「まさかあんたが寝落ちしてるなんてなぁ」
「・・・私だって人間ですからね、肉体の限界を迎えれば眠くだってなりますよ」
連絡をしたのは今から約三十分ほど前のことだ。領地も持たない名前だけの伯爵であるガイラルディアだが、その分の身軽さを買われてマルクト皇帝陛下の名代となり、ケセドニアまで赴いた後、2週間ほどエルドラントの作業部隊に同行し、久しぶりにグランコクマまで戻ってきたところであった。船から降りて大きく背筋を伸ばし深呼吸をする。そこでふと思い立ったから、連れ立っていた兵士ひとりを使いにやらせたのだ、「あとであいさつにでもいくよ」と、『マルクト軍の大佐殿』にとしてではなく、『旅の仲間』として、実に砕けた伝言を持たせてジェイド・カーティスのもとに。
恐らくその時にはまだ目覚めていたのだろう。ガイがピオニー陛下への報告を済ませて廊下を歩いている間にでも抗い難い睡魔に襲われたに違いない。扉をノックしても全く反応が返らなかったから、悪いと思いながらもノブを回して侵入した部屋の中。少し控えめな声で名前を呼んでから机に肩肘をついたまま目を閉じる彼の者を見つけてしまい、一瞬思わず口を開けたまま呆けてしまったことは恐らくばれていないはずだ。
「まさか徹夜で捌いてたのか?」
彼が先ほどまで肘をついていたその隣に積みあがる書類に目を向け、ガイは苦笑した。
「明日までにケリをつけたいと思いまして」
「おいおい」
部屋の隅に置かれたコーヒーメイカーで勝手にコーヒーをふたつ作り、片方をその机の脇に置く。ありがとうございますという抑揚のあまりない声にどうもと軽く返事をして、もう片方を手に椅子へ腰かけた。「呼んでもいない客人をわざわざ歓待するような高い意識は持ち合わせていないので、欲しければご自分で勝手にどうぞ」と部屋の主からの許可は随分前に下りているため、この行為に対する咎めも逆に深い感謝もない。そもそも一応この部屋の来訪客である自分が、わざわざ部屋の主の分までコーヒーを用意してやる義理は勿論ないのだが、長年使用人をやっていたせいだろうか。クセのように体が動く。
少しずれた眼鏡を軽く押し上げて、ジェイドがコーヒーに手を伸ばした。砂糖は抜き、ミルクを少量。あれだけ長い間共に旅をしていれば、意識しなくとも相手の好みを把握するのは容易だ。もっとも、最近はブラックのままで飲むことが多くなっているようだが。減らない容器の中身を思い出しながら、ガイは黙ってジェイドがカップに口をつける様子を観察していた。
「そういえば」
「ん?」
「夢を見ましたよ、さっき」
「へえ」
少しも取り繕った顔をせず、男は真顔でそんなことを言い出したから、ガイは素直に驚嘆してみせる。
「あんたがそんな話をしようとするなんて、珍しいこともあったもんだなぁ」
「ええ。・・・あまり中身は覚えていませんが、このまま覚めないで欲しいと思うくらいには良い夢だったのだと思います」
「ますます珍しいな」
思わず声を出して笑った。空気の乾いた部屋の中でそれが響く。しかしジェイドはぴくりとも表情を変えず、コーヒーを啜って書類の山に手を付け始めた。
「しかしあんたが良いと思うような夢か…そいつは本当に良い夢だったんだろうなぁ」
何せ彼は、泣く子も黙る死霊使い様だ。そしてガイは、この男がいかにもな世間話の類には興味がないことを知っている。
「俺も見てみたいよ、そんな夢」
わざとらしく振られた会話に食いついてみせると、ジェイドは書類を眺める視線とペンを走らす腕はそのままに、眉を顰めて怪訝そうな顔をした。いや、恐らく実際にはそれと違う感情がそこには乗せられていたのだろう。だがガイの目にはそう映った。
「そんな風に言ってやればよかったのですね」
そして、だからこそ薄く開いた彼の口が独り言を滑らしたことも、見逃しはしなかった。
「誰に言ってやりたかったんだ?」
「・・・」
「なぁジェイド」
積みあがる書類の山に目を向ける。その一番上に置かれたひとつ…中身まで詳細に読み取るほど分別がないわけではないが、見出しの文字並びだけで大体の内容を察したそれ…を、ひょいと摘みあげて目の前に掲げてみせた。ゆっくりとジェイドがそれを目で追う。追った先に有ったガイの顔が、人の好い笑みを浮かべていた。
「ルークのこと、話したかったら話してもいいんだぜ」
「・・・」
「たまにな、ナタリアと話すんだ。ルークが屋敷に居た頃のことをさ」
多忙なキムラスカの王女と談笑できる機会は勿論少ない。その少ない時間の中で、唐突に、降って湧いた思いつきのように話題にするあの赤い髪の子供のこと。
「感傷的だって嘲ってくれても構わないぞ。でも俺が覚えているルークのことを、誰かと共有するだけでなんとなく安心するんだよ。俺は」
「同じだと思わないで頂きたいものですが」
「同じだとは思っていないさ。そうだな、正直に言うと俺が聞きたい、かな?」
誰よりも長く、そして近いところで彼を眺めてきたという自負はある。しかし決して、彼のことを一番理解していたとは思っていない。ガイが、優しさの下に復讐の炎をずっと燻らせていたことを彼にひた隠しにしてきたように、例え過去を持たない身であったとしても、自分の知らない彼の姿はきっとたくさんあった。
それが普通だ。それが普通だからこそ、どこかで彼のことを新しく知る機会があるのが、自分は嬉しいのだ。その奥にある悲観的な考えに気付かないで済む。美化されていく原風景を、変わらず思い続けていられる。
「しかし私に得はありませんね」
「だったらその昔話でもしてやろうか」
「要りません、謹んで遠慮しますよ」
興味がない、という言い方だった。実際にそうなのだろう。男はガイと違って、自分の知らない彼のことなどどうでもいいのだ。
「返してくださいね」
掲げたままだった薄い紙切れを指して微笑まれる。
「盗るわけがないだろ」
「そうですか?」
「…なぁ、どんな夢を見たんだ、さっき」
「覚えていないといったでしょう」
「良い夢だったんだろ?」
「でも夢です」
コーヒーカップがソーサーに軽くぶつかる音がした。ごちそうさまでした、という感情のない声と共に机の上を滑り、ガイの方へ押しやられる。出ていけという合図だった。ガイはやはり人の好さそうな笑みをその貌に浮かべたまま、静かにそれを片付けて部屋の主に手を振った。
楽園はどこですか
7年間の軟禁生活のおかげで、すっかりひとりじゃ起きられなくなってしまった公爵家の坊ちゃんは、ある朝眠そうに目を擦りながら寝言のように口にした。
「アッシュと繋がってる間は、アッシュが見ている夢を俺も見るんだ」
それを聞いたガイの感想は、
「それはまた、アッシュが憤死しそうな話だな」
同時に、少しうらやましい現象でもあった。ガイはどう頑張っても、ルークの夢の中を覗くことはできないのだから。
実は仲間の中では一番ガイと長い付き合いであるナタリアは、いつも彼に「ルークを甘やかすな」と叱咤するが、そういう彼女もルークには少し甘い。ガイのそれとはまた別の違った甘さだ。ルークが、昔自分と共に国を変えていくと約束した『ルーク』とは違う人物だとわかっても、彼女はその態度を大きく改めることはなかった代わりに、ガイはますますルークに甘くなった。・・・とは、意外によく見ているアニスの見解だ。
「ああいう手合いは、ちょーっと厳しいくらいでちょうどいいと思うんですけどー」
「おやアニス、いい母親になれるかもしれませんねぇ」
「へんなこと言わないでくださいよ大佐ぁ〜まだアニスちゃんうら若き乙女なんですから!」
しかし実際、彼女は飴と鞭をうまく使い分けられる良い親になれるだろう。同時に、子供に要らぬ心労かけさせるような真似をしないようにだって努められるに違いない。
「でもアニス、ガイは恐らく彼に甘いのではないと思いますよ」
「ほえ?」
「ガイはいつだって自分自身に甘いんです」
アニスはジェイドを見上げながら少し首を傾げる。ジェイドはただいつも通り薄く笑んだまま、同じように首を少し傾けてみせた。
夢って結構こわいのな、と、ぼんやり呟いた声を拾ってしまったから、簡単な言葉で夢を説明してやった。屋敷に居た頃はそんなに見た覚えがなかった、旅に出てからは頻繁に見る、それは眠りが浅いからだと教えてやった。感心したように目を丸くさせる赤い髪の子供は、しかし次の瞬間にすこし落ち込んだように眉尻を下げた。
「どうしました?」
「じゃあアッシュのやつあんまり眠れてないのかな」
そこで素直に心配だという体で云うからタチが悪い。そういう彼は、人を殺したその日は眠れず布団に蹲っている、人の心配をするより先に自分のことをどうにかしろと、いつも周りに言われているのだろうに。
「まぁ、彼も馬鹿ですからねえ」
そういえば、自分は夢など殆ど見たことがない。いや、実際には見ているのだろうが、興味がないからいつもちゃんと覚えられていたためしがないのだ。現実で目にしたものなら何であっても忘れることなく永劫に覚え続けていられる自信はあるが、こればっかりは仕方がないと言わせてほしい。
あまりにも子供の寝つきが悪い日が続くときは、薬を使った。すぐにそういった類のものに頼るのはよくない癖だと自覚はあったが、これが一番有効だということを自分は知ってしまっている。部屋の消灯前に水とそれを差し出して飲ませて、寝台に沈み込むまで静かにそれを見守った。そういえば、軍属に就いたばかりの頃は自分もよくこれを使っていた。効能時間を計算さえすれば、非常に有益な代物だった。しかし、使い続けるうちに抵抗がついてしまって、今ではもうほとんど効果がない。なのにお守りのように今もずっと持ち歩いている。
三人部屋で、同じところに子供の自称保護者が居るときでも、ジェイドは容赦なく薬を盛った。寝付いた子供を前に優しい笑みを浮かべたままで居るその保護者は、恐らくジェイドがコップの中にそれを突っ込んでいたことを知っている。一度は咎めるような視線を送りながらも、彼は黙認した。自分の子供の安眠を優先した。
「貴方ももう寝なさい」
明日に響きますよ、と、自身も開けていた本をようやく閉じて、灯りを消すために立ち上がる。ああ、という生返事が聞こえた。彼は割合、ひとつのことに集中しはじめると他のことが疎かになる節がある。というより、その人当りの良さに反して彼は、自分の望ましいものは常に手元にないと気が済まないタチなのだ。そういう感覚はジェイドにはわからない。
「ジェイド、あんた、昨日の夢は覚えてるか?」
音素灯を消したところで、ガイの小さな声が尋ねてくる。
「いいえ」
「そうか。俺は久しぶりにホドの夢を見たよ」
次の日の夜、ジェイドは無言でガイにひとつの紙袋を渡した。
そろそろ残りが少ないからまた作らなければと、頭が冷静なことしか考えない事実に、その時だけは感謝した。
ティアに叩き起こされ、少し不機嫌そうなまま顔を洗って朝食の席についた公爵家の坊ちゃんは、皿の上に転がる人参の欠片と睨めっこしながら、そういえばと声をあげた。
「アッシュの夢に、ガイも出てきたんだ」
でもなんだか俺の知ってるガイとはちょっと違ったなぁと、フォークで皿のふちをなぞっている。向かいで何の憂いもなく食事をしていたガイは困ったように笑った。
「夢だからなぁ」
果たしてそれは、アッシュが覚えている自分の姿なのか、それともアッシュにとって理想の自分の姿なのか。どうなんだろう、と考えたのは一瞬だった。ただその夢を見たというルークが、その夢の自分をどう思ったのか、それだけは少し気になった。
楽園はそこですか
寝ないんだな、と少し驚いた顔で思わず言ってしまった。
「ああ、やはり先ほどのコーヒーにはあれが入っていたんですね」
道理で少し甘いと思いましたと、疲れたような呆れたようなため息を吐かれる。そうか、甘いのか。見た目は苦そうだなと思っていただけに少し予想外だ。
「残念ですが、私にはもう効きませんよ。ていうかまだ持っていたんですか、あれ」
「ああ、結局使わなかったからな」
「最近夜更かしの多い陛下にでも使ってやってください」
「そんなことは自分でやれよ」
ここしばらく、この食えない男が殆ど睡眠時間を確保できていないことは知っていた。理由は簡単だ、連日の会議で頭の堅い議員たちを如何に説き伏せるかに苦心しているから。それにはガイだって全力で協力している、しかし幾ら伯爵位を戴いていたとしても、今まで一介の使用人で政治の場に主体的に関わることのなかった身だ、言う程役には立っていないし、できることと言えば使い走りくらいのものだろう、今は。それは仕方がない。
代わりと言ってはなんだが働きづめの男を相手に、明日は偶の休みなのだからと思って気を回してみたのに、つくづく可愛くないおっさんだ・・・いや、可愛くても困るが。心の中だけで大仰に肩を竦めて見せる。
「そういや、夢は見たのかい?」
「・・・今日は何も」
「そうか」
「貴方は何か見ましたか?」
「いいや。なかなか良い夢には出会えないもんだな」
「所詮夢ですからね」
「夢なんだから、ちょっとくらい良い思いさせてくれたっていいのに」
殆ど冗談のようなガイの物言いに対する男の反応は冷たかった。相変わらず確固としたものにしか信頼を置かない人間だ、完全なる現実主義の側面は少し軟化したようだが、他人の空想にあからさまな嫌悪を示すことがなくなっただけで、自分がそれを求めることはやはり考えないらしい。いや、考えることを恐れているだけなのか。やさしい空想を他所に現実はいつだって残酷だった。
自分だって、決して目を閉じきっているわけじゃない。ただ会いたい人がそこにしか居ないから、どうしても瞼を降ろしてしまいたくなるだけだ。でもそれでは駄目なのだと、誰に言われたわけでもなく知っているのに頭が重い。
「ジェイド、明日ちょっと付き合えよ」
「お断りします」
ぴしゃり、と音がしそうな速さで即答される。
「貴方の話は長いんですよ」
しかしその後に返された理由はどこかいつもの食えない口調で、楽しげに落とされた。
ああそうだ、もうすぐ2年、そう、2年だ。2年も待っている。こんな曖昧な時間にもそろそろ終わりが来るだろう。変容の中でもがく世界に取り残されたような心のままで、後ろには戻れないからだを引き摺るように。
そしていつかその瞬間が来ることを、自分は望んでいるのか、男は予測しているのか、今度はそれを、知りたい。
ユートピア
世界はまだ、私たちに優しくない。
アビスに再燃してまっさきにかいた話でした。ジェイルクをかくつもりだったのにいつのまにかジェイガイになり、最終的にガイルクに落ち着いたとかいう無軌道っぷりです開き直った。