見えなくなるまでその場で彼らを見送り、ようやく踵を返した。
before 18hours
ようやく戻った自宮の中に人の気配はなかった。サガは少し険しい表情をして宮内と、その周りを軽く見回す。普段十二宮には守護者以外の者はいない。故に当然ながらそこには誰もいない。
「カノン」
殆ど風にかき消されるほどに小さな声で名前を呼んだ。返事はない。いつもはそれで僅かに揺らめき存在を主張するものも今は感じられない。本当に、この場にはいないのか。
「カノン」
直ぐに戻るから待っていろと言ったのに。素早く宮内に抱えた荷物を置いて、再び外へ出た。すると下へ向かう階段からサガのものと寸分違わない顔がひょっこりと現れた。
「カノン!」
多少の苛立ちを含んでその名を呼ぶ。わざとらしくたった今気付いた風を装ってサガを見たそれは、何食わぬ表情で
「なんだ兄さん、はやいじゃないか」
などと大袈裟に肩を竦めてみせた。
before 17hours
食卓には大量の皿が並べられている。その上には食欲をそそられる料理も乗っているのに、それを挟んで机のあっちとこっち、サガはカノンを睨み付け、カノンはサガからあからさまに顔を背けていた。
「何処へ行っていたんだ」
「別に何処でもいいだろ」
「待っていろと言ったじゃないか」
「朝起きてから昼のこの時間まで、何もせずにずっと此処でか?勘弁してくれよ」
「それだけじゃない。これは何処から持ってきたんだ」
サガが指差したのは食卓の中心に置かれた小さな籠だった。中には幾つもの新鮮な果物が入っている。
「何処からだっていい、」
「よくない。俺はお前に金銭の類いを渡した覚えはないぞ」
椅子の背凭れに体を預けて頭の後ろで腕を組み、態度の悪さを隠さないカノンにサガは今一度はっきりと苛立ちを見せた。天頂した太陽が突き刺すように部屋を照らしている。カノンはうんざりと溜め息を吐いてから不快そうに瞼を閉じた。
「拾ったんだよ」
「拾っただと?」
「ああ」
「そんな馬鹿なことがあるか」
「じゃあ知らん」
「カノン、正直に言いなさい」
「正直に言ったじゃねぇか」
わざと大きく舌打ちを打って、わざと勢いよく席を立って椅子を床に転がせた。そのまま部屋から出ていこうとするカノンの腕をサガが掴んだ。
「まだ話は終わってない」
「もう終わった」
「かの、」
「どうせ何言ったって信じる気もないんだろ。本当の事なんて誰が言うかよ」
弾き飛ばすようにしてサガの腕を振り払ったカノンはくるりと背を向けて部屋を出ていった。ばたん、と扉が音をたてて閉まる。それをサガは、空中にてのひらを漂わせながら見送っていた。
16hours ago
そう、あの愚弟のことを言及することを忘れていた。
サガが誕生日ということは、双子の弟たるカノンも誕生日だと言うことだ。勿論サガ自身がそのことを意識していなかったときは、あの十三年間以外には一度もない。
教皇宮より追い返されたのち、自宮に戻ってリビングのソファーに座りぼんやりと何もない食卓の上を眺めていたら、何故か昔のことを思い出した。そう、誕生日には、年によって多少大小に差はあれど、サガはいつもカノンに何らかの贈り物をしていた。自分はいつも各方面から様々に貰っていたが、聖域内では“認識”されていない弟には当然ながら何も無く。
それを不憫に思ったわけでもないが。祝われないからとカノンが己の誕生日を蔑ろにしていくのに耐えられず、任務や幼い候補生たちの世話の合間に準備をしていた。確かあの年は直前に任務が続けて入ってしまって、何も贈れない代わりに食事を用意したのだ。
before 15hours
カノンが去っていった部屋の中に、料理と、出所の不明な果物と共に残された。気配が完全にわからなくなったのがわかると、急に腹の底から気持ちの悪い感覚が込み上げてきた。せっかくの誕生日なのに。
しかし本当に、この籠と果物は何処から持ってきたのだろう。疑ったのは既に前科があるからだ。カノンが聖域を抜け出して村や町で店の商品をくすねてくるのは何も珍しいことではなかった。しかもこれが頭の痛いことに、カノンの存在は“認識”されていない為、商品を店に返して反省させようにもできない状況にあった。
実の弟なのだ、勿論どういった生き方を選ぶかは彼の自由だとは思う、思うが。
身内が故にその放埒さが酷く憎くもあり、例え少々手荒な真似をしても何とかしたい、否、しなければとサガの思考はぐるりと回った。
14hours ago
決して明るい人格で居られるような環境に育っていないことは認めよう。カノンは日に日に卑屈になっていったし、言うことも聴かなくなっていた。しかしサガにはその破滅過程が彼の中で今ひとつ繋がっていないところがあった。四六時中共に過ごしているわけではないために当然と言えば当然だが、確かに知らないカノンが『何処か』に居て、『何処か』で成長を繰り返していた。…存在していない事になっていた者に対してその表現は、些か不可解であるかもしれないが。
その抜け落ちた時間が気になって仕方がなかった。僅かな寂しさのようなものなものだったと思う。しかし当時のサガにはそんな個人的な感情よりも、その事が為した多くの弊害の方が問題であった。
before 13hours
ふと、籠の中の果物に何か小さい箱のようなものが埋もれているのが目に入った。慎重に上に乗っかる林檎を避けて手に取ってみる。軽い箱だった。表にはとても小さな紙が貼ってあり、端麗なギリシャ文字で『たんじょうびおめでとう』とだけ書かれていた。
カノンは何処へ行ったのだろう。そういえば朝から姿を見ていない。今日は海界に行く日だったか。
ソファーに身体を預けながら、眼球だけゆるりと動かして部屋を見回した。どこかに隠れているのでは、と一瞬頭を過った発想はすぐさま端に追いやる。
十三年という長いブランクの末、とうとう贈り物はしなくなった。昔はあれもこれもと候補を挙げてはは最終的に何をやるかと悩んでいたのに、決別したその時から、もうカノンに何をくれてやればいいのかわからなくなってしまったのだ。誰も“認識”していないひとりの弟を、この世でただひとり生きた人間として知っていると信じていたけれど。実際にはわからないことばかりがあって、彼が何に傷付き、何に喜ぶのかもまるで見当がつかない。
12hours ago
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