水の中だ、と認識するまでにそう時間はかからなかった。鈍った判断力の代わりに本能が働く。酸素を求め、水面を目指そうと無意識に手足を動かした。そしたら左手首に重量がかかった。
何かがそれを掴んでいる。息苦しさに頭など大して働かないが、物凄い力で引っ張られているという感覚ぐらいは認識できた。いや、引っ張られている、というのはあまり正しい表現ではない。左手首に絡みつく五本の指の持ち主は今にも水底に沈みそうなぐらい脱力していて、意識などとうに手放しているように思われた。

背筋がぞくりとした。訳の分からない恐怖がそこにはあった。しかしそれを気にしてぼんやりすることを圧迫された肺が許そうとはしない。掴まれた左手首を伝い、夢中になってそれに続く体を引き寄せた。重量からある程度解放されたことを確認し、再び水面を目指す。





水の中は暗くて、自分がどのくらい深いところを漂っているのかはわからなかったが、目指すべき場所は明白だった。きらきらと白く輝く光はいつも沈んだときの道標だ。がむしゃらにそれに向かって身を動かす。そろそろ無意識も途切れそうだという間際に、ようやく指の先が空気の層を捉えた。












































何となく予想はしていたから不意をつかれたということでもないが、覚悟を決めて待っていたわけでもない。むしろずっと動かなければ平穏だ、などと弱気なことを考えていた。それだけ、何てことはない、言うなれば生温いこの関係を気に入っていたのだ。



予想はつけていたのに、いざその場面に対峙してみると意外にも衝撃的だった。一瞬、身体の全運動が停止したようにも思われた。
「………」
カノンはただ黙るしかなかった。何か相応の反応を返さなければおかしいだろう、と至極冷静に考える傍ら、盗み見た目の前の男の表情が、普段くだらない話をしているときのものと大して変わりなくて、はっきりと困惑を覚えた。
「……それで、どうしたらいい?」
何度か台詞を頭中で反芻させて、ようやく発音できたのがそれだった。
「別に、今までと同じようにしてくれたらいい」
抑揚のない声でラダマンティスが返す。
「ただ伝えておこうと、そう思っただけだ」
カノンは思わず歯軋りした。とっさによぎったものは、このまま負けるのか、という非難の声だった。これが勝ち負けの問題ではないことは勿論わかっている。ただ相手がラダマンティスだったのが手伝ったのか、最悪なことにカノンは、真っ先にこのまま自分が白旗を上げてしまうことを恐れてしまっていた。
先手必勝とはよく言ったものだ。例えば先に自分が手を打っていれば、此処まで衝撃を受けることもなかっただろうか。
「……そうか」
それ以上の声が出てこない。カノンは気付かれないように、左指の爪を右腕にきつく差し入れた。同時に少し前、ひどく晴れた日の午後、アイオロスが高らかに告げた一言を思い出していた。



(ひとを好きになるのなんて、実に簡単な話だ)



そうであるといい。ラダマンティスがカノンを好きだというそれも、そのぐらい簡単なものであることを、カノンはひたすらに願っていた。


























自分が誰かを好きになることと、誰かに好かれることとは、まるで次元の違う話だとカノンは思っている。自分が誰かを好きになるのはある程度仕方がない。そうであったとしても動かさずにいるのは簡単だ。知られなければ、後は自分のひとりの問題である。だが好かれるのは、違う。生まれて今まで誰かに好かれたことなどなかったお陰で知らずに済んでいたが、これは恐怖だ。実の兄であるサガに好かれることですら、カノンには恐怖だった。しかし兄弟だから、サガはまだいい。それがラダマンティスはどうだろう、あれは何だ?カノンの何であるのか?

嫌ってはいない。嫌っていたら予定を調節して冥界まで足を運んだりはしない。むしろ好きなのだろう。その自覚があったからこそ、あれは不意打ちではなかったのだ。だがそう、端的にいえば本当に、覚悟が足りなかった。









ラダマンティスの言葉どおり、カノンはそれからも今までと何ら変わることのない態度をとった。本人がそうご所望なのだから仕方ない。それにカノン自身、今更何を変えろと云われても無理に思われた。
(そもそも貴様、俺のどこが好きなのだ)
と、いう質問が無意識に浮かぶことにもカノンは嫌気が差していた。聞いたってロクな答えが返ってこまい、むしろ聞いた方が後悔するのだろう。それにそこが問題なわけではないことぐらいは、カノンにだってよくわかっていた。

当たり障りのない会話を重ねるのが普通で、そのいつもどおりの背後で退路を確保する。ラダマンティスに負けるのは癪だが、負けるぐらいならここから逃げよう。そう、いつもサガやミロ相手にしているのと同じように。
























あれは何をしにいったんだったか。曇天の空の下を歩いていた。腹が減ったから何か食うか、とラダマンティスに声をかけたら、何が食いたい、と返事が返った。
「何でも良い」
当然のようにそう返した後で、ふと考えた。何かを期待していたのかもしれない。ラダマンティスの表情はいつもと変わらず、そこからは何も窺い知ることはできなかったが、カノンは急に背筋が寒くなった。
「お前は?」
誤魔化したくて口を開く。
「おれも、何だって構わん」
…互いに欲がない。金に困っていることもなければ、選択の余地がないほど食事のできる場所が少ないわけでもないというのに。これがミロならどうだ?直ぐにあれもこれもと要求してくるのだろう。あまりの注文の多さにどれかに絞れと、自分が呆れたように促すのだろう。しつこく比較を繰り返しているのは、この状況に思考が不安定になっていることに妥当性が欲しかったからである。

しばらく、会話が途切れた。周りを音が囲んでいたため、長く続いても特に辛いものには思わなかったが、不可思議な沈黙だった。

要らない思考を追い出すようにカノンは辺りを見渡す。目に入る軽食店をひとつひとつ確認して、あれとこれとそれと、どれがいい、とそれぞれを指差した。予想に反してラダマンティスは、すぐにその中のひとつを名指しにした。どこでもいい、と云われたら既に自分で決めたひとつにするつもりだった。奇妙な違和感を感じて、わざとラダマンティスに背を向ける。
「いいのか?」
途端、声をぶつけられた。
「…何がだ」
思わず不機嫌そうに返してしまって後悔した。少し首を捻れば、ラダマンティスは黙って此方を見ている。思考が止まった。

頭に血を昇らせることすら、この男は許してはくれないらしい。






大抵行けば待っている。選択肢を足下に転がされて微妙に躊躇うのを見ると、同じように足を止めている。そうして、カノンが確かな意思を持ってどれかを選ぶまで、ずっと待っているのだ。
サガと歩けば、サガが前でカノンが後ろなのが当たり前で、カノンが足を止めてもサガが立ち止まることはない。置いて行かれるのが嫌なら、こんなところで躓いている場合ではないだろうと、大きくひらいた溝が教えてくれる。
そうでないなら、誰かは前から手招きをする。しなくても、そこで振り返ってこちらを見ている。四方八方に選択肢が散らばっていても迷うことのないように。

だから、忘れているのだ。或いは何処かに投げ捨ててきた。それをラダマンティスがどこぞで拾って、自分のもののように大事にしているのだとカノンはようやく理解した。


(それは、)
要らないものだから捨てて来いと。たったそれだけのことが巧いこと言えないのは、本当にそれが要らないものなのか、直視する覚悟がないからだ。要らないことにしておいた方が楽だとは言うまでもないが、それでラダマンティスが満足すると思えない。ラダマンティスはカノンが自発的に選ぶのを待っている。そういった意味でカノンを信頼している。

退路を塞がれた、とカノンは思った。いや、初めから逃げ道などなかったに違いない。これはラダマンティスから逃げることではなく、自分から逃げることだろう。そして此処には矛盾がある。自分から逃げることはどうしたって無理なのだという矛盾が。

無性に腹が立った。ラダマンティスにではない。どうしようもない自分にである。突きつけられたものの前で立ち往生しているだけなら、負けているのと何ら変わりないではないか。

…いや、そもそも何に負けるつもりなのだ、自分は。



すっかり黙り込んで静寂を続かせてしまった。いつの間にか近くまで寄ってきていたラダマンティスに腕を掴まれて、ようやく意識が現実に戻ってくる。大丈夫かだとかどうしただとかいう声に、何でもない以上の返事が返せない。
一応、嘘ではない。何でもないことに腹を立てている。そのことに失望して欲しい気さえした。正しく説明すれば済むかといえばそうでもない、というより何と言いようもない。怖いから止めろって、それはどんな言い訳なんだ一体。




「……なぁ」
「なんだ」
「お前、俺の何が好きなんだ」
何度も潰した疑問はまたしぶとく蘇って、結局ひとり歩きを始めてしまったらしい。
「……難しいことを聞くな…」
ラダマンティスは渋い顔をした。珍しく目がぐるぐると落ち着かない様子をしている。
「いや、そんな真剣に考え込まんでいい。気まずいだろうが」
簡単でいて欲しい、と、後に続けられる筈だったそれだけは切って捨てた。寧ろ返事しなくていい、正直聞きたくない。そんなの、サガの口から出たって背筋が凍るのだ。
「…わからん」
ほんの少し、息を吐いた。一瞬だけ、何とか救われた気分になった。
「ただそれ以外に何とも表現しようがない。だからそう言った」
















































ああだからつまり、どうしたって無理だったのだ。
















































地上に手が届いたのは、水面に首を出してから数分後だった。抱えていた体も水から放り投げた。それから何度も吐いた。口から水と胃液と混ざったものがぼたぼたと零れた。頭が上手く働くまでにはまたもう少し時間がかかった。
長時間水の中に居た所為か、体が酷く重たい。息継ぎがまともになってきたぐらいで、ようやく放り投げた体に関心を向けた。何の確かめもせずに胸を片手で圧迫してやった。

当然のように、それは呻いて水を吐き出した。丁度、先程のカノンと同じように。



脳に酸素が回り出すと、よく助かったなと自分に苦笑った。別にあのまま沈んで死ぬ気は全く無かったが、突然のことすぎてあれだけ素速く対応できたのは奇跡に近い。溺れることにだけは敏感なのだ。そこから這い上がって逃げ切ることにも。

水を吐き出す喉がやがて空咳を繰り返しはじめたことを、今度はしっかり確かめた。ゆっくり胸から手を退けて、それを地面に押し付けた。至る所から水が滴り落ちて音を立てる。
よく助かったな、本当に。ひとりだったら、確実に沈んでいただろうに。こんなときに改めて思い知らされるのだ。ひとりではないということは、諦めないということなのだと、不本意な形を作ったまま。
どこに逃げを打ったってどうせすぐに追い付かれる。十二分にわかっていたって逃げることは止められない。誰かがそれに呆れてくれたら、自分の所為にしてそこで終わりにさせられる。何にも傷付かないまま傷付けないまま、水底に落ちる。




つまり、つまりだ。ラダマンティスはそれをカノンに許さなかったのだろう。だから、好きだとか血迷ったことを言うのだ。ひとりだったら簡単に捨ててしまえることを、ひとりにしないことで防いで。真性の大馬鹿者だ。だが悔しいことに、試みはこうもうまくいっている。




空咳が止んだ。様子を窺おうと顔をあげかけると、地面について上半身を支えている手首を思い切り掴まれた。睨むように見ればラダマンティスの目がうっすら開いていた。それはしばらくあちらこちらをさまよった後、真っ直ぐにカノンの方を向いてきた。
「大丈夫か」
それはこっちの台詞だと笑う元気は残っていなかった。代わりに目を見返してやった。

好かれている、と思うのが怖い。逃げられなくなる気がするからだ。どこが好きかなんて知るだけ無駄だろう。例えあの時具体的な返事が返ってきたとしても、ずっといっているように問題はそこじゃない。誰かに繋がれた手から自分の体温を知るように、胸の下とか喉の奥に溜め込んで淀んだ弱音や本音と、向き合うことになるのがきっと怖いのだ。
「カノン」
掠れた声が耳に届く。双方ずぶ濡れで冷え切っている筈なのに、腕の掴まれた部分だけが酷い熱を持っているように思われた。
(どうしたって、)
もう一度、カノンは咳をした。喉が切れて血が出た。
(無理なんだ、自分から逃げるのは)
ラダマンティスは黙ってカノンを見ている。こんな状況でも待っているのだろうか。本当に、本当に馬鹿だ、と、呟こうとしてまた血を吐いた。そしたら掴んでいない方の手が目の前に伸びてきて、汚れた口元を指先でなぞられた。





(ひとを好きになるのなんて、実に簡単な話だ)
弱くはなれない、なってはならない。そこだけが守られたプライドとして、あとはもう白旗をあげてしまおう。どこなりとも好きになればいい。どうせその手も振り解けないし、易々と解かれてくれもしないだろうから。







ようやく、カノンは足下の選択肢に腕を伸ばした。僅かにその先に指をかける。背筋が震えた。残念ながら親切に、適切な答えをもたらしてくれるものは水の中のようには存在しない。それでも確かな意思を持って動き出したそれに、ラダマンティスが表情を緩めたのをカノンは見た。










揺り籠のこども





またまとまりがなくてすみません…何かちょっとうすぐらーいのがかきたかったのですが、大して薄暗くもないような…
相変わらずのぐるぐるさ加減です。うちのラダカノはどっちもどっちですね本当に。