朝、祭司に起こされ目を擦りながら、借り物の寝台から身を降ろした。いつも起きている時間より少し早い。朝食の席にシオンはいなかった。まだ眠っていらっしゃいますとひとりの祭司が教えてくれた。
集落の中心である何もない広場には、朝早くから子ども達が集まっていた。窓越しにそれを眺めていると、子どものひとりがアイオロスに向かって手を振った。
「バンダナの兄ちゃんだー!」
「おはようにいちゃーん」
「おはようー」
「おはよう〜」
アイオロスも笑って手を振り返した。そして壁にかけられた時計を一目見て、朝食の席を立つ。
昨日の少年も居た。相変わらず、太い木の枝を持って中心で地図を描いていた。アイオロスは周りにたくさんの子ども達を引っ付けながら、彼に近付いた。
「おはよう」
少年は昨日の昼間と何ら変わった様子もなく、アイオロスを見た。
「今日も参加していいかなぁ?」
少年は黙って頷いた。
昨日のことを蒸し返そうとは思わなかった。見回りと称し、集落をふんだんに利用して遊ぶ彼らと一緒に自分も遊ぶだけ。
中に入り込んだ人間であるわけでなく、親しい間柄でも旧くからの友人でもない。だが知ってしまったことに今更知らん顔ができるほど、器用に自分はできていなくて、しかし完全に私事として受け止めるには自分から離れすぎていた。このまま何も無かったように自分はギリシャへ戻るのだろうか。
「なぁ」
「ん?」
はじめて、少年が自分からアイオロスに話しかけてきた。
「お前、いつギリシャに帰るの」
「今日の夕方だ。多分、着くのは明日の朝ぐらいじゃないかなぁ」
「ふーん」
少年はその間もずっと、地面の地図を見つめている。
「何しにきたの」
「仕事だよ」
「正義の味方の?」
「そう」
「お前ごまかすのうまいって、いわれないか」
「うーん、確かに言われたこともあるようなないような…」
アイオロスが困った顔で頭をかきはじめると、少年はちょっと笑った。地図から視線をあげてアイオロスを見る。
「正義の味方の仕事って、なんだ」
「今回は慰問だよ」
慰問、と聞いて少し首を傾げた。聞き慣れない言葉だったのだろう。そうだな、子どもにはあまり馴染みのないものかもしれない。今までも聖域からの慰問団は何度も来ているのだろうが、この集落は全体で聖闘士の存在を認識しているわけではないのだから。
「まぁつまりは病人や災害の被災者を見舞いに廻ることだな」
「見舞うだけ?」
「今回は」
少年は何処か納得の行かなさそうな顔をしたが、それ以上は何も追及しようとはしなかった。代わりに、全然別な声が背後からかけられた。
「そうだ。それが仕事だアイオロス」
アイオロスはぎょっとする。
「きょ、教皇…」
「直ぐに着替えろ。隣の集落に向かうぞ」
「…何か、あったんですか」
身仕度をすっかり終えているシオンが、眠たそうな素振りも退屈そうな素振りも見せていないのを不審がるように、アイオロスは眉を顰めた。シオンは表情も変えずに、
「臨終だ、急げ」
と、低い声で告げた。
もう、目は見えていないかもしれない。
かなりの高齢だった。家のものに聞くところによると、もう何年も寝たきりが続いていたという。
「聖域から教皇さまがいらっしゃると、聞いて安心したのかもしれません」
どうか、最期に立ち会ってやってくださいませ。生涯で一度も聖域には足を踏み入れることのなかった、父への手向けとして。
シオンの顔を見た彼は、もう動かない頬の筋肉を無理矢理動かして笑みを作った。たったそれだけでアイオロスの目には涙が浮かんだ。
シオンが柔らかに彼の額を撫でる。その手は決して美しい姿形はしていない。凹凸の多い、何とも歪な手のひらだ。18の肉体を再現しているとはいえ、シオンは立派な聖闘士であり、また修復師でもある。およそ臨終の間際、枕元に現れる使者とは印象の違う手。しかし彼はひどく安心したように瞼を下ろした。そこには何の言葉も生まれなかった。誰かが泣き声をあげるまで、澄んだ静寂が流れ続けていた。
アイオロスも床を濡らした。何度目を擦っても涙は落ちた。
「…あれ」
明日、葬儀を行うという。逗留は今日までの予定だったが、伸ばして明日の葬儀に出席しようということが決まった。止まらない涙を何とか振り切って、アイオロスは子ども達が集まる広場へ足を向けた。
「リーダーはどうした?」
地面に描かれた地図の周りで不安そうにうろうろしている彼らに尋ねると、皆が口々に捲し立てた。
「さっきからいないんだー」
「探しにいったけど見つからないの!」
アイオロスは思案顔で腕を組んだ。
「畑にはいったのか?」
「あそこは危ないからいっちゃだめ、っていわれてるんだ」
「…そうなのか?」
先までアイオロスがぼろぼろと泣いている様子を、窓の外から見ていたことには気がついていた。考えれば昨晩のことも、まだ決着がついたわけではない。
「じゃあ兄ちゃんが見てくるから、ちょっと待ってて」
目の前にいた少年の頭を優しく撫でて、アイオロスは走り始めた。
人の営みを知らず、人を守ることはできない。
再びアイオロスはそれを思い出す。満足そうに閉じたあの瞼の奥を忘れられそうにない。
あれを前にして、自分はシオンのように在れるだろうか?みっともなく取り乱して、先のように止まらない涙で顔をぐしゃぐしゃにして。ひとり見送ったあとで、自分の見送れないひとを思って。
「見つけた!」
もう夕暮れになっていた。畑の隅に枝をもったあの姿を見つけて、大きな声でそう呼んだ。
アイオロスはもう発ったと思ったのだろう。振り返った少年は今までで見たことないほどに驚いた顔をしていた。アイオロスは笑いかけようと頬の筋肉を緩めた。が、
「…!!」
あろうことか、少年はそのまま少し後退り、ない地面へと足を伸ばした。がくん、と小さな体が下方に引っ張られていく。
崖下へ消えていく体を前に、アイオロスは殆ど無意識に飛び出した。追いかけていくように崖へと、自分もまっさかさまに落ちていく。
何となくはアイオロスにだってわかるのだ。人の生きる世界は、人が死にゆく世界でもある。それは常に二律背反に晒されるこの場所の、ひとつの真実だろう。
小さな街で、誰かは誰かの死に目にあって。しかし同時に誰かの産声をも聞いて。声を交わして、拳を交えて。
シオン、貴方は何を見てきたのですか、その頂の上で二百年もの永い間。私には見当もつきません。私には、…俺には、いつもいつも目の前の世界しか見えません。
体はこれだけしかなくて、たくさんも荷物なんて抱えられません。重たい荷物も持てません。どれだけ知恵を絞っても。
…世界中が平和で、幸せであれる方法なんて思い付きません。
だってこの小さな集落だけで、どれだけの悲しいことがありますか。どれだけの痛みや苦しみがありますか。その中の幾つを、俺が理解してやれますか。
いつだって、言葉は出なかった。わかってやりたいその痛みを、明け渡せなどとは、死んでも。
ああいつだってそうだ、俺は自分の役回りを知ってるんだ。まるで正義の味方みたいな理想を掲げ上げながら、俺は知ってるんだ、俺にはどうしようもないってことを。耳や喉を喰い破るそれらの傷は、自分で治さなければ意味がないことも。誰の手も取れない人間には自分の手も差し出せないことも。息をしなくなった身体にしてやれることなんて何もないんだってことも。
知ってるくせに。
飛び込んだ崖の先で、少年の小さな体を掴んで抱え込んだ。そのまま勢いよく地面に叩きつけられる。直前に受け身をとったおかげで衝撃はそれほどでもなかったが、久しぶりに骨の軋む音を聞いた。大丈夫、折れてはいない。
「…お前」
胸のあたりから声がした。少年はアイオロスの顔を覗き込んで呆気にとられたように口が半開きのまま閉じられずにいる。首を軽くまわしながら、アイオロスは今度こそちゃんと笑んでみせた。
「言ったろ、正義の味方だって」
「…別に、落ちるつもりはなかったんだ」
あれは足が滑っただけだ。小さな声で弁解する彼に、アイオロスは頷く。
「わかってるさ。ちゃんと見てたからな」
「…でも、そうした方がいいんじゃないかとは、おもってた」
アイオロスの傍らに座り込み、俯いた少年は僅かに肩を震わせた。その背中を叩いてやる。地面に作られた水の染みが見えた。
「恐かったんだろ?」
強く、少年は首を縦に振る。
「それでいい、恐くていいんだ。だから忘れるなよ、絶対、絶対に」
ようやくその場から立ち上がり、アイオロスは少年の手をとった。さぁ帰るぞ!と元気よく高らかに宣言して、痛む片足を少し引きずりながら崖の上へ続く道を歩き始める。夕日は間もなく、地平線に沈もうとしていた。
祭司たちにヒーリングを施され、寝台の上でぼんやり天井を眺めていると、シオンの手が視界に入り込んできた。少し眼球をずらすと顔も見えた。機嫌を損ねた様子もなく、ただアイオロスの体の上に手を翳しているだけである。
「小宇宙で衝撃を和らげることもできただろう。何を考えていた?」
「…質問の答えを」
「阿呆め」
口調は厳しく、視線も咎めるようなものであったが、シオンは決してアイオロスを嘲ってはいなかった。
「時間は、」
窓の外はもう真っ暗だ。
「私達に何を教えてくれると思う?」
「…さぁ…」
「考えろ。さもなければ、貴様にも私にも、こうして再び生きる機会を頂いた意味などない」
聖域の方には既に連絡を行い、明日此処を発つ旨を伝えたらしい。対応したのは獅子座だった、と告げられて、思わずへらりと笑った。
三日目の朝。
いの一番に、アイオロスのもとにはあの少年がやってきた。何かを振り切るように頭をぶんぶんと振って、アイオロスを見上げる。
「兄ちゃん、正義の味方には、どうしたらなれるんだ」
アイオロスは少し顔を暗くさせた。しかし少年は真剣だった。堅苦しい法衣を身に纏いながら、アイオロスは低い声を出す。
「…なりたいのか?」
「なりたい。…いや、なって…」
「いや、言わなくていい。わかった、わかったよ。…わかっている」
腰のあたりにある頭を撫でて、アイオロスはやはり笑った。出るかと身構えた涙は出なかった。昨日、あの場所に全て置いてきてしまった、らしかった。
厳かに行われた葬儀のあと。集落のものたちに別れを告げて。少年には、長に尋ねてみろと、ただそれだけを告げて。アイオロスはシオンと、祭司たちと列車に乗り込んだ。訪れた思考の時間、向かいの席に座るシオンは目を閉じてじっと黙っている。アイオロスも窓の外を眺めながらじっと黙っていた。
何を見ていくだろう。
あっという間に通り過ぎていく景色のように、目を開いている限りはこの全てを。そしてその中で、自分は何を知るだろう。
膝の上で握り締めていた拳を開いて手のひらを見つめる。綺麗な姿形は此処にもない。差し伸べようとしていつも忘れられていく、馬鹿の手のひらだ。
「教皇」
呼びかけに、シオンはゆっくりと瞼を持ち上げる。何も言わずにただアイオロスを見た。
「答え合わせ、願えますか」
「もう良いのか」
「どうでしょう、わかりません。でも例え納得されなかったとしても私は、」
思い出すのだ。伸びない腕、騙される足、跳ねない声に緩まない頬。竦む指先は確かな力になり、またひとつ、自分は後悔を重ねた。
…それでもこの溢れる月日が、自分を連れていってくれるのなら。
「私は、私を止めるつもりはありません」
此処には、確かに生きる鼓動の音がする。
涙の地球
なが・・・か・・・った・・・(パタリ)何故書いてしまったのかと思うくらいに長かった・・・しばらくこの手の話は書きたくない…
「愚者の行進」の時、出て行ったアイオロスとシオンの話でした。
題名も合わせて聖者の云々とかにしようと思ったんだけど、あんまりそぐわない気がしたのでこっちに。
書き上げる最後にtacicaの「JADITE」を聞いていた所為か、なんかBGMみたいになってしまった。うおおおお。