慌ただしくどたどたと、十二宮の階段を駆け下りてくるアイオロスをシオンはきつく睨み付けた。遅刻だ、と言い放つと、申し訳ありませんと困ったように笑う。
「私を待たせるとはいい度胸だな。何をしていた」
「法衣を着るのに手間取りまして」
「嘘を吐け」
言いながら、それ以上の言及はなかった。すぐに踵を返して歩き始める。控えていた祭司達、三、四人もぞろぞろと動き始めるのを見て、頭を掻きながらアイオロスはシオンの後を追う。
片手には、乱雑に折り畳まれた紙切れが一枚。それをもう一度開いて中身を確認する。それは正式な文書でもなんでもなく、教皇シオン直筆のほとんど走り書きなメモであった。明らかに違う紙の端に書いたものを其処だけ千切って渡した、といった印象である。
女神の慈悲で再び得た命。生前の取り決め通りにアイオロスは、『教皇補佐』という形で、実質『次期教皇』の扱いを受けてはいた。しかし実のところ、『教皇補佐』として任務をするのはこれが初めてなのである。同じ『教皇補佐』であるサガは、シオンに付き従い近隣の村落に慰問へと出掛けたり、また聖域内における緊急時の決定権なども持ち合わしていた。これは勿論、サガには望まれぬ形であったと言えども13年、教皇であった経験と実績があるというのが理由だ。対してアイオロスは、どちらかと言えば今の聖域の事情には疎く、何だかんだで経験もない。『次期教皇』の指名を受けているのはアイオロスの方だが、どちらかといえばやはり『自分は射手座のアイオロスだよなぁ』と思うのである。
そんな自分が、初めて教皇に付き添い慰問へ出かけることになった。しかも丸二日かけていくとか言うものだから、アイオロスは少しげっ、と本音を漏らした(勿論サガに壮絶に睨まれた)。しかし一週間前の執務の終わりにシオンから軽く告げられ、更に詳しい内容はこの粗末な紙切れだ。今ひとつシオンの意図を汲めないまま、アイオロスは当日を迎えていた。
それなりの遠出となるらしい。紙切れからそれはわかっていたが、実際にこうして移動してみてそれをしみじみと実感する。鉄道を使ってヨーロッパを横断した。
「なんでまた」
テレポーテーションでも何でも、シオンであればこの人数でも容易いだろう。只でさえ教皇は多忙だというのに、わざわざ時間をかけて移動する必要など。
「…思考を、」
シオンが気だるげに口を開く。
「切り換えるにはな、時間をかけることが不可欠だ。そうだな、執行猶予だと思え」
「し…って、何か刑に処されるんですか、私」
わざとアイオロスはふざけて返事をした。シオンは気にもかけず、瞼を下ろしてじっとしている。思考をしているのだろうか。見ながらぼんやりアイオロスも自分が処される刑について考えてみる。
車内アナウンスが目的地の名を告げた。
「…みっつだ」
立ち上がるシオンが威厳ある声で言う。
「アイオロスよ。今から私はお前にみっつの質問を与える。この二日間でその答えを自分なりに見つけ、私に伝えてみせよ。ただし、いい加減な解答は認めぬ。私を納得させることができたら合格だ」
アイオロスはぽかんとした。ひどく間抜けな面を教皇の前で晒していることにも気付かず、一体何に合格するというのだろう、と疑問符を浮かべた。
「それが、刑でございますか」
「課題だ」
突き放すようにシオンが続ける。
「一度しか云わん。よく耳に突き刺しておけ」
その時、列車はゆっくりと速度を落として停車した。他の乗客たちが軽く会話を交わしながら降りていく、その下車の振動が床から伝わる。先立って降りる祭司たちに続いてシオンも降りた。最後にアイオロスが地面に足をつけると、列車は大きな音を立てて駅を走り去っていった。
此処は、聖域縁の地であるらしい。世界各地に設けられた聖闘士修行地とはまた少し違い、世界の平和を守るべくして監視、情報収集、或いは事態の解決のためにこういった場所は幾つか存在する。聖域と同じく、俗世間から隠れて維持されているものもあれば、周囲の環境にすっかり溶け込んで巧妙に持続しているものもある。
かくいうアイオロスも、そういう場所に赴いたことが無かったわけではない。黄金聖闘士となったばかりの頃、他に黄金聖闘士がサガしかいなかったということもあり、白銀聖闘士や青銅聖闘士たちの手に余る任務を全て二人で捌いていたのだ。それはもう大変などでは表せないほどの忙しさであり、また聖戦が近いのではないかという噂通り、各地で様々な異常も発生していた。今から思い直し、あんなにも走り回ってよく疲れなかったなぁなんてアイオロスは考えるのだが、まだ20にも満たなかった自分というものは、つまりそんな生き物だったのだろう。
そこは山の中腹に、人目を避けるようにひっそりと存在していた。特別結界が張られたりしているわけではないようだが、人里からはきっとわからないだろう。小さな集落の様相をして、中心には教会が建てられている。静かな場所だった。
迎えてくれた優しげな司祭の男と握手を交わす。相手はアイオロスを見て、いや全く、もう立派な大人ですなぁ、と笑った。どうやら彼が聖域に用があって赴いたときに、一度会ったことがあるらしい。記憶を辿ってみるもアイオロスには全く覚えがなく、申し訳ないと会釈をすると、構いませんよと男はやはり笑った。
「とても小さかったですからね。無理もありませぬ」
男は一行を教会へと案内してくれた。その間、何やらシオンと祭司達は男と話し込んでいたが、自分にはあまり関係のなさそうな内容であったので、アイオロスはひとり思索に耽ってみることにした。
シオンが、列車を降りる直前にアイオロスへと送ったみっつの『課題』。それを頭の中で反芻する。
(ひとつ、お前に世界は何と映る。
ひとつ、お前は世界の行く末を何と見る。
ひとつ、お前の世界を何とする)
首を捻った。尋ねられた内容を理解できないということはなかったのだが、意図までをも一瞬で汲み取ることは流石にできず、アイオロスは悩んだ。
(難しいなぁ)
世界はどう見える、か。アイオロスには美しいものに見える。常に絶え間なく変化し、滅亡と生成とを繰り返していく、そこに渦巻く悪意や厳しい状況も含めて、世界は美しいのだ。疑いなくアイオロスはそう今すぐにでも口にできそうだった。
世界の行く末。これはもっと難しい。と、いうよりは…わからない。先のことなどアイオロスには見通せないし、例えある程度の予測をつけることができたとしても、決してその通りにはならないのが世の常だ。
さらに、世界は何とする。つまり自分はこの世界をどうしたいか、ということなのだと思うが。
(スケールが大きすぎるよなぁ)
世界って言ったって、広すぎて。アイオロスひとりがどうにかできるようなものではないのだ。勿論、聖闘士の使命はアテナに従いこの世界を守ることではあるが、それと世界をどうのこうのは全く別の話だ。
考えれば考えるほどよくわからない質問だとアイオロスは少し息を吐く。と、建物の影から小さな子ども達がこちらを不思議そうに見つめているのに気付いた。
「ああ、あれは此処で引き取った孤児達です」
案内された教会の中で、ある司祭のものがそう教えてくれた。
「候補生ではないんですね」
「ええ、まだ幼いですから…何人かは、此処からも修行地へ行きましたよ。帰ってくるものは少ないですがね」
アイオロスは思い返す。自分がまだ修行中の身だった頃のことを。そういえば何度も死にかけたなぁなんて、今から思うからのんびり言えるが、当時はそんな軽いものではなかった。何度死線をさまよったかなんて覚えていられる余裕もない。だがまぁ、修行時代はなんだかんだいってまだ『修行』だった。聖闘士になってからはその比ではなく、ただその修行の間に幾度となくさまよった死線が、そうなってからは非常に重要であったということは言うまでもないだろう。
(何もそんな大変な思いを強いる必要はないよ、なんてなぁ。言えないよなぁ)
女神の下で戦い続ける自分に、アイオロスは疑問を持ったことがない。他の聖闘士たちもだろうが、それはひとつの誇りであり、自分たちの生きる意味であるからだ。生まれ落ちたその時から、わずかにわずかに積み重ねて作り上げられた。
「あの子たちも、いずれは?」
窓越しに、走り回って転げ合う子ども達をじっと眺める。楽しそうだ。自分にもあんな時代があったということが、今は妙に信じられない。
「そうですね。恐らく、何人かは」
答えた司祭は微笑んでいた。アイオロスも微笑むしかなかった。
この集落を中心に、近辺には五カ所ほどに分かれて他の集落が存在する。それらを順番にまわり、祈祷を捧げることが仕事だという。舗装などされているはずもない土の道を歩き、多くの人に迎えられる。お待ちしておりました、遠路はるばる有り難く存じます。そういってある集落の長はアイオロス達に頭を下げた。
シオンはどこから見ても立派な教皇だった。法衣を身に纏う絢爛な外見に、厳かな物言い、超然とした態度。頭を下げる大人達には威厳は保ったまま緊張を解かせ、子ども達にはその手のひらで優しく接する。
自分もいつかあんなことをするようになるのか。思っていたら、いつの間にか自分にも下げられる頭があった。射手座様、と呼ばれるとなんだか不思議な気持ちがした。そんなに自分達は敬われる人間なのだろうか?
小さな集落には、様々なひとがいた。今年うまれたばかりの赤ん坊。シオンは抱き上げ、祝福を贈った。結婚をしたという若い男女。その縁を失わぬよう、シオンは厳しくそう諫めた。長寿を全うしたものの墓。シオンは祈った。その眠りの安らかならんことを。
集落には、いや街には、ひとの生きる世界には、ひとの一生がすべて詰まっているのだ。
病人の男がいた。寝台の上に横たわり、うっすらと瞳を開けてこちらを見ていた。既に3ヶ月ほど寝たきりの状態が続いている、医者には週に一度かかっているが、回復の兆しは見えないという。
辛いのだろうか。生まれてこのかた大した病気などしたことのないアイオロスにはわからない苦しみなのだろうか。小宇宙の存在を感知できない人には、小宇宙を送っても力にはならない。寝台の横でアイオロスは、そっとその人の目を見返した。
「流行りを遅れた感染症なのです、射手座様」
家族であろうひとりの女が涙ぐみながらそう説明した。意識ははっきりしているらしい、寝たきりの男は彼女に咎めるような視線をおくる。
アイオロスは静かに男の手を握った。何か祈りの言葉を、シオンのように、と思うが結局何も思い付かず、ただその手を顔の前へ翳し、へらりと微笑んだ。男は驚きに目を少しひらき、やがて弱々しく微笑み返した。
二日に渡って行うとはいえ、五カ所全てを廻りきるにはぎりぎりの日程である。けれども集落の人々の厚意を無碍にすることもできず、祭司たちに時間を管理されながらもできる限りのもてなしは受け取った。
この集落は比較的子どもが多いように思われた。尋ねると、違う集落の子どもも混じっていると説明された。歩きやすいように申し訳程度ではあるが整備した道を使って、毎日どこかに集まり遊んでいるのだとか。
「遊び盛りには退屈な場所でしょうに。子どもは不思議ですね、次から次へといろんなことを思いついて」
子どもは遊びの天才だ。子どもの持つ遊びの発想は大人にはできない。すっかり子どもでなくなってしまったからこそ、そう言い切れてしまうことが何というか、悲しいようで。
「混ざってきたらどうだ」
唐突にシオンがそんなことを言い出した。
「え?」
「昔は小僧どもの相手もしていたではないか」
優雅に出された茶を啜る様子から意図を汲み取ることはできない。アイオロスは困って、向かいに座る集落の長を見た。長は笑って、よろしければ是非、と頭を下げた。
堅苦しい法衣を脱いで、聖域の普段着に着替える。何かあったときの為に聖衣を着用できるよう、と下に着てきたのだったが、まさかこんなときに役立とうとは。子どもと遊ぶのに法衣姿は、流石のアイオロスも気が引ける。
「何してるんだ?」
小さな子ども達の輪の中にひょっこりと割り込み、にかりと笑いかける。子ども達は一瞬、こちらを見て固まったが、直ぐにひとり男の子が高く手を挙げて、
「パトロールなんだぞ!」
と元気に答えた。
「パトロール?」
「そうそう!」
「わるいやつがいないかみまわりしてるんだよ!」
「わるいやつがいたらこらしめるんだ!」
「へぇ〜」
次々に声をあげていく小さな子ども達と、目線が合うようアイオロスは腰を落とす。
「わるいやつがいるのか」
「うん!」
剥き出しの地面を枝で引っ掻いて描かれていたのは、実に簡易な地図だった。アイオロスも見せられたこの辺りの地図を子どもらしく改良したものである。
「全部、見回るのかい?」
「うん!」
「ときどき途中で終わっちゃうけどね」
「遅くなったら心配されちゃうからね」
「そうかー」
笑いながらその言葉に耳を傾けていると、集落に散っていた子ども達がだんだんとこの地図を目指して戻ってきた。改めて見るとかなり多い。本当に五つの集落中から来ているのだろうか。
「なぁ、これ俺も参加できるか?」
リーダー格であるらしい、太めの木枝を持った小柄な男の子にアイオロスは尋ねてみた。男の子はその凛々しい眉をちょっと寄せて、アイオロスを見つめる。どうやら観察されているようだ。子ども心に、信頼できるか否かを。だから敢えてアイオロスは優しく微笑みもせず、真剣に、しかし楽しそうに口元を緩めて彼に対峙した。
「悪い奴、俺も一緒にこらしめてやりたいな」
彼はしばらく何も言わずにアイオロスを窺っていたが、やがて力強く頷いて、
「ちゃんとついてこいよ!」
と、あくまでも子ども達の頭として尊大に言い付けた。
「…それで、この様か」
「あははは…すみません」
険しい表情のシオンが目を向ける先は、後方を歩くアイオロスとその周囲に群がる小さな子ども達。付き添いの祭司たちも困ったような呆れたような様子を隠そうとせず、互いに顔を見合わせて苦笑いする。
「村を全部回るのは一緒なんですし、駄目…ですかね?」
「もうよい。勝手にしろ」
あのリーダー格の少年を先頭に、道が狭いので二列に並んで子ども達は賑やかに行進していた。アイオロスもその列の真ん中に入って声を合わせている。流石はこのあたりを遊び場にしている子ども達だ、ろくに舗装もされていない砂利道でも誰ひとり転んだり躓いたりすることなく進んでいく。
「兄ちゃん、どこから来たのー?」
「んー?ギリシャだ、ギリシャ」
「ぎりしゃ?」
「どこー?」
「ぎりしゃのどこー?」
「聖域っていう、すごーいところだ」
せがまれて肩車をしたり片腕に三人ぐらいぶら下げたり、すっかりアイオロスは子ども達のおもちゃだった。一旦脱いだ法衣は付き添いの祭司のひとりが丁寧に畳んで持っており、端から見れば誰も彼を『教皇補佐』『黄金聖闘士射手座のアイオロス』、ましてや『次期教皇』だなどとは信じないだろう。
「兄ちゃんなにしてるひとー?」
「そうだなぁ〜…正義の味方かなぁ」
「うそだー」
「うそじゃないぞ、ちゃんと正義の味方やってるんだぞ」
子ども達は無邪気に笑った。アイオロスも同じくらい無邪気に笑い返す。先に集落の長からは聞いていた、この子ども達は聖闘士を知らない、女神を知らない、まだ神話を知らない。
次の集落に着いた瞬間、子ども達はわぁ、と蜘蛛の子散らすように駆けていった。ひとり集落の入り口に残ったのはあのリーダー格の少年だけで、あとの皆はそれぞれ誰かと一緒に集落を走り回る。アイオロスは瞬きを繰り返してその光景を見ていた。
「なぁ、何でみんなで見回りなんてしてるんだ?」
素朴な疑問だった。集落と集落の間の道は案外険しい。子どもの冒険心の賜物だと言えば確かにそれはそうなのかもしれないが、それでも毎日のように集まって組織的に行動しているのには、子ども心ながら何らかの理由があるのではと思ったのだ。否、アイオロスにはそこまでの考えすらなかった。単純にふとその時疑問に感じたから、そのまま口にしただけだった。
「ちょっと前に、」
少年は、地面に枝で先ほどと同じ地図を描きながら、実に淡々とした口振りで答え始めた。
「どろぼーが来たんだ」
「泥棒?」
「うん」
首を傾げるアイオロスに少年は勢いよく頷いた。
「たぶん、畑のものをぬすもうとしたみたいなんだけど、おれたちの仲間がみつけてさ。とびかかったんだって。でもおとなだったからすぐにひっぺがされちゃって」
少年の表情がほんの少し曇った。そのときようやくアイオロスは、ああ聞かなければよかったな、と眉をひそめた。
「…崖からおちたって」
「ああ、そのはなしですか」
その日は、日程の関係からこの集落で一泊することとなった。子ども達はそれぞれの集落ごとに固まってそれぞれに帰路につき、アイオロスに手を振った。アイオロスも振り返した。最後に去ったリーダー格の少年の背中が見えなくなるまで、アイオロスはその場に立ち尽くしていた。
「あの子達が、貴方にそんなことを?」
「いえ、教えてくれたのはひとりですよ。みんなというわけではありません」
少年を名指しすることはしなかったが、相手はそれを伝えたのが誰なのか大体わかっているらしかった。
「…そうですね、もうかなり前の話ですが。子どもがひとり崖下で見つけられまして。…いなくなってから二日後くらいに」
「……」
「こんなところでは子どもが遊んでいて崖から落ちるなんて、よくあることだったのですよ。…昔なら」
昔なら。
昔なら、今の話で自分ももう少し衝撃を受けたのだろうか。聖闘士になると、そうでない人とは感覚がすっかり変わってしまう。それを忘れかけていたという事実に、もう少し、もう少し。
人の営みを知らずに人を守ることはできない。
これは、アイオロスがまだ修行を受けていた頃に教わった事項のひとつだ。自分達の力を奮うときには必ず、自分達の守るべきもののことを思い出せと。
「しかし泥棒ですか…」
「え?」
「いえね、泥棒だなんて、また子ども達は話を大きくするのが得意だなぁと…」
アイオロスはふと全運動を停止させた。珍しく頭がフル回転する。今日あったこと思い出しながら、子どもが見つけられた場所はどこですかと尋ねて、アイオロスは席を立った。暗闇の中歩き出した。
聖闘士は総じて普通の人間よりも身体能力が優れている。夜目は利くし、足の感覚もなかなかに鋭い。悪い足場など大したものでもない。
「こら」
「…っ!!」
確かに人間の形をした何かがそこにうずくまっているのを見つけて、その肩を軽く叩いてやった。それは驚きで跳ねたのち、大きく後退りをする。
「こんな時間にひとりで出歩いたら危ないだろ?」
集落に電飾の明かりはひとつもなく、照らすは月の光のみ。その頼みも今はすっかり雲に隠れ、文字通りあたりは真っ暗だった。
暗闇の中でアイオロスを睨んでいるのは、昼間子ども達を率いていた少年である。象徴とも呼べるあの太い枝を持って、一番はじめにアイオロスを値踏みしたあの目をもって、彼はそこに立っていた。
「見張りか?」
「……」
ゆっくりと少年は頷く。
「作物どろぼーを捕まえるって?」
またも、少年はゆっくりと頷いた。
「何で大人に言わなかったんだ」
「……」
「いや、言われなくても大体はわかるさ。お前はそこに居たんだな?亡くなった子が崖から落ちるとき、そこに」
アイオロスが指差したのは、畑の柵となりにある荷車だった。それを越えた先は、相当な高さのある崖である。少年もそちらに黙って目を向けた。沈黙が続く。
「でなきゃおかしいな。二日後に見つけられたのに、泥棒云々まで話ができるなんて」
肯定も否定も返ってこない。ただ柵の向こうの崖をじっと見つめて、彼は微動だにしなかった。暗さで、表情まではよく見えなかった。
「…どろぼーは、本当か?」
少年はそこでようやく首を横に振った。
「…おれが、落とした」
大人の目を盗んで遊ぶのは楽しかった。危ないと言われたことほど面白い。夜中に部屋を抜け出して遊ぼうと誘ったのは彼だった。暗闇を駆け抜けるにはかなりの勇気が要った。しかしはじめの一週間を過ぎると段々慣れがきて、だから失敗した。
「雨あがりで地面が滑ったんだ。そんなこともわからないで取っ組みあって、そのまま。」
一瞬だった。だからうまく反応することもできず、恐る恐る崖下を覗き込んだ。ただひたすらに暗闇が広がっていた。
アイオロスは少年の傍らに膝をつき、その頭をわしわしと掻き撫でた。うまい言葉が思い付かない。慰めるってのはどうやってするものなんだろう?少年は涙を流しはしなかった。ひたすら淡々と事を話しながら、拳を震わせるだけだった。
…仕方無かったんだよ、って都合の良い言葉だよなぁ。
言い訳をしない小さな子どもを、褒めてやるべきなのか叱ってやるべきなのか、それすら判断が難しい。これが例えば自分の弟なら、アイオリアなら?結果は同じだ、自分はアイオリアを叱らなければならないが、同時に共に泣いてやるべきでもある。
アイオロスは黙って少年を抱き締めた。しばらくそうした後、黙って手を引いて家の前まで連れ帰った。そこから先のことは思い付かなかった。否、それを考えるのは、自分ではないのだ。
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