人気のない廊下に軽やかで騒がしい足音はよく響いた。片腕を引かれるがまま、部屋の中央に描かれた譜陣に乗って次の階へ移動していく。そしてまたぐいぐいと引っ張られて廊下を飛び出した。
「あっちの方の部屋はね、教団のなかでも偉い人たちのお部屋なんだって。オリバーがそういってた」
忙しなく走らされたと思ったら急に立ち止まり、先にある多くの扉たちを指差してにこりと笑ってみせる。その笑顔は、ひたすら無邪気で晴れやかであるというその印象だけを違えて、あの日火山で消えていった優しい友人のものだった。
預言のない世界。それは人々にとっては未知の世界。
今までその預言を抱えているという点で自治を保ち威厳を備えてきたローレライ教団は、預言の廃止と共にその権威を急速に失っていた。しかし新たな局面を、そして白紙の未来を迎えようとしているこのオールドラントで、彼らは預言によってではなく始祖ユリアを頂くひとつの宗教集団として、キムラスカ・マルクト両国と共に人々を牽引していかねばならない立場にあることを余儀なくされている。しかし現在の教団は、導師、大詠師、さらに『神託の盾』総長と立て続けにトップの消えたことによって完全に混乱しており、トリトハイム詠師がなんとか上層部を取りまとめ、仮の体制を整えて何とか運営している状況だ。
この旅が終われば、元々神託の盾所属のアニスとティアも、この混乱を収め、教団と人々を牽引していくことに尽力するのだろう。今回旅の途中でダアトに立ち寄ったのも、これらの問題意識を共有し解決するための臨時総会が開かれると、詠師トリトハイム直々に伝言があったからである。大切な旅の途中ではあるが、出席するといった二人の意思を、無視する理由も気持ちもルークにはなかった。
しかしダアトに来たら来たで、それはそれなりに退屈だった。何せダアトは宗教自治区なため娯楽施設といったものが一切ない。研究施設にも勝るとも劣らない蔵書の数々も、ジェイドは興味深々でもルークにはただ、本棚の上まで見上げると首が痛い、といった程度のものでしかない。ガイと手合せでもしようかと誘ってみたが、「たまにはゆっくり休めよ」とやんわり断られてしまった。俺は別に疲れてなんかいない、と少し眉を顰めて言おうとして、寸で止めた。自分はまだ動けると思っても、それにガイを付き合わせるのは駄目だと気付いたからだった。それにあとひとつ理由をつけるならば、ガイの後方からその様子をジェイドが見ていたことだろうか。レムの塔の一件があってから、ジェイドには無理をしないようにときつく言い渡されている。特に超振動を使うのはご法度だ、それは数少なくなった身体の音素を更に削る行為に他ならないから。
しかし退屈というのはどうにも苦手である。7年間屋敷に軟禁されていたことを考えればこんなたった1日そこらの時間なんてとても些細な時間だろうが、今の自分にはとても貴重な時間であることもまた然りで、その間に少しでも何かしたいと思ってしまう。することは、別になんでもいい、ただ自分が満足できて、誰かも満足できることならうれしい。
そう思いながら教会の入り口をぶらついていたところ、ルークはフローリアンとばったり遭遇した。かつて教団の最高指導者だった優しい友人の服を着て、しかしあの少年はあげたこともないような大きな声でルークの名前を呼んで、ばたばたと走り寄ったかと思うと徐に左腕を引っ張られたのだ。
「お、おいおい何だよ」
突然のことに少しよろけながらも、彼の力がそんなに強くなかったことが幸いしたか、無様に倒れ込むようことにはならなかった。思わず惑った声を出すと、そのまま腕を掴んだまま歩き出したフローリアンが朗らかな笑みを浮かべる。
「教会のなか、案内してあげるよルーク!」
「はぁ?」
「暇なんだよね?そう顔にかいてあるもの」
ずい、と自身の顔を指差されて、思わずルークは自分の顔を撫でた。その様子がよっぽどおかしかったのか、フローリアンは声をあげて笑いだす。
「ね、案内してあげる。僕、ちゃんと教会の構造覚えたんだ。もうどこにいたって迷わない自信があるよ!」
そのとき唐突にルークは悟った。ああ、覚えたことを誰かに伝えたくて仕方ないのだ。本当ならこのことを、彼が慕ってやまないあの少女に真っ先に伝えたかったのだろうが、あいにくと今彼女は総会に出席中で会いに行くことはできない。
「わ、わかったよ。わかったらから引っ張るのはやめろって」
ちゃんとついていくからさ、と掴まれた腕を振ってみてもどうやら離す気はあまりないらしく、そのまま教会の入り口の扉に手をかける。
重たい音と共に扉が開いた。いつ来ても見ても慣れない荘厳な雰囲気に、いつも以上に少ない人気。しかし己の腕を引く少年の明るい声が響いた途端に、そこはどこか懐かしさを感じる遊戯場に思えた。
実際にフローリアンは複雑な教会内部を迷わず進み、あっちの部屋は何で、こっちは何だということを事細かに説明できた。当然ルークも何度か訪れているし、何度も中を駆け回ったが(そのうちのひとつはこの少年を捕まえるためだった)、未だに構造を覚えることはできていない。といってもルークには天性の勘とでも言うべきものが備わっているのか、目的地にたどり着くことは苦手だが、出口に向かう方向を間違うことはほぼないに等しく、もう一度入り口付近に戻ってきて再挑戦するという荒業でこれまで何度も切り抜けてきたのではあるが。
下りの階段へ少し小走りになりながら向かうフローリアンの後ろ姿を、ルークは不思議な面持ちで見ていた。彼は、ルークの知っている導師『イオン』と同じ人から作られたレプリカだ。今は服も、サイズの関係もあってイオンのものをそのまま着ているため、見た目はもう完全にあのイオンそのものだった。しかしルークは、イオンが自分の腕の中で静かに消滅した瞬間を覚えている。その寸前まで彼の重みを支えていた腕が、その瞬間とても軽くなったことに怯えてかたかたと震えたことを覚えている。今も思い出しては涙が滲む。それらすべての感覚が、あの優しい友人にそっくりなフローリアンをルークの中でフローリアンたらしめている。
「ねえルーク、ルークはレプリカなんだよね?」
突然フローリアンが振り返り、首を傾けながら明るく尋ねてきた。物思いに耽っていたルークはすぐに反応できず、驚いたことを隠しもせず瞬きを繰り返した。
「レプリカなんだよね?」
そんなルークの様子を見て、どうやらちゃんと聞こえなかったのだと判断したらしいフローリアンは、再び同じ質問を口にする。
「あ、ああ」
「やっぱりそうなんだ!」
戸惑いながらも殆ど反射的に頷いた。…自分がレプリカであることなんて百も千も自覚していることだ。否定する気にもなれない。…前はあんなに卑屈になっていたけれども、今では自分がレプリカであることも、自分が自分であることの証明になっている。
その返事をきいたフローリアンはにっこりと無邪気に笑った。
「僕もレプリカだから、ルークと僕は友達だね!」
笑って、ルークの右手を強く握りしめて上下に振る。きっと挨拶のつもりなのだろう。
ルークは頭のなかで疑問符を浮かべた。
「友達?」
「そうだよ」
仲間じゃなくて?
どうやらフローリアンの中で『友達』と『仲間』は同義らしい、という考えにようやく行き着き、ルークは苦笑いを浮かべた。いつもは自分が皆から子供扱いだが、フローリアンを前にすると自分の方が大人になったような気分になる。
「べつに、レプリカじゃなくったって俺たち友達だろ」
「そうなの?」
「そうだよ。だってアニスはレプリカじゃないけど、フローリアンの友達で…俺だって、ガイとか、ナタリアとか、ジェイドとか、ティアとか…みんな俺と同じじゃないけど、ちゃんと友達だ」
「同じじゃないけど友達?」
「それは嫌か?」
「ううん、嫌じゃない。嬉しいよ」
言葉の通り、跳ね上がらんばかりにフローリアンは喜んで見せた。握っていたルークの右手を放し、笑い声をあげながら両手を広げてくるりと一回転する。ルークもつられて笑みを浮かべようとした、そのときだった。
「うわっ」
一回転して再びルークの方へ向き直ろうとしたとき、フローリアンが足をもつらせた。もともとオリジナルより運動能力が著しく劣化しているらしく、少し鈍くさいところのあるフローリアンだったので、転んだりするのはわりと日常化していた。だからもつらせた瞬間もルークはさほど慌てず咄嗟に手を伸ばし、フローリアンの右腕を左手で引っ張ろうとしたのだ、しかし。
(あれ、)
余裕で届くはずの手は、届かなかった。原因はすぐにわかった。
左手の先が、透けている。
「!!」
そしてふと見れば、倒れそうになるフローリアンのその真後ろには、階下へ続く階段が伸びていた。
あとは、もう殆ど無意識だった。透けた腕では止められないと判断したルークは、すぐに床を蹴って倒れるフローリアンに飛びついた。そのままくるりと体を反転させる。
同時に、ひどい神経痛のような痛みが全身を覆った。音素乖離に伴う痛みだということはすぐにわかった。堪えるのも難しい痛みのおかげか所為か、それなりの高さがあった階段の一番下へと体が叩き付けられても、その衝撃は意識にあまり響かなかった。
そこから先のことは、わからない、フローリアンの大きな声が聞こえたところで、ルークは激痛に意識を失った。
ガイは訝しげに手元の本から目線をあげる。彼の他に人はジェイドくらいしかいない教会内の書庫で、ひたすら紙をめくる音だけが聞こえていたところに、慌ただしい音が飛び込んできたからだ。
ひとつしかない入り口の扉を凝視していると、だんだん近づいてくる音と共にそれは勢いよく開けられた。入ってきた人影は、ガイの予想していた人物とは違っていた。
扉を開けて入り口に立ち尽くしたまま、焦ったようにきょろきょろと中を見回している彼の姿に、思わずガイは右手をあげて声をかけた。
「フローリアンじゃないか、どうした?」
「あ、ガイ!大変なんだ、助けて!助けて!」
ばたばたとフローリアンが駆け寄ってくる。その慌てた様子に、近くで本を開いていたジェイドも顔をあげた。そこでジェイドもいることにもようやく気付いたらしい。
「ジェイド!ジェイドも!お願い、助けて!」
「おいおい落ち着けって。どうした?何があったんだ?」
「ルークが、ルークが」
思わぬ単語を聞いて、ガイが驚いた顔をしたのとジェイドが眉を顰めたのはほぼ同時のことだった。
「ルークがどうしたんだ?」
「動かないの!どうしよう、僕が転んだから代わりに落ちちゃって…揺らしても起きなくって…ねえお願い助けて!」
混乱しているらしい、少し支離滅裂な説明ではあるが、どうやらルークに何かがあったことだけは確かだ。動かない、起きないという言葉にガイの表情は一気に険しいものになる。
「ルークはどこだ?」
「東側の奥の、階段下…」
「わかった、すぐに」
「ガイ」
そのまま部屋を飛び出していきそうな勢いだったガイを、強い口調の声が止めた。静観していたジェイドが椅子から立ち上がっているのが見えた。
「私が先に行って様子を確認しますので、貴方はナタリアを呼んできてください」
「いや、でも」
「心配なのはわかりますが、その方が効率は良いでしょう」
ガイが睨むような目でジェイドを見る。確かに、ジェイドはガイよりも医療の心得があるし、実際にルークの体調管理や音素検診を行っているのはジェイドだ。何らかの怪我が原因だったとして、ナタリアを見つけて連れてくるまでの間面倒を見るなら自分より彼の方が断然良いことは、勿論ガイもよくわかっていることである。故に、不満を露にしたのはその一瞬だけで、了承したことを示すために深く頷いて見せた。
「じゃあ頼んだぜ、ジェイド」
「そちらもよろしくお願いしますよ」
部屋から走り去るガイを見送り、ジェイドは未だ混乱の続くフローリアンを優しく見下ろした。
「さあフローリアン、案内してくれますか?」
言葉も視線も柔らかだったが、その裏に隠しきれない澱んだ色があることに、フローリアンはなんとなく気付いた。気付いたが、余程混乱していたのかもしくはその色が悪意ではないことを本能的に悟っていたか、彼はそこには触れず、ただ見下ろしてきたジェイドの腕を少し引き、こっちだよ、と精一杯元気な声を出した。
フローリアンの力では動かせなかったのだろう、ルークは、恐らく階段から落ちて廊下に激突したそのまま、人気のない廊下で仰向けに倒れていた。ばたばたと駆け寄ったフローリアンの隣にジェイドが膝をつき、体を安定させながらら、後頭部、肩、背中と上から順番に怪我の有無を確かめていく。
「ねえ大丈夫?ルークなくなっちゃったりしないよね?」
詳しい話を聞いたわけではないが、彼は彼とおなじように作られた他のレプリカたちが、火山の火に呑まれて『消滅』していくところを見ていたらしい。幼いなりに、何かが「なくなる」ということを理解している。そしてそれが、何かとてつもなく悲しいことだということを知っている。
外傷は特には見当たらなかった。最後にジェイドは倒れるルークの首筋に二本指を当てる。どっ、どっ、と振動を感じられるそこが少し不整であることを確かめ、意識が戻らない理由を確信した。
「フローリアン、すみませんが少しルークに膝を貸してあげてくれませんか」
「うん、いいよ」
背中に腕を入れて上半身を起こし、そのままフローリアンの膝の上に頭を乗せる。
「重たいかもしれませんが、少しの間我慢してください」
「だいじょうぶだよ、我慢するから。ねえルークなくならないよね?」
軍服のポケットから錠剤を取り出し、意識のないルークの鼻を容赦なく摘みあげて口を開かせた。そのまま放り込んで錠剤が喉を通っていくのを見守る。異物の感触からか少し眉間に皺を寄せたルークだったが、やがて首の振動が穏やかなものに変わっていき、その表情から苦悶の色は消えた。
「大丈夫ですよ、フローリアン」
状況がよくわからず不安そうにジェイドとルークを交互に見ている子供に、ジェイドはやはり柔らかに微笑んで答えた。
「階段から落ちただけでなくなってしまうほど、ルークは軟じゃありませんから」
ふわりと浮いた身体が、ダアトの空を彷徨っていた。突き抜けるような青のなか、燦然と輝く陽の光に晒され、譜石帯がよく見えた。そういえば、屋敷に閉じ込められていたときから、庭でひっくり返って空の譜石帯を見るのが好きだった。別にあれがどういうもので、どういう意味を持ったものであるのかということを理解していたわけではない。ただ幼いながらにその光景を綺麗だと思っていた。
「ルーク」
突然、すぐ隣から声がした。聞き覚えのあるその声に驚いて振り向けば、若草色の髪と目がそこにあった。イオン、お前なんだってここに、と発音すれば、優しい貌がにこりと笑った。
「どうしました、こんなところを彷徨って。迷子になってしまったんですか?」
迷子?…そうだろうか。そういえば随分とおかしなところを漂っている気がする。ガイは、ティアは、アニスは、ジェイドは、ナタリアは、仲間たちはどこだろう。急に焦りはじめて周囲を見渡す自分に、イオンがおかしそうに肩を竦める。
「ダアトは迷いやすいですからね、僕が入り口まで案内しますよ」
イオンが腕を引いた。彼と同じ顔をした、あの無邪気な子供とは明らかに違う引き方で。控えめで、しかしそこに躊躇いはなく、強く掴まれているわけでもないのに抗えない確かさがあった。引かれたまま、ルークは少しずつダアトの空から下りていく。
なぁイオン、お前ずっとここにいるのか?
「そうですね」
ひとりで寂しくないか?
「そうですね、少し寂しいかもしれません」
でもいいんです、と呟く声には、凛とした響きがあった。下降していく身体と共に、イオンの姿が透けて見える。もう一度、イオン、と、優しい友人の名前を発音した。離れていく姿に手を伸ばした。伸ばした自分の手も、少し透けて見えた。
「ルーク」
イオンの声と共に、一瞬透けた腕が確かな色と形を保つ。その後に続いた言葉が聞こえる前に、ルークの意識は何かに引き寄せられるようにして急激に浮上した。
「ルーク!」
目覚めると、そこは寝台の上だった。覗き込んでいる顔がふたつあることをすぐに認識した。ナタリアとフローリアンだ。霞む視界を明瞭にしようと手の甲で瞼を擦ると、やめなさいとナタリアに叩かれた。
「よかった、よかったルーク!ごめんね、ごめんね」
横たわるルークの手を握ってひたすらに謝り倒すフローリアンに、ルークは少し困ったように笑って手を握り返す。ゆっくりと上半身を起こして目線を合わせると、いつも自分がガイにされているように、腕を伸ばしてぽんぽんと頭を撫でた。
「気にすんなよ。友達なんだろ」
それに、意識が飛んだのはフローリアンの所為では全くない。責める理由もないし、もとよりそんな気もルークにはなかった。それに、教会内を案内されているのはそれなりに楽しかったのだし。
しかし当然というべきか否か、総会を終えて帰ってきたアニスにはふたりでこっぴどく叱られた。二人してヘマをしたことは勿論だが、警備の兵も教団員も少ない中で教会内を探検したことも。ルークもフローリアンも見た目はそれぞれ17歳と14歳で、そんなふたりが13歳の少女たるアニスに叱られているという構図は、ジェイド曰く「ほほえましい光景」ではあったが、本人たちは至って真剣だった。
怒るアニスにひたすら謝りながら、ふと二人で顔を見合わせてにんまりと笑う。笑いながら、ルークは眠りの中で出会ったイオンを思い出した。目の前の少年と同じ顔、同じ声。
でもイオンはあそこにいて、ここには彼が居る。
「ルーク!」
強くて凛とした声が、教会の大きな扉の方から響く。こちらに向けて精一杯手を振っている彼は、やはり屈託なく笑ってもう一度大きな声をあげた。
「また遊びに来てね!今度はちゃんと最後まで案内するから!」
約束だよ、と叫んでいる少年に、ルークも手を振り上げて大きな声で答えた。
「ああ!約束な!」
姿が見えなくなるまで振り続けて下ろした手が、少しだけ透けて見えてはまた元に戻る。
それでももう、怖がらないと決めた。最後まで強がろうと決めた。掬い切れないことを嘆いても、自分の影に怯えても、ひっくり返って倒れ込んでも、生きようと思った。
そしてまた、あの譜石に向かって浮き上がる日が来たら、その時はあの優しい友人を訪ねよう。そしたらきっと、はじめて出会ったときのように、いろんなことが新しいまま笑って喜びあえるから。
きっと。
音譜帯案内人
実にシンプルにシンプルに、と呟きながら書いてたら書きたいことがうやむやになった気がします。