新しい皇子が離宮に参られる、と、年上の肉親として、またいち武人軍人としても敬意を払うべき叔父から聞かされたときは、言の意がすぐには理解できずそのまま叔父に呆けた顔を見せてしまったものだった。
「・・・皇子って、増えるものなのですか」
反応を返しそびれて苦し紛れに口にしたそれは、厳格な叔父の鉄面皮を突き破るほどに間抜けな発言になった。












不透明だ。濁っていると言いたいわけじゃない、掴みきれないのだ。姿とか、中身とか、いろいろ。そのときはまだ自分も子供だったため、その感覚をうまく説明はできなかったが、とりあえずその頃の自分曰く『増えた』皇子の印象はそんな感じだった。

ふわふわしている。

それは見た目にも引き摺られていたかもしれない。驚くほど眩しい金の髪を肩まで垂らして、足のつかない椅子に座ったまま柔らかい表情を浮かべている。そう、見た目もどこか現実味がなくて頼りなかった。
ミュラー、オリヴァルト皇子殿下だ。
尊敬する叔父の勧めるがままに挨拶をすれば、皇子は、その柔和な表情をさらにふわりとさせて自分を見た。本音を言えば少し困った。あの目は子供が仔猫や仔犬を見つけたときとおんなじだ。いや、皇子殿下はまだ幾分も子供なのだから、おなじもなにもそのものだろう。

ふわふわとしたまま近付いてくる。
興味深げに自分を見上げた子供は、その質量をぼやかしたまま自分に微笑んだ。





オリヴァルト皇子はとんでもないやつだった。
手の掛かる子供だった、というのは正しくない。確かに離宮から無断で外出したり立ち入り禁止の場所にはいりこんだりはしょっちゅうだったが、教養を叩き込む教師や宮の使用人たちに迷惑をかけることはなかった。あくまでお行儀のよい皇子でありつづけた。

だがそれは、やつが皇子という『枠組み』に自身を当て嵌めていたからに過ぎないことを、自分はよく知っている。よくもわるくもオリヴァルト皇子は器用な子供だった。手先もそうだがなにより性格が、もっと厳密に言えばそれは、衝撃を受ければ受けた方向に変形する、加えられた力がなくなればまた元の形に戻る。一種の柔軟性のようなものだった。


好奇心に溢れ、妙な方向に知識欲が深いのはうまれつきかもしれない。器用に加えてオリヴァルトは賢かった。
彼に勉強と武術を教えた、あの尊敬すべき叔父が、皇子は聡明な方だと自分にむかってしきりに口にしていた。それは自分と皇子との親交を思ってのことだったのだろう、しかし自分からしてみればその聡明さは、狡猾さと紙一重、いやそんなたいそうなものではないか、要するに『悪ふざけ』の側面にしか思えなかった。

離宮を抜け出して街にひとり飛び出したことは数知れないが、離宮には多くの兵や使用人が詰めている。容易には抜け出せないはずだと思った、しかしあのふざけた子供は離宮のなかを散歩と称して隅から隅まで歩き回り、巧妙に脱走ルートを構築していたらしい。何気無く叔父に質問して聞き齧った軍のサバイバル技術を試していたと、朗らかに本人が話したときは頭痛がした。要するに、二重にも三重にも意味を持った脱走だった。そして脱走した先でやつが熱心に見ていたのは、帝都でも有数の楽器店だった。



ふざけた奴だとは頻繁におもうが、どんな悪ふざけにも巧妙な本音と建前をつくるあたり、あの奇想天外さもこの貴族社会のあいだで培ったものには違いなかった。舌もよく回るようになった。詭弁はもちろんだが、自分はその胡散臭い唇からはおおよそ節度など度外視しすぎた歯の浮く台詞ばかりを聴いている気がする。それも素だろう、裏表があるというよりは球体の内側と外側があるといった方が近いかもしれない。

跳ねるゴムボールのようなその不確かな姿。


あの形は自分達が作った。不透明、掴みきれない、その評価はわりとまちがいではなかったらしい。周囲の人間にあわせてあらゆる方向にかたちを変える、道化のようなふざけた姿をするのはそんな性質のせいだと、決めつけたいわけではないが。しかし故に本物のオリヴァルトのかたちを定義しかねて、誰もが首を捻るし困ったように近くの自分に視線を送るのだ。そしてそんな周囲の態度がますますあれを不透明にさせてゆく。

ある意味、不憫にも思う。もちろん本人は、オリヴァルトは自分に哀れまれる筋合いはないと笑うだろう。しかし誰にもつかまれないように、ふわふわ、ふわふわとあちらこちら。楽しそうにも見えて、最終的には孤独なのだと、いちばん近くで眺めながら感じている。






「名前は?」
きらきらと期待に目を輝かせながら尋ねる、幾分も下にあるその姿。
「きみの声で聴きたいなぁ」
はじめて目にいれてからずっと、掴みきれずに手は宙を空回ってばかりいる。自分はそのときからあれの手に掴まえられて動けないのに、どうして自分のばかりが届かないのか、不公平だと愚痴を溢した。追いかけっこはここから続いていた


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