勢いよく開いた扉は、そのまま壁にぶつかって派手な音を立てた。廊下を掃いていた給仕の女性が僅かに顔を上げれば、目の前を物凄い速さで何かが通り抜ける。過ぎた廊下の先へと目線を向けると、この城の主たる闇の貴公子と、……彼女の記憶では、確か先ほどこの城を訪れたばかりの闇の魔導師の後ろ姿が見えた。
アクセラレイト シーン1
全力疾走という言葉が相応しい。実際身に起こっていること的にも、先ほどからまとまりのない己の脳内環境にしても。
「おいサタン止まれ!!止まれっつってんだろ!!」
あらん限りの力で叫んでみても、サタンは止まらないしシェゾの身体は言うことを聞かず前に進むのを止めない。右手の先はサタンの左手の先に繋がっていた。肩よりも高い位置で固定され、まるでそこを起点にするかのようにふたりの体は巧みに障害物を避けながら、城の中を全力で駆け抜けている。この感覚自体はシェゾも知っていた。身体加速の呪文だ。それを増幅呪文で効果を増大させている、と、考えられる、普通ならば。しかし術者はあのサタン、いやこのサタンだ。今まさにシェゾの右手をがっしり掴みそれを掲げ上げて上機嫌で自分の城を疾走しているサタンだ。増幅呪文など使わずこれが素の魔力のままなのだとしたら、改めて脅威としかいいようがないが、正直冷静に現在の状況を分析してみても全く以て意味が分からない。
「止まれ馬鹿!!」
ただの加速の呪文だ。実際、隣のサタンの速度に引きずられるように身体を動かしているため、シェゾ自身の体に疲労は蓄積されている。正直この勢いの中で声をあげるのすら難しかった。手を振り解きたいのだが、ぎりぎりと指先が痺れを感じるほど強く掴まれていて払えない。こうなったら闇の剣を取り出してこいつの手首ごと切り落してやると決意はするものの、異次元から呼び出すには身体が物理的に動きすぎていて出現位置の座標特定が恐らくできない。
めまぐるしく変化する周囲の景色の中で、ある者は呆然とした顔で、ある者は笑顔に手まで振って、またある者は訳知り顔で反応もせず、そんな様子が目に映る。シェゾは舌打ちをしようとした、が、未だ減速することも知らないその調子では無様に舌を噛むのがオチだろう。己の動体視力の良さを恨む日が来るとは予想したこともなかった。それ以上に、隣で楽しそうに声をあげて笑っているサタンが、いつもの6倍程は憎かった。
部屋には、サタンの部下が持ち込んできた決済の必要がある書類だとか、面倒な魔道具の類だとかが、散乱したまま放置されている。床に散らばった書類は、まぁ誰かがまとめて机の上に置くくらいはしてくれるだろう。触るのも躊躇われるような魔道具の方は知らないが。
「いかん、駄目だ。このままだと干物になる。いいか、1週間だぞ?仕事だのなんだのと私がこの部屋に閉じ込められて既に1週間になるのだぞ?もう耐えられん!!」
そりゃ貴様が普段から真面目に仕事しないで遊んでばかりだからだろ、とか。10万とんで25年も生きてるくせにたった1週間も我慢できないのかよ、とか。様々な悪態が口をついて出る前にサタンが立ち上がり、つかつかとシェゾに向けて歩みを進めて、そのまま右手をがっしりと掴みあげてきた。行動の予測がつかず少し眉を顰めながら、おい何だ離せとこれまた口にする前に身体があらぬ方向に引っ張られた。驚きと痛みで悲鳴を上げた。次の瞬間には部屋の扉が開いて、廊下を駆けていた。
「ハーーーーーッハハハハ!!」
「笑ってんじゃねえ!!離せ!止まれ!!いっそ転べ!!」
「何を言うか、このまま外まで突っ切るぞ!」
「はぁ!?」
「1週間ぶりの世界だ!!」
そんな大袈裟な。返事をする間に、景色は城のエントランスに切り替わっていた。玄関前の大階段を駆け下りる。無駄に気の利く城の住人が、引いてはサタンの部下が、大きな扉を既に開いて準備していた。開けんでいい!というシェゾの心の叫びなどどこにも届くはずはなく、眩しい日の光が射しこんでいるその扉の隙間を、身体がふたつ、速度を落とさずすり抜けた。
夕食までにはお帰りください、という給仕の女の声だけが、最後に届いた気がした。
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