目覚めは良い方だと自覚している。規則正しい生活をしているわけでは決してないのだが、こういうのは体質らしい。起き抜けでも体は不自由なく動いたし、冴えた思考は自然と眠りにつく前のものを引っ張り出してくることができた。と、言っても大した話ではない。起こした体ですることなんて毎日反復し続けて慣れた行為であるし、考えることだって単純なものだ。ああ、明日は○○時に起きなくては。××時に出るから、△△時には準備を済ませよう。起き上がって顔を洗って、朝飯作って朝飯食べて。△△時まであと□□分。
朝が来る
寝台から体を起こして、適当に朝食をつくって適当に口にして、歯を磨きながら大きな鞄を引きずり出してきた。思ったより早く起きてしまったようなので時間にはかなり余裕があるが、せっかくならその時間、焦らないで過ごしたい。
大きな鞄のわりに、中身はかなり粗末なことになった。あまり入っていない所為でまともに鞄の形を作れていない。持ってみても重さをほとんど感じなくて少し顔をしかめた。
「カノン」
軽い鞄を片手に提げてリビングに戻ると、同居人が朝食に手をつけていた。まだ少し瞼は眠たそうだが意識ははっきりしているらしい。すっかり身支度を整えているこちらを無表情に見つめている。
「海界にいくのか?」
特に間も演出せずにたやすく頷く。そこから先に会話が続かない。
そういえば、現在の己の立場とはいったいどういうものなのだろう、と、カノンは思う。
確かに自分は、聖戦において双子座の聖闘士として戦った身だ。しかし最後の仕事はサガに譲った。自分はあの優しい女神のためと個人的な感情で闘ったに過ぎなかったし、今でも聖闘士の精神のようなものを自分は持ち合わせていないと考えている。
しかしだからといって自分は海皇の海闘士、それも彼らをまとめる海将軍筆頭なのだとも、決して言えなかった。騙していたのだ、海に落ちたときの幼稚な発想のままで。許されるべきことではないのは百や千以上にも承知だった。
自分はどちらでもないと自覚しているのに、カノンは今『どちらでもある』人間だった。それに不満があるわけではない。そんな感情を抱く権利など自分にはない。罪人にそんな立場を与えないでいただきたいなんて、自分の罪の大きさを嘆く発言をする気はないが、それを過ぎ去ったことだと言ってはならないことだって理解している。つまりは、受け入れるだけだった。聖域の女神が、カノンを双子座の聖闘士にというのなら聖闘士になるし、海皇が海龍となれというのなら海龍にもなる。それが罪滅ぼしだろう。
おかしな立場だ。結局どちらにも重く腰を置かず、ほぼ毎週忙しなく行き来を繰り返している。相変わらず、曖昧で中途半端な存在。この軽い鞄が何よりの証明だった。行き来してばかりだから私物もどちらかに散らばって、ああ忘れてきたと思っても簡単に諦めがついてくる。
沈黙が続くなか、サガは気にした風もなく再び朝食に手をつけた。そこでようやく緊張の糸がほどけたようにカノンも軽く息を吐く。最後にリビングの机上に散らかしていた書類を集めて、無造作に鞄へと突っ込んだ。それを見てサガが複雑そうに顔をしかめた。
「もう少し丁寧に扱えないのか」
せめてファイルを使うくらいしろと文句を言われたが無視をする。別に大した書類でもない。向こうで確認に使えばすぐに処分されるような程度の紙切れだ。
「聴いているのか、カノン」
「サガ」
わざとらしくサガから背を向ける形で作業していた体をひねって、首から上をサガと向き合わせる。訝しげな表情を浮かべるサガに向けて右腕をずい、と差し出した。
「なんだ」
「仕事」
「は?」
「海界に持って行くものはないのかといっているのだ。またいちいち使いを出すのは面倒だろう。二度手間になる」
ますますサガの表情が険しくなる。彼とて、自分の弟の意図したことを読み取れなかったわけではなく、そこには非難の気持ちも込めていた。
「…今日はない」
「そうか」
「次に帰ってくるのは何時だ?」
「わからん」
「…そうか」
素っ気ない返事にはもう慣れている。もうこんな歳にもなって兄弟仲良くしようとは言わない。言わないが、腹だけは立てる。カノンが聖域にも海界にも居着かずふらふらとふたりの神の前で膝を折るなら、せめてここにしか居場所のない自分が見守っていてやりたかった。
やることを無くしたのか、カノンはソファーの背凭れに寄っ掛かり、退屈そうに欠伸した。さっさと準備して時間までのんびり過ごそうと思っていたのに、先ほどから何時にも増して鋭いサガの空気が全身に突き刺さってくる。これだから嫌だ。背を向けているのをいいことに、あからさまに機嫌悪く眉間に皺を寄せた。あの気難しい兄にとって自分は、まだ小さな弟なのだと言外に責め立てられているようで。心の底辺に近いところでカノンはサガを恨んだ。
背後で椅子が引かれる音がした。続けて皿とフォークが擦れる音が響いて、木の床板を両の足が蹴りながらふたつは金属のシンクにぶつかった。途端に、カノンはくるりと振り向いて流しに立つサガを睨む。
「今日くらいは自分で洗え。また俺が戻るまで放置したら許さんぞ」
サガは一瞬驚いたように瞬きしたのちすぐに破顔してみせた。別に皿洗いごときを面倒がったわけではないと、この上なく微笑んで、改めて流しに向き合い食器を水に晒し始める。
「ならば何故いつも置きっぱなしなんだ」
「忘れているだけだ」
嘘を吐け、といつものように返そうと口を開いた瞬間、カノンの目には今にもサガの手から滑り落ちようとする一枚の平たい皿が映された。
「サ、」
ガ、と発音する前に皿は予想通り手のひらから離れ、しかし予想外にもう片側の手のひらの上にするりと収まった。そうしたサガの様子がすこしも焦ったふうがなくて、カノンは再びサガに背を向けた。
「あ、カノン」
白羊宮には人が集まっていた。と、いっても宮の主を抜けば他に三人が居るというだけで、集まっていた、というには不適切かもしれない。上から下りてきたカノンにいち早く気付き声をかけたのは、星矢だった。それに続いてアイオリアが振り向き、カミュがゆっくりと顔をあげた。
「おや、もう海界の方へ?」
十二宮の入口を預かるムウは、こうして月に何度も聖域と海界を行き来するカノンを、辞令じみた挨拶でよく送り出している。
「いつもの時間より、少しお早いようですが」
「サガがうるさい」
「なんだ、喧嘩か?」
不似合いなほど明るい声色で星矢が笑った。
「兄弟なんだから仲良くしろよ」
不愉快だといわんばかりに顔をしかめるカノンにも全く悪びれた様子を見せず、頭の後ろで手を組む星矢にムウが苦笑う。何だ、また喧嘩したのかと無神経に口を挟むのは、手にしたどこかの地図から目を離さないアイオリアだ。
「…別に喧嘩はしていない」
むしろ、喧嘩であった方が自分達はもう少し上手くやっていける展望があるのではないか。言いながら、ふとそんな風に皮肉を考えた。
「ところで、何をしてるんだお前たちは。こんなに固まって」
カノンの目線は黙ったままのカミュと地図を持つアイオリアに注がれている。偶然ここに、このメンツが集まった、とは考えにくかった。
「ムウに手伝いを頼まれてな」
「手伝い?」
「修理の必要な聖衣の、数の確認と確保だ」
答えたのは意外にもカミュだった。
「丁度暇だったから、俺たちが受け持つことになったのだ」
続いたアイオリアの言葉に、ああ、とカノンは納得した声をあげた。だから地図なんて眺めていたのか。なるほど、言われてみれば彼が持つそれは、エーゲ海、つまりギリシャのこの辺りの海域を示した地図だった。聖域に属する聖闘士たちの修行地がそこには数多く存在している。恐らく点在する聖衣の位置を表しているのであろう、赤いバツ印が目に入った。
「せっかく休める日だというのにそんな任務に行くみたいな真似、ご苦労なことだな」
「貴方もな」
「…」
「ん?そーか、カノン今日からポセイドンとこいっちまうのかぁ。つまんねーの」
アイオリアの隣で地図を覗き込むのにも飽きた星矢はそのまま大きく欠伸をした。そういえば、彼とはよく修行だ稽古だと銘打って模擬試合を行っては一緒に「遊んで」いた。女神の都合もあってしばらくは聖域に居座るつもりらしい、倍も歳が違うというのにこの少年は、まるで気にした風もなく同年代の相手をするような態度をカノンにとることが殆どだった。カノンも特にそれを咎めたことはないが、もう少し礼儀を持ってもいいんじゃないかと内心では引っ掛かっている。星矢本人はそのつもりでなくとも、周囲の目にはカノンを舐めているようにしか見えないからだ。
「また戻ってきたら相手をしてやる。それまではミロあたりで我慢しておけ」
「ミロかぁー…うーん」
「恐らく退屈しているだろうからな」
言いながら、昨日の事を思い出していた。しばらく海界に向かうから勝手に双児宮まで降りてくるなよと、わざわざ天蠍宮まで伝えに行っただけ。
「まったく、あいつも少しは率先して聖闘士らしいことをすればいいものを」
アイオリアが呆れたように眉を寄せる。ミロが気ままであるのは昔からで、凄まじい熱意を見せたかと思えば次に同じことをしても火が点かなかったりする。そんなことは既に嫌と言うほど承知済みだ。今更でしょうとムウが冷静に返すと、なぜかすまないとカミュが謝った。
「どうして貴方が謝るんですか」
おかしそうにムウが笑う。
「なあなあ、カノンいつ戻ってくるの」
空気を読まない星矢の幼い声が届く。カノンは解せないとあからさまに首を傾げてみせた。
「どうして、そんなことが気になる」
いつ帰ってこられるかなんてわからない。わかっていても別に知らせる必要はないだろう。言外にそう込めて返したのに。
「気にするだろ、普通」
「ふつう?」
「もし家族だったら尚更だぜ」
当たり前を語るその口調に、それ以上の追及をする気も失せた。
「わからん」
「ええー」
「だが呼ばれれば行くぞ。そう大した距離でもないだろうが」
別の神が支配するふたつの界隈を行き来する行為だ、そう容易いものでもないのにカノンの足は軽かった。
隔てる大きな壁が、物理的に立ちはだかっているわけでもなければそれを阻止するものもない。足踏みなんてしなくていいし、視界は鮮明であって曇らす靄もない。
「じゃあ帰ってくるときになったら連絡してくれよ。たい焼き持ってくるからさ」
「気が向いたらな」
「別に俺にはしなくてもいいけどサガにぐらいはしろよな。さびしーだろ」
果たしてそうだろうか。カノンは内心でおかしそうに笑いを噛み殺した。サガは寂しがるだろうか、あの場所で朝を過ごしても、サガに対する恨み言ばかりを募らす自分なんかがいなくなって。生活に無頓着なサガの代わりに家事をするだけでロクに会話をしようともせず、全部終わればさっさと任務だ用事だと出かけてしまう自分がいなくなって。
「あいつが?」
表に素直な感想だけを洩らせば、それには星矢ではなくカミュが頷いた。そのまま優しげに目を細めてカノンを見る。
「いってらっしゃい、カノン」
その口振りがまるでサガのようで、とうとうカノンは小さく笑い声をあげた。
身体は勝手に動くといってもいい。戦士なのだから戦場では当然で、そうでなかったとしても分刻みで自分の時計は正確だ、あと××秒で海が見える。
どこにも落ち着かずにふらふらと、足ばかり軽く罪滅ぼしとは甚だ傲慢な自由の中で、神の前に頭を垂れる自分でも、選べる世界がそこに並べられているなんて。馬鹿らしいにも程がある。誰からも見捨てられるように生きてきたのに、結局誰にも見捨てられずに此処に居た。今更何もやり直せないが。
次の朝でも、サガの背中を睨みながらでも、過ごせる日があるのなら。うまくいかない時間の応酬の中で、当たり前のことを当たり前だと言えるようになれればいい。
未だ昇りきらない太陽が眩しく海面を照らしていた。カノンは目を細める。この下にはこの下の朝があるなら、どこに居ても、自分には自分の朝がある。
朝が来る
お世話になっております、しめさばさんのお家「五枚下ろし」がめでたく5周年を迎えたとのことで、お祝いに送らせていただきました。
お題は「朝のカノンさん」「海界にいく日の朝」とのことだったのですが…あれれ??どこで軌道をおかしくしてしまったのだろうか…
タイトルはYUKIちゃんの同名の曲より
別に聞きながら書いていたわけでもないんですが、できあがったらそんな心境でした。相変わらずのぐだぐだ具合です…
こんなものでよろしければどうぞしめさばさんへ。
改めておめでとうございますなのです!