足下が真っ赤だ。
ミロは暫く硬直していた。俯けた顔を静かに動かし、前方に立つアフロディーテへと向ける。白い薔薇を手にしたまま周囲を入念に見渡す彼の聖衣から赤い血が滴り落ちた。ミロは茫然とする。血に狼狽えたわけではない。そんなもの、聖闘士であれば嫌というほど見るものなのだ。
「殺す必要はなかっただろう」
ミロは自分の隣に転がる肉体へ目をやった。その胸には血で赤く染まった薔薇が突き立てられている。瞳孔は開き、口から更に殆ど黒ずんだ血を吐き出し、僅かに指を痙攣させている。
まだ苦しんでいる。
「教皇は、殺せ、などとは仰っていなかったぞ」
ようやく振り返ったアフロディーテは冷たい目でミロを見た。ミロはまたも固まった。
「だからどうした?任務遂行の妨げとなるならば女神の名の下に粛清を加えよと、お許しはいただいた筈だが」
「…これが?これが、女神の名の下の粛清なのか?」
ただの殺戮だ。それだけは辛うじて喉の奥に飲み込んだ。認めたら終わりなのではないかという恐怖があった。
「甘いなミロ」
鋭い刃物が胸にちらつく。
「納得いかないのなら今日はもう帰りなよ。代わりにデスマスクを呼んでおいで。後処理しなくちゃならないからね」
その物言いは、幼い頃、落ち着きないミロを諭していたときのものによく似ていた。しかしミロは酷い裏切りを感じた。信じられないものを見るような目でアフロディーテを睨んだ。情には敏感だった。その言葉の中に何の労りも慈しみもないことを察するのは容易かった。
おかしいな、何かが変わってしまったらしいのだ。自分の知らないところで大きく、何かが。冷たい感触が肌を撫でる。
「なにがあったんだ?」
早朝、聖域中が大騒ぎしていた。ミロは不思議そうに瞬きを繰り返し、訓練場の近くで見つけたアフロディーテに声をかける。アフロディーテは少し驚いたようにミロを見て、しかし直ぐに優しく微笑んだ。
「ああミロ、悪いが私にもよくわからないんだ。私もさっきこの騒ぎに気付いたばかりでね」
一回り小さなミロの頭を撫でてやりながら、アフロディーテは溢れかえる人の中をきょろきょろと見渡した。誰かを探しているらしい。
その間も騒ぎ立てる声は止まずに、むしろどんどん大きくなっていっているように思われた。ミロは不安になり、無意識にアフロディーテの服の裾を掴んだ。
(そうだ、カミュ!)
ミロもアフロディーテと同じように辺りを見回した。赤い髪で自分と同じくらいの背丈の少年の姿を必死に探した。それは人の群れの中にあった。見つけてくれたのはアフロディーテだった。
「ミロ、私はシュラとあいつを探してくる。見つけたらすぐ戻るから、カミュと一緒に待っていて」
アフロディーテは少し早口にそうミロに言い聞かせた。騒ぎに巻き込まれないようにねと最後に強く念押しする。そしてそのままミロをカミュの方へと押しやった。しかしミロは直ぐには動かなかった。何も言わないが、不安そうにアフロディーテを見たままである。
「大丈夫だよ、すぐ戻るっていっているだろう」
アフロディーテは優しく微笑んだ。
「ほんとうにすぐか?」
「ああ」
ミロはほんの少し首を縦に動かし、そのままアフロディーテに背を向けてカミュの元へ走った。カミュもミロを見つけて駆け寄ってきた。そのカミュの手をがしりと掴んでようやく安心したミロが後ろを振り返ったときには既に、そこにアフロディーテの姿はなかった。
それが、ミロの見た最後の『アフロディーテ』だった。優しくて面倒見の良いアフロディーテ。怒ったときは誰よりも恐かったが、ミロはアフロディーテが嫌いではなかった。アフロディーテはサガが好きだと知っていたからだ。ミロはサガが好きだった。その温かな情が心地良かったのだ。
あの後、アフロディーテは戻って来なかった。アイオロスが聖域の反逆者になったと知ったのは、カミュと二人でアフロディーテを待っているときだった。訓練場に罵り声が飛び交っていた。その中心にいたのは、アイオリアだった。
たった一晩、眠っただけなのに。
そう意識すると布団に潜り込むことすらできなくなった。夜が明けたら、また自分のわからないところで何かが始まって何かが終わっているかもしれないのだ。昨日まで当たり前だったものだって、直ぐに嘘に変わることを思い知らされた。
幾ら信じたくないと口にしたところで事実は覆らない。ただ『アイオロスが反逆者になった』と、たったそれだけが聖域中で話されているのであればまだよかった。信じるものかと声を挙げることは容易かった。しかしミロの眼前にはそれを許さぬ現実があった。アイオリアだ。アイオロスの弟だと尊ばれていたアイオリアは、一瞬にして地に落とされた。
その酷い様をミロは本当に、目と鼻の先で目撃している。蹴り上げられて血を吐くアイオリアはいつも何も言わなかった。どれだけ罵られても激情して誰かにつかみかかることをしなかった。ただ視線にだけは常に覇気を宿らせ周囲の人間を一瞥した。
だから、ミロは押し黙ったのだ。もうこれは信じる信じないの問題ではない。状況の把握が今ひとつできていなかったミロにもそのぐらいは理解できた。
ある時、任務帰りのシュラを捕まえて問い質した。アイオロスが逆賊とはどういうことか、と。あの日以来シュラと話したことはそのときまでなかった。シュラはミロを見て驚いたまま動かなかった。
「シュラが討ったと聞いたんだ」
勿論、噂で、だ。ミロはほとんど信じていなかった。シュラがアイオロスを尊敬していたことを知っていたからだ。
シュラは何も言わなかった。半開きのまま固まった口元は弁解も肯定も否定もしない。茫然としていた。
ミロは、シュラの右手が赤黒く染まっているのを見つけた。
「…怪我でもしたのか?」
ようやく意識が戻ったようにシュラは、はっとして自身の右手を見やる。まだ皮膚にこびり付いているそれが、乾いて、ぱり、と音をたててこぼれた。
血だ。ミロは息を飲んだ。
「なにしてんだぁ?」
突如、十二宮の階段の上から声がした。わざと大きく音をたてて階段をおりてきたのは、蟹座の聖衣を纏った男だった。勿論彼を、ミロも、シュラも知っていた。
「おいガキ」
硬直するふたりの側まで来た男は、何の躊躇いもなくミロの首根をひっつかんで近くの岩場に投げつけた。
「……!!」
シュラが慌ててミロを目で追う。ミロは突然のことに目を丸くさせながらも、受け身をとって衝撃を流した。
「な、なにすんだ!」
「なにって、お前も直に聖闘士になるんだろ?だったらこのくらい、予想はつけなきゃなぁ」
男はけらけら笑った。ミロは一気に頭に血が上り、男に殴りかかろうとしたが寸で止めた。男が冷ややかな目で自分を見ていた。笑っているのに、何も笑えていなかった。
「山羊座の黄金聖闘士様はなぁ、今から教皇様に報告があるんだよ。だから邪魔すんなってんだクソガキ」
ああ、あの目だ。ミロは思い出した。初めて行った任務のときに見たアフロディーテの冷たい目。あれはあの男の、デスマスクのものとよく似ていた。否、同じだった。
何が変わったというんだ!?
全ては、アイオロスが反逆者になったあの日からだ。ミロはアイオロスを憎み始めた。ミロが眠っている間に何かを変えてしまったアイオロスを心底憎んだ。しかし持て余した感情を発露させることはできなかった。それはやはり、一番そうしたい筈であろうアイオリアが何もせずただ黙って耐えていたからだった。
馬鹿だ!と叫びたかった。言ってやればいいのだ、『自分は何もしていない』と!悪いのはアイオロスじゃないか!こんなに納得のいかない話があるか!どうして何も言わないんだ、アイオリアだけじゃない、誰も彼も、何故変わったことを口にしない!
こんなのはおかしい!
自分の身を柔らかく包む毛布が鬱陶しくて仕方がなかった。そんなものを被せて眠らせようとしても無駄だと剥ぎ取ろうとした。
いつの間にか、毛布は天井に敷き詰められていた。
鬱屈する何かを全て持て余し、ミロはカミュの元へと走った。カミュだけはいつも通り、ミロを迎えると黙って話を聞いてくれた。だから、泣いて喚いて全部ぶちまけたのだ。
カミュは真剣な眼差しでミロを見ていた。散々吐き出したミロに飲み物を与えて落ち着かせた。そして何か思い詰めたように目を伏せた。ミロは首を傾げてその様子を見ていた。
「ミロ、私はシベリアに行こうと思う」
やがて決心したように口を開いたカミュの言葉は、直ぐにはミロの中で噛み砕くことができなかった。
「な、なんだ突然。なんだというんだ」
ミロは激しく動揺した。手に持った水の容器を躊躇いがちに置いて、カミュを見た。カミュは痛いほど真剣な顔をしていた。
「シベリアへ赴くのだ。」
「そ、それはわかった!なぜだ!?どうして!」
「ミロ」
しん、と。周囲の空気すらも動くのを止めたかのような沈黙が流れた。その時なぜか、ああ、覚悟を決めるときなのだ、とミロは思っていた。
「ミロ、私は水瓶座の聖闘士だ」
カミュの声は、想像していたよりも温かだった。
「……」
「変わってしまったな。確かにそうだ。此処は変わった。みんなはアイオロスの反逆の話ばかりをするが、サガだってその数日前からいなくなったまま帰ってきていない。アフロディーテとシュラとデスマスクは毎日任務だといって私達を避けるし、ムウはジャミールへ行ってしまった。アイオリアは逆賊の弟だと酷い扱いだ。アルデバランも不安そうにしていた。彼はアイオリアを庇い続けているが、それもいつまで続くか…。シャカは乙女座になってからは宮を出てこないし、相変わらず天秤宮は不在のまま…女神は降臨なされたというが未だその姿をお見せになってはいない」
「だから何だ!?カミュ、お前も変わるというのか!お前も!」
ミロは勢い良く立ち上がり、机を蹴り飛ばした。上に乗せられたものが床に叩きつけられ、あるものは転がり、あるものは派手な音をたてて砕けた。それでも冷静なままのカミュを見下ろし、ミロは叫んだ。ありったけの力を振り絞って叫んだ。
「お前までもが、俺を裏切るのか!!」
どうして誰もが安らかに眠れるのか、ミロにはわからなかった。自分の知らないところで何かは変わった。始まって終わった。
だが同じように、ミロも変わってしまったのだ。周囲に渦巻く悪意や好意、羨望嫉妬期待憎悪、その全てを感じ取りながら、ミロもただそのままで居られることなどできなかった。冷たい目が自分に向けられたことに失望した。アイオリアの態度に苛立った。しかしミロは黙ってしまった。そしてアイオロスを憎んだ。変わったのだ。それだけ世界は変質した。当然とは真理ではない、信じていても事実は何も覆らない。
「ミロ」
カミュが同じように立ち上がって自分を見た。す、と両手を静かに伸ばし、ミロの頭を撫でた。ミロはサガを、アイオロスを、ミロが愛したものを須く思い出した。
「大人になるのだ。私も、そしていつかお前も。それは恐ろしいことではない」
カミュは真剣な目をしたまま、ゆっくりミロに口付けた。
「裏切られたと思うのなら、そう思ってくれていい。だがミロ、これだけはわかっていてくれ」
私は、変わりたいのだ。
カミュの宣告はミロの視界を鮮やかに晴らした。もしかしたら、世界の終わりとはこんな色をしているのかもしれない。そんなことすら考えた。
足をふらつかせながら、ミロが辿り着いたのは処女宮だった。中を息苦しいほど満たしている小宇宙に顔をしかめることもせず、ミロは足を踏み入れる。
シャカはまるで待っていたような顔をしていた。ふらふらと歩くミロは、シャカが坐禅を組むその遙か前方にどかりと座り込み、呆れたように声を挙げた。
「お前はいつも通りだな。外で何が起こっているのかなんて知らん顔か」
「失敬な。それでは私が何も考えていないようではないか」
「なら何を考えていると言うんだ」
「それが全て口にできれば無理はない。ましてや聖域の規範も以前とは違うのだからな」
「規範?」
「ああ」
シャカは微動だにしない。
「君こそ、カミュがシベリアへ行ってしまってその体たらくかね?」
挑発がかった物言いに、ミロが少しむっとした空気を放つ。しかし返した言葉は意外なものだった。
「そうだ、それの何が悪い。カミュが居ないと此処は退屈だ」
「ふむ」
「シャカ、俺は決めた。決めたぞ」
「何をかね?」
変わってしまった多くの事項に、納得のいく答えなどありはしない。なぜだ、嘘だ、信じない!思ったところで何もない。いつの間にか変わった自分が作るものにどれだけの価値があるかも、今のミロにはわからない。先行きは暗雲だ。
「俺は生きるぞ」
小さな誓いだった。シャカが薄く目を開く。その確かな視界でミロの姿をとらえた。笑いも嘆きもしなかった。
「そうか」
それでいいとも悪いとも言わず、シャカは再び視界を閉ざした。
「で?なぜ君は私にそれを言いに来たのかね?」
「…お前の宮が一番、天蠍宮から近いだろう」
「ふむ、そう言えばそうか」
言うだけ言うと、ミロはすっと立ち上がりシャカに背を向け、ずんずんと出入り口へ引き返した。来たときとは打って変わった、しっかりとした足取りだった。
数日前にシベリアへ向かうカミュを見送ったとき、ミロはまだ完全に納得していたわけではなかった。聖域を去るその背を眺めながら、だがしかし、まだ、と。何か言おうと苦心していた。そもそも納得なんて、そう簡単にできていたら鬱屈などしなかったのだ。だが、だがしかし。
いつの日か、眠りについて目を覚まして、あの酷い思いを忘れるときが来る。変わる前の世界を、忘れたくなくても忘れる日がくる。そうやって忘れたものを積み重ねて、いつかは自分も変わる。
だが自分が温かな毛布の下で嘆いたその事実だけはきっと変わらないでそこにある。あの日カミュに叫んだこどもの我が儘も、誰が忘れたってきっと残されてそのままだ。
変わった全てのものはただ生きるために歩き出した。だからきっといつか、自分もあの痙攣する肉体に拳を突き立てる日が来るのだろう。天井に敷き詰められた毛布を睨み付けながら。
訓練場の中心で響く罵声の方へと向かっていく。アイオリアはやはりぎろりと周囲を睨みつけるだけだった。恒例となったその光景を見つめながら、ミロはすぅぅ、と空気を吸い込む。
「馬鹿猫!お前もうすぐ聖衣もらうんじゃなかったのか!?そんな雑兵ごときに勝てなくて、誰がお前を認めてやるかよ!!」
は、とした顔でアイオリアがミロを見た。ミロはその腑抜けた表情を、先ほどアイオリアが周囲にしていたのと同じように、思い切り睨み返してやった。
「何なら教皇の前で恥をかく前に、今ここで俺が恥かかせてやろうか!」
「…抜かせ!」
硬直する周囲をよそに、ミロはずかずかと訓練場に歩みでる。アイオリアも人々を押しのけてミロの前に立った。
「そこまで言うならやってやる!来いミロ、言っておくが昔のようにはいかんぞ!」
「はっ、言ってろ!お前こそ手なんぞ抜いたら承知せんからな!」
構えたアイオリアの目を見て、ミロはにやぁぁ、と笑った。そうだ、それが生きることなのだ。まだ上手く認識もないままに、ただ強く地面を蹴り出した。
揺れる命火
ほぼ三日クオリティ。パッションだけでかいた。そして私やっぱりミロ好きだと思った。
特に何も考えてなかったんですが、BGMはtacicaの「オオカミと月と深い霧」。以前からイメージがミロだとは思っていましたが今回はっきり意識して、とくに後半はかなり沿わせました。
…しかしこう、一貫性のない文章になってしまった。荒削りだぁー…でもかきたいことは目一杯詰め込んだつもりです。
余談ですが、『愛おしい朝』と照らし合わせて読むと、『なるほど』と思うかもしれません。BGMがtacicaなだけに