地上で天変地異が起こった後の冥界はまさに修羅場である。次々に送り込まれる亡者達を裁くだけで一、二週どころの話ではない。冥闘士をフル動員させて休む間もなく仕事を回す。幾ら冥衣のおかげで体に無理が効くとはいえ、ろくに寝る時間も取らずに動き続ければ倒れるものも現れる。そんな時期の冥界は、正しく『地獄絵図』を描いていた。
机の上に積み上げられた書類、ラダマンティスはその反対側に置かれた薄い紙切れ一枚を取る。彼の目の前にはその様子を無表情に見つめるバレンタイン、そしてその周囲には各々自身の机と向き合いながらも、二人の様子を固唾を飲んで見守る部下達の姿があった。
ラダマンティスは右手側に置いたペンを手に取り、紙切れの右下あたりにさらさらとサインを施した。そしてそれをバレンタインにゆっくり差し出す。バレンタインは丁寧にそれを受け取り、そのやり取りを黙って見守っていた皆の方をくるりと振り向いた。
その瞬間、待ってましたと言わんばかりに次々と椅子から部下達が立ち上がり、全員が同じ歓声をあげた。
「終わったああああー!!!」
凄い勢いで散会していき各々休憩へと入る中、部屋にひとり残ったラダマンティスは、椅子の背もたれに上半身を預けて深呼吸をした。
大量の亡者が冥界に送られて一週間と五日、ほぼ二週間。ようやく処理が完了した。我ながらよく頑張った方だと思う。いつも仕事をしようとしないミーノスにもアイアコスにも、とにかく仕事を回して捌かせたのが功を為したようだ。とにかくよくやった。部下達も相当頑張ってくれた。給料も割増だ。
改めて、壁に掛けられた予定表を見てラダマンティスは二週間という時の長さを思い知る。いわゆるカレンダー二列分、1ヶ月の約半分。その間中ずっと部屋の掃除をしていないとか、それ以前に部屋にも戻っていないとか、冷蔵庫の中が貧相なことになっているに違いないとか、色々頭の中を駆け巡ったが、とりあえずこのまま一眠りしたい、と切実に思った。二週間碌に寝ていないのだ。本当は部屋に戻って横になるべきなのだろうが、動くのも面倒でそのまま瞼を閉じる。考える間もなく眠りに落ちた。
冥界に太陽の光はないため時間の概念は適当だが、眠りについたとき確か時計の針は午後の六時頃を指していたはずだ。バレンタインに起こされ『お部屋でお休みください』と尤もなことを言われ、ようやく戻った自室の時計は既に十一時を回っていた。疲れていたとはいえ少し寝過ぎたかもしれない。とはいえ人間が平常取る睡眠時間にしては些か短い時間ではあったのだが。
あれだけ、眠たい、と頭と体が訴えていたにも関わらず、一度深い眠りを取ると妙に目が冴えてしまった。ひどく喉が渇いていたので、とりあえず冷蔵庫から水差しを引っ張り出して浄水を突っ込む。
少々生温いそれで喉を潤しながら、久しぶりに戻った自室を見回した。二週間程不在であったといっても、冷蔵庫の中が貧相なことと僅かに埃が積もったであろうこと以外に何ら困ったことのない部屋である。大仕事が一段落ついたので、部下達には明日一日休暇を言い渡している。ラダマンティスは事後確認があるため、大体今から約十二時間後にはジュデッカへ赴かなければならないが、それでもまだ十二時間ある。まずは簡単に掃除をしよう、次は買い出しをして…と予定を考えはじめて、ふと唐突な違和感に捕らわれた。
…静かだ。それは部屋にはラダマンティスひとりしかいないから当然である。しかしこの静寂が、…いや、自分がこの少し長めの『休憩時間』を掃除やらなんやらに費やそうとしていることに違和感を感じるのだ。
一瞬、全運動を止めてその静寂を受け止めてみる。
間もなくその馬鹿馬鹿しさに気付き、再び浄水に口をつけた。横目で見た時計の針は十一時過ぎ、この時間はギリシャのものに合わせてある。つまり時差を利用すれば買い出しにも十分行ける時間帯だ。
急ぐようにラダマンティスは冥界から地上へ向かう。二週間ぶりの陽の光は妙な眩しさを持って彼を迎えた。何故だか酷く、吐き気がした。
それから大体一週間程、冥界はそれなりにのんびりしていた。勿論それは大災害時の忙しさと比べたらの話であり、平常と何ら変わらないものであったのだが、あの忙しない二週間を乗り越えたあとの冥闘士達にとっては平和な一週間に違いなく。かく言うラダマンティスも、いつもと変わらず同僚二人に押し付けられた分まで執務をこなしている。最近慣れてきてしまったのか、カイーナの方へ次々と回される書類に何の文句も出なくなってしまった。心労が軽減されるのはありがたいことだが、これは逆に危険な兆候だと云うことをラダマンティスは知っている。このままあの二人は全く仕事をしなくなるに違いない。今でも十分していないのではあるが。
不意に、書類の端が右手の指を掠めた。一瞬、鋭い痛みが走ったのを感じて見てみると、人差し指の腹側の皮膚が僅かに裂けていた。ラダマンティスは不機嫌そうに眉を顰める。らしくない、と思ったが、そもそも『自分らしい』とはどの事を云うのかがわからない、とも思った。
冥闘士達にとっては平和な一週間。だがラダマンティスにとっては全く平和などではなかった。確かに大した事件も起きず珍しく聖域と会談もなく、押し付けられた分は増えたが仕事もそこそこで、アイアコスとミーノスが執務の邪魔をしにくることもなく。この上なく平穏であったはずなのだが、ラダマンティスは妙に苛立っていた。些細なことが癇に障った。何もかもが上手くいっていない気さえした。
机に肘をついた状態で額に手のひらを当て、ゆっくりと部屋の中を見回す。ここには変わらず、気味の悪い静寂だけが存在しているようだった。
しばらくして、バレンタインが書類を受け取りに部屋へとやってきた。ラダマンティスはいつもどおり、束ねた大量の書類をそのまま手渡す。受け取ったバレンタインの表情が少し変わった。
「ラダマンティス様、指を怪我なさっておりませんか」
傍らに置いていたコーヒーを飲み干していたラダマンティスは、そう言われてゆっくり視線をバレンタインへと持ってくる。バレンタインは書類の束の裏側を見ていた。しまった、とラダマンティスは思った。
「すまない、先程書類の端で切ってしまった。汚れていたか」
「この程度なら構いません。コピーをとりましょう。それよりもお怪我の方が心配です」
「大したことはない」
改めて右手人差し指にできた切り口を眺める。血は既に止まっていたが、切ったときの腹立たしさにそのまま放置していたため、そこら一帯の皮膚が血で汚れていた。バレンタインが白布を差し出してくれた。有り難く受け取り、適当に血をぬぐい取る。
「ラダマンティス様、しばらくお休みになっては如何でしょう」
「…何?」
「執務の方なら我らにお任せください。前の大仕事の後から一度もきちんとした休みをとっていらっしゃらないではないですか」
いつもならすっぱり断る場面だった。ラダマンティスは部下に仕事を任せてひとり休むなどという真似はしたくなかったし、何よりラダマンティスの生活の中心はこの仕事である。否応あるはずがない。
しかし同時に、ラダマンティスは部下の意見をそのような自分観点だけで棄却したくはなかった。特にバレンタインが異議を唱えてきたり意見をしてきた場合はきちんと聞いてやろうと決めていた。その場の思い付きや衝動で意見を云うような奴ではないと、ラダマンティスは知っている。
それに、何故バレンタインが休みをとることを提案してきたのか、その理由も大体予測がつく。ここ一週間、ラダマンティスがずっと苛立っていたのを一番近くで見ているからだ。ラダマンティスは表情の変化がわかりにくいが、機嫌の悪さは顕著に顔に出る。むしろそれは顔というより纏う雰囲気かもしれない。全身から不機嫌オーラが出る。だから表情も険しく見えてくる。
ラダマンティスはしばらく黙りこんだ。そこまでわかっておきながら、この忠義厚き部下の気遣いを素直に聞けないのは、疲れが機嫌の悪さを引き出している原因ではないと冷静に自己分析していたからである。
「…バレンタイン。お前の心遣いはありがたい。云わんとしていることもわかっているつもりだ。だがおれは今、休みをとる気はない」
「ラダマンティス様、」
「心配せずとも睡眠時間は確保できているし適度に休憩もとっている。体力に全く問題はない。それに執務を置いてまで優先しなければならないこともないのだ」
「しかし…」
「おれが休みをとらねばならん理由がない。いいから下がれバレンタイン」
結局最後は大きく突き放す形でバレンタインを退けた。それ自体は何も珍しいことではなかったが、扉の閉まる音に混じって耳底に声が聞こえた、気がした。
お前、案外部下に容赦ないな。
それは何時聞いたものだっただろうか。部下だから厳しく言わねば示しがつかん、と返したことも覚えていた。
再び部屋に静寂が招かれた。そこでようやく、ラダマンティスはこの三週間、カノンと何のやり取りもしなかったことに思い当たった。
ラダマンティスは殆ど携帯を使わない。確かに便利なものではあると思う。冥衣が無ければ一般人と大差ない冥闘士が、平時において小宇宙通信を送受信するのは難しい。一般人のように文明の利器に頼る場面も存在する。しかしラダマンティスは、本人もよくわからないが携帯を使用することに忌避感があり、本当に必要なとき以外は手に持つことすら稀だった。
仕事を終えたある日の夜、その携帯を実に三週間ぶりに手に取った。当然充電が不十分なままだったために電源がつかず、仕方無く充電器を差し込む。
と、いうのも、携帯を手に持つことすら稀であるのにラダマンティスは、カノンと連絡を取るときは決まって携帯を使用していた。別にその方が都合がいい、というわけではない。どちらかと云うとカノンも携帯を常備しないタイプである。あちらは普通に小宇宙通信が使えるのだから当然といえば当然なのだが、携帯を持つようになってからまだ日が浅い所為で、どうやら素で存在を忘れていることがほとんどだった。折角持っているのに使われない、というよりは肝心なときに力を発揮しないというべきか。外出の際に持っていくのを忘れて、なかなか会うことができなかったり遅刻の旨が伝えられなかったりということは頻繁にあった。
だからなのか、ラダマンティスはカノンの携帯については妙に煩く構ってしまい、自身もカノンと連絡を取るときは携帯を使うように気にしていたのだ。そして今も、カノンとの連絡といえば携帯、という方向に考えて三週間ぶりに引っ張り出してきたのである。
だが実際にカノンと携帯でやり取りをしたことは少ないように思われた。ラダマンティスが幾ら煩く構おうが、カノンが携帯に無頓着であることに変わりはなかったのである。まるで気にしていない、という体のカノンに苛立ちを覚えたのは一度や二度の話ではなかった。
ようやく目覚めた携帯に、カノンからの連絡は一件だけ。約二週間ほど前に入ったらしい不在着信だった。
むしろその一件すら入っていなければよかったとラダマンティスは思った。自分でも驚くような焦燥感が首を擡げる。無意識に左手で携帯を握り締め、右手で額に手を当てていた。
…落ち着いて考えれば大丈夫だ。ラダマンティスがあの約二週間忙しかったように、カノンもこの二週間前から忙しい時期に入ったに違いない。特別約束をつけていたわけではないが、カノンは気を利かせて一応の連絡を入れておいてくれたのだろう。詳細はなくとも、一件しかない着信で『しばらく携帯にもでないぞ』と主張されているのが嫌でもわかる。そのぐらいにはラダマンティスもカノンを理解しているつもりだ。
思考を整理し終えたラダマンティスは、急に力が抜けたように寝台へと身を埋めた。とにかく今は眠りたかった。全ての事項を頭から追い出して、深い眠りに落ちてしまいたかった。
これはいつも考えることだが、ラダマンティスにとっての生活の中心はカノンではない。カノンもまた然りだ。例えばそれは恋人同士であったり夫婦であったり、はたまたそのような恋愛関係ではなく、親兄弟などの家族であれば生活の中心にそれらを据えて考えられるのかもしれないが、ラダマンティスにとってのカノンもカノンにとってのラダマンティスも、決してそのような存在ではなかった。ラダマンティスの生活は、常に冥界における冥闘士としての自身を中心にして成り立っており、優先しなければならない事項はその仕事のこと。これはバレンタインとのやり取りの中で述べた通り、ラダマンティスの中で揺るぎないものである。
そしてこれはまた、カノンにも当てはまる。聖域と海界を行き来しているという特殊な状況ではあるが、カノンの生活はその二つの場所における自身の役所で成り立っていて、それもまた揺るぎないものなのだ。
つまり何が言いたいのかというと、ラダマンティスにとってカノンは、またはカノンにとってラダマンティスは、理屈から考えると、多くの事項を並べ立てたとき積極的に切り捨てられてしまうものなのである。だからといってそこに情がないわけではないが、結局のところ立場云々を割り切って判定するとそういうことになる。
だから、この状況に不愉快な感情を連ねるのは甚だお門違いなのだ。わかっていながらもう一週間を苛々しているのは、そうやって頭で理解していることと何処かの何かが大きく食い違っているに違いなかった。
ラダマンティスは執務机の端に携帯を置くようにした。容易に目には付くが仕事の邪魔にはならない。カノンからの連絡を期待しているというよりは、何一つとして取り落とさないようにしたいという意思の表れだった。一晩過ぎれば流石に頭も冷える。限りなく個人的な事項で周囲に障りがあってはならないのだ。いわばそれは、自身を落ち着かせるための小さな儀式だった。
それから三日経った。冥界にも以前の忙しさが戻ってきていて、相変わらず仕事をしない同僚ふたりの分までラダマンティスが始末をするという図式もまた例外ではない。
執務の追加と報告に来たシルフィードが、ラダマンティスとその傍らの携帯を見て頬を緩めたのを見て、ラダマンティスは訝しげな表情をした。
「どうした?」
「いえいえ」
尋ねられたシルフィードは慌てて口元を手で覆うが、心底楽しそうに細めてられる目までは隠せず、益々怪しい素振りを見せてしまう。
「最近バレンタインが煩いんですよ」
「バレンタインが?どうしたんだ?」
「ラダマンティス様の体調が心配だ、何とかして休みを取って頂ける方法はないのか、って」
ラダマンティスは表情を強ばらせた。しまった、と真っ先に思った。きちんと説明してやればよかったのに、要らない心労をかけさせてしまっている。バレンタインはいい加減なことなど口にしないとわかっていたのだろうが。やはり中途で投げ出すとロクなことがない。手を抜けば結局全ては後になって自分に跳ね返ってくる。
後悔は、嫌いだ。最も絶望的な感情だ。できればしたくないものが、今その身をせり上がる。それは何も、あのやり取りだけに限ったことではなさそうだった。
「ラダマンティス様、俺からも進言してよろしいでしょうか?」
纏う空気が段々険しくなるラダマンティスとは逆に、シルフィードは変わらず楽しそうな目で此方を見ていた。
「お休み、取ってください。あれですよ、ほら…ラダマンティス様、ええっと…」
恐らく、この部屋に入るまでに何か言いたいことを考えてきていたのだろう。思い出そうとするように視線を斜め上に動かして、シルフィードはゆっくり告げる。
「人肌恋しくなるって、いうじゃあないですか」
「…は?」
思わず間抜けな声が洩れた。
「気持ちに荒い波が押し寄せてるときに、人間の体温は心地良いものなんですよ」
ラダマンティスは面食らった顔でシルフィードを見た。シルフィードは至って真剣である。また、強い確信をも持って言い切った。
「ラダマンティス様も偶には仕事と亡者じゃなくて、生身の人間と触れ合いましょうよ」
冥闘士が、ましてや自分が恋しい云々を部下に説かれる状況というのはこんなにも情けないものなのかと冷静に思った。説いてる部下も冥闘士なのだが、前々からシルフィードは妙にそういう類のことを主張する傾向にあったので、そこを納得することは問題ない。それよりもラダマンティスは、その進言を大人しく聞くべきか、聞かざるべきか、そこに頭を悩ませていた。
「シルフィード、」
「よし、そうと決まれば早速届出しましょう!ちょっと仕事詰まってますけど、1日くらい大丈夫ですって」
ラダマンティスは再び面食らった。抗議をする間もなく、シルフィードは既に用意していたらしい休暇届をさらさら書き進めていく。壁にかけた予定表を見て、何かを確認するように何度も頷き、あっと言う間に書き上げてしまった。
「勝手なことをするな、シルフィード」
一瞬、怒鳴りそうになるのを寸前でせき止め、出来るだけ落ち着いた声でそう告げる。謀られたとはすぐに気付いた。見当はすぐにつく。大方、バレンタインが心配を口にするのを聞いたシルフィードが何とかしようと動いたのだろう。
「ラダマンティス様、大丈夫です。お休みの間は俺達が責任もって仕事を片付けます」
「そういう問題では…」
ラダマンティスは黙った。仕事を休む気は全くといっていいほどないのだが、非があるのは自分の方だという自覚はあった。…指摘された非は認めねばなるまい。子供のような意地は、張ってもどうにもならないのだ。
そうして、半ば流されるようにラダマンティスは一日の休暇を取った。前日の夜、携帯を握り締めながら、さてどうするべきか?と自問した。休め、と言われたが、休んだところでここしばらくの苛立ちは解消されないことは、ラダマンティス自身が最もよくわかっている。
散々考えてますます苛立ちながら、ラダマンティスは聖域の前に立っていた。ギリシャ時間は昼前、山間近くは聖闘士の訓練生らしきものたちがまばらに見える。
「珍しい客がいますね」
前方より声がした。十二宮の第一宮といえば、白羊宮である。案の定、宮の入口から姿を現したのは牡羊座のムウだった。
「会議があるとは、聞いていませんが」
わざとらしい言い方に少々顔をしかめる。しかし尤もな話だ。自分が聖域に来るなど、それ以外ではまず、有り得ないことであったのに。
「…今日は私用だ」
「私用?」
「突然ですまないが、カノンは居るだろうか」
ムウは意外そうな顔をした。
「…カノンなら、教皇宮にいると思いますが…」
そう言いながらムウはラダマンティスに視線を投げた。観察されている。直ぐに察したラダマンティスはぴくりとも表情を動かさなかった。
「…案内しましょう。私用とはいえ、勝手に行かせたとなれば、サガは良い顔をしないでしょうしね」
「…ああ、なら頼む」
サガの冥闘士嫌いはラダマンティスもよく知っている。断る理由も見当たらない。踵を返すムウの後につき、長い十二宮の石段に足をかけた。
予想通り、聖域は二週間ほど前にかなり慌ただしくなったらしい。前々から注視していた集団がやはりクロだったとか、それが案外厄介な任務になってしまったとか、世界中駆け回ったとか。詳しいことはムウも話さなかった。話す必要性を感じなかったのだろう。
「丁度一昨日ぐらいにようやく落ち着きましたから、昨日には全員任務から帰ってきたんですけどね。報告と事後処理で教皇宮に鮨詰めなので」
そう、通り過ぎる宮の殆どが空だったのだ。ムウがいた白羊宮に、金牛宮と処女宮と天蠍宮には主が戻っていたが、ラダマンティスが通っても大した反応を返さず、天蠍宮の主に至っては奥で爆睡しているようだった。
教皇宮につくとムウは真っ直ぐ執務室へ向かい、静かにその扉を開いた。ラダマンティスは部屋の外でムウの後方に立っていたため、中の様子はよく見えない。どうした?と尋ねる射手座の明るい声が聞こえてきた。
「カノン、貴方に客人ですよ」
短い返事のあとに軽い足音が近付く。扉からひょっこりと顔を出したのは、紛れもなくカノンであった。
「カノン」
思わずぽつりと名前を呼ぶ。その時ようやくラダマンティスは僅かに表情を緩め、呆けるカノンを見つめた。
「…どうしたんだお前。こんな所まで」
カノンは体を全て部屋から出し、後ろ手で扉を閉めて何度も瞬きをした。いつもは大抵細められてつり上がる目が、今は大きく開かれている。その表情がカノンを非常に幼く見せていて、ラダマンティスは少し笑った。カノンは気付かず首を捻って黙り込む。
「…まさか連絡がつかないから直接きたのか?だったら悪い、しばらく聖域からも海界からも離れていてな。携帯をどっちの部屋に置いてきたかも覚えてない」
何故か、すぐさま否定しなければという気分になった。
「いや大丈夫だ。携帯には何も送っていない。忙しかったのだろう」
「ああ、そりゃあもう」
カノンの表情がいつもの砕けたものになる。後に続けようと開きかけた口は視線と共に宙を彷徨った。
「…今はいいか…。実はまだ報告が済んでいなくてな。しかもこの後海界の方にも顔を出さねばならん」
相変わらずの忙しなさらしい。何時もなら自分も負けてないぐらい忙しいために、当たり前のように思えていた事項が、急にとんでもないことに感じられた。
そうしたら今更、何故此処に来たのか、という初歩的な疑問が頭を横切る。シルフィードに焚き付けられた、と言えなくもないが、結局此処に来ることを選んだのはラダマンティスだ。話がしたかったのだろうか。カノンと会う理由はいつだってそれである。
…理由はそれであるけれども、目的は常に違っている気がした。
「話のネタならいろいろあるんだがなぁ。アイオロスの思い付き纖滅作戦とか」
カノンは首の後ろを掻きながら、変わらずあっけらかんとした様子で話し続ける。
「悪いな」
「いや…」
ラダマンティスは僅かに視線を落とした。視界に捉えたのは、カノンの左腕、その先の生身の左手である。
「その話は、またの機会にゆっくり聞こう」
何かを振り切るように首を動かした。顔を上げると、カノンの後方で扉から顔を出した射手座や蟹座などといった他の黄金聖闘士が様子を窺っているのが見えた。そういえば此処は廊下で、牡羊座のムウに至ってはよく考えなくても最初から普通にそこにいた。
しまった、と。またもラダマンティスは思った。思ったが、次の瞬間には何がしまったのかがもうわからなかった。
カノンはわざわざ十二宮の下までラダマンティスを見送ると言い出した。執務室の中に居たサガに向かって『すぐ戻る』と一言告げて、さっさと下るぞとラダマンティスを促す。
気まずいのだろう、と察した。仕事中のカノンと仕事外の話をするのはこれが初めてだ。どう接したらいいのかがわからない、と思っているのが手に取るようにわかった。
先々と石段を下りていくカノンの背を見る。この位置と距離は慣れたものだった。一段下りる度に長い髪が揺れるのを眺めていると、気分が落ち着く気さえした。たかだか三週間、何のやり取りもなかっただけでこうも懐かしく思うものなのだろうか。
おかしいだろう。
下りきった石段の下で、振り返ったカノンが笑っていた。また時間があるときにな、と云いながらラダマンティスの頭上へと伸びてきた左手を、ラダマンティスは半ば無意識に掴み取った。
…おかしいだろう。
掴んだ手首から、先の方へと指を滑らせる。手のひらを重ねれば伝わる体温に、三週間も頭を悩ませ続けていた焦燥が、急速に引いていくような気配がした。
「どうした?」
…ああ、人肌恋しいのは事実だったか。
自分のことであるのに、酷く客観的にそう思った。掴んでしまったそれを強く握り締めては緩く開いてみたりしながら、その体温の忘れ難さに、ほんの少しの間酔いしれた。
「おいおい」
カノンの困った声で我に返った。握り込んだ左手が逃れようと手前に引かれる。それに逆らわずに、ラダマンティスはゆっくり指を離した。
そしてやはり、しまった、と思ったのである。
おかしいだろう、と思っている。気付けば、もう一週間前から既におかしかった。自分は此処まで堪え性のない奴だったろうか。確かに掴んでいるものがなければ先が見えずに焦るような、そんな柔い心の持ち主だったろうか。人肌恋しさだとしても、それをカノン相手以外には全く求めていない自分が存在する。例えば同僚相手だとしたら、それこそこちらから御免なのだ。冷静になれば、おかしいだろう、と一言に切り捨てられるような事項を見失うほどに、そうか、離しがたいのだ、と思い立つ。
聖域から戻った後も、ずるずるとそのことを考えた。長らく首を擡げていた焦燥感は綺麗に無くなってはいたが、疑問符は常に脳内を廻っている。
時計は夜中の十一時を指していた。久しぶりに早く眠ってしまおうと考えた。明日からまた普通に仕事があるとか、それもあるが、慣れないことを思考することに少々疲れが来たのだ。
別に、理由などなくても構わんではないか。
言い訳じみている気がして気持ちが悪かったが、それ以上に結論は出ない。癖で注いでしまったコーヒーを、もったいないが流しに捨てて、ラダマンティスは寝台に転がった。
…ラダマンティスは記憶力が良い方ではないが、指先に残っている感覚だけはいつまでも忘れないで其処にあった。だから次、カノンに会ったときには伝えようと思う。
おれはお前のことがすきなんだろう、多分。
ふざけた表情も作れない自分を、それは悪い冗談だ、と笑い飛ばしてくれたら、全てが楽になりそうな、気がするのだ。
体感温度
語りでかいてた第三段階に以降する手前の話でした。つまりまだやってません。健全です。
いつも無駄に接触させたがりなのですが、何故か今回は普通に普段べたべたしてるのをかくより恥ずかしかったです。手握ったあたりからようやく落ち着きました。どうやら私の中でラダカノは、触ることに忌避があるほうが違和感を感じるようです。