『決行日は三月十日。極上のワインと飯を献上せよ。ついでに贈り物とやらも持ってきたらありがたく受け取ってやる。以上。
PS.手抜いたら潰す』
早くから十二宮をおりて街へ向かう途中、必ず通過する間抜け面同志ふたりの宮に、そんな内容の紙を投げ付けた。新しい年を迎えた、十日目の朝のことだった。
魚は我らの幸福の形を模索する
アフロディーテが上機嫌なまま向かった街は、市場の並ぶ通りを中心に賑わっていた。もう年も明けて幾日か過ぎたというのに、まだまだ『お祭り空気』を漂わす通りの人々に紛れて彼は街を楽しんだ。こうして不特定多数に入り込んでしまえば彼もその中のひとりに過ぎず、周囲の波に流れ流され、抗い楽しむ民衆として存在できた。
両手いっぱいに軽々と荷物を抱え口笛まで吹いて余裕の彼を、女と間違えて話しかけてくる男も多い。普段ならば有無言わさずその場で沈めてやるのだが、今日はやんわり訂正するだけで通り過ぎた。何処からかはじまった野次馬を呼び込む殴り合いにも顔をしかめることはなく、ただマイペースに通りを歩き、悠然と踵を返していった。
「おかえりアフロディーテ」
白羊宮は留守だった。次の金牛宮の主がはじめに彼を出迎えた。抱えていた荷物をひょいとひとつふたつみっつと取り、双魚宮まで一緒に運んでくれた。
「相変わらずお前は筋金入りのお人好しだね」
双魚宮は十二宮最後の宮だ。ふたりとも聖闘士であるのだから、幾らテレポートの類いが使えないと言えど大した距離ではないのだが、それでも間に十も宮が存在している。
「いいや、アフロディーテが楽しそうだったんでな」
「私が楽しそうなこととお前のお人好しに、何の関係があるんだ」
「俺もついつい楽しくなったんだよ」
はにかんだ彼に、思わずふとため息を吐く。街の賑やかさを思い出した。年始だと馬鹿騒ぎをしたのは一体どいつだったのだろうか。誰かが誰かに追従し、また誰かが誰かを呼び込んでいく。その営みを飽きもせずに繰り返している。街とは、そういう世界だ。
残念ながらアフロディーテは、周囲の喜びを素直に自分のものにできるほど、真っ直ぐな性根は持ち合わせてはいなかった。しかし他人の喜びを無下に蹴り落とすにはまだ憎しみが足らない、彼はにこやかに荷物を運んでくれた礼を告げて、宮の中へ入った。
思い立ったのは、ほんの昨晩のことだったのだ。シュラの誕生日が二日後に迫っていることに気付いて、それから自分もあと二ヶ月後じゃないかと何となく面白くなり、その辺にあった白い便箋を引っ張り出してさらさらと書き上げた。同じ内容のものを二枚、ペンで一発書きしたから少々書き間違えた箇所のある方をデスマスクに送り付け、妙な達成感にほくそ笑んだ。
期待しているものは、きっともう二度とは手に入らない。幼き日々には当たり前のことと享受していたものも、一度失った瞬間からは遠い過去のものになった。それは立派なバースデーケーキではなく、心のこもったプレゼントでもなく、ひとつ、またひとつと年経る毎に重なることへの喜びと、幸福をもたらすたった五文字の言葉だった。
与えられなくなったのではない。それを尊ぶ自分がいなくなったのだ。生きてきたことを考えれば考えるほど、目の前に横たわり続けた死を意識して瞼を閉じる。容易く奪い続けた命の、そのうまれた瞬間と、大事に抱えた自分のそれとの差異などないと、何度言い聞かされたって釣り合ったりはしなかった。過去も、未来も。
今も。
天蠍宮の主が、しばらく忙しそうに街と聖域をいったりきたりしていた。街へ出たと思ったら買い物袋を提げて戻り、また手ぶらでいなくなったと思ったら何やらばかでかい箱を抱えて戻ってきたり。訝しげにアフロディーテはばたばた走るミロに話しかけた。振り返ったミロは楽しそうに笑んだ。
「もうすぐカミュの誕生日だろう!」
ああそうか。もうそんな時期なのか。アフロディーテは実に納得したように何度も頷いた。
「まぁお前のことだから、そんなことだろうとは思ったけど」
「何だそれは」
事実半分、誇張半分だった。確かにミロは、カミュにならどれだけ時間と労力を割いたって悔いはないぐらいにカミュが好きだが、誕生日に特別思い入れがあるのは別にカミュ相手に限ったことではないことを、アフロディーテは知っている。
「お前もその一ヶ月後だったな」
その証拠に、ミロは彼の誕生日も、正確な日付と共にしっかり覚えていた。気まぐれに白い紙を送り付けたあのふたりですら、忘れることはままあるのに。
「よく覚えているね」
「忘れるものか!何なら黄金聖闘士全員分、今此処で口にしてやろうか?」
「遠慮しておくよ」
アフロディーテには全員分の誕生日の日付などわからないのだから、仮にミロが間違えずに言えたとしても判断のしようがない。それに確かめずとも本当に、彼なら全員分きっちり覚えているのだろう。
「暇なものだな。そんなことよりも事務作業の段取りの方をさっさと覚えてもらいたいものだけど」
「そんなこととはなんだ!大事なことだろう!」
「仕事は大事じゃないのかい」
「比べるものじゃない」
「まだまだお前は子供だね、ミロ」
「だからどうした。大人になっても誕生日が無くなるわけではあるまい」
「…それは、確かにそうだけど」
無くならないから、うまく折り合いがつけられない。だけど無くならないから、いつまでも自分達はこうしてふざけあっていられるのか。生まれてきたことを呪っても生まれたことは無くならない。誰が否定してもそこに居座ってもう二度とは動かない。
「今年も宴会を開くぞ。いいか?アフロディーテ」
ミロは片手に提げて買い物袋の中から立派な酒瓶を取り出した。どうやらこの頃走り回っていたのは、カミュの誕生日に宴会を開くためらしい。聖域では何の恒例行事か、あるいは騒ぐ口実か、誰かの誕生日には決まって宴会をひらいていた。聖戦が終わっても、否、聖戦が終わったからこそカミュは今も頻繁にシベリアへと赴き、聖域には滅多に戻ってこない。だからミロが、その“恒例”を果たすために誕生日には聖域に戻るようカミュに言い付け、健気にも準備に自分の時間を割いている。
ミロがアフロディーテに訊ねてのは、アフロディーテの誕生日の宴会をどうするか、ということだろう。
「いや、今年は」
少し考えた末、アフロディーテは何か思い出したように声をあげた。
「今年は、いいよ、開かなくて」
ただの飲み会とも成り果てるような集まりだった。しかし嫌いではなかった。けれども今年は、自分で一方的に入れた、くだらない予定があるので。
「悪いねミロ」
ミロはとんでもないというように首を横に振り、気にするなと言ったが、正直にも少々残念そうな表情は隠さなかった。
(期待じゃないんだ)
わざわざあんな便箋を送らなくたって、自分達に自分達以外の寄る辺などあっただろうか。目を背けることのできなかった現実を前にして、逃げ出せず、またうまく受け入れて割り切ることもできず。
自分達の頭を撫でて、優しく声をかけるひと。自分達に駆け寄って、やいのやいのと脈絡なく高い声を響かすもの。煩わしさといとおしさのなかで、それに酷く固執していた自分が居たのなら、答えは明白なのだ、変わる前の過去に思い馳せる頭はあんなものを書いたりはしなかった。
「女神がお呼びだよ」
いつ見ても無駄に豪華な羽根を携えた聖衣を着用したアイオロスが、わざわざ教皇宮より下ってそう伝えに来た。女神はつい昨日、帰ってきたばかりだった。
「私を?」
女神はどんな悪童でも、その至上の愛で全てを許す。例に自分達やサガは、女神に自らの意志で弓引き命を絶ったながらも、許されて此処にいる。
「女神が何の御用だと言うんだ」
「さぁ、それは俺にもわからんさ」
含みをもたせて笑ったアイオロスの細められた目を見れば嫌でもわかる。嘘だな、相変わらず狡い奴め。心中だけでそう唾を吐いておいた。アフロディーテは女神が苦手だった。嘘や方便は得意だとそれなりの自負はあるが、あの少女の前では何もかも見透かされているような気がするのだ。
だが女神がお呼びとなれば、いかないわけにはいくまい。この聖域で自分が聖闘士である限り、仕えるは女神、頂点は女神なのだから。
女神はアフロディーテが参上したのを見て、優しく微笑みをつくった。ひざまずき頭を下げるアフロディーテにゆっくりと近付き、自らも腰を落としてその凛とした声で柔らかく告げた。
「お誕生日おめでとう、アフロディーテ。当日でなくてごめんなさい、どうしても都合が合わなくて」
アフロディーテは驚いて顔をあげた。誕生日は、…否、決行日は確かに明後日だった。
「覚えていらしたのですか」
「星が教えてくれたのですよ」
「…女神より祝いの言葉を頂けるとは、この上ない事に御座います。有り難き幸せ」
「まぁ、そんな大袈裟な」
他の皆にも同じように微笑み、祝いの言葉をかけたのだろう。女神の愛は至上だ、そして何より、公平なのだ。神の与えるものだから。
「どうですか?」
「え?」
「ひとつ、年を重ねた感想は」
「…そんなことおっしゃられても」
不敬に当たるやもしれないが、少し困った顔をして言葉を濁した。
「…わかりません。実感など、ないものですから」
だがいつか。例えば今から十年も経てば、この重なりを意識するのかもしれない。今自分が、13年前からずっと身を寄せ続けたあの泥濘を、腹の奥にぶら下げて吐き出せないことを知ったように。
チェス盤をひっくり返さなくたって盤上の様子は刻々と変化し、いなくなるものと新しく現れるものとを繰り返し、ずっと動かずそのままでいるものもいたりいなかったりする。そういうことなのかもしれない。その中で決められたマスの上を歩く駒のひとつが自分であったとしても、悩んで苦しんで、討ち取られていなくなって。
できれば決行日は晴れて欲しい。雲ひとつなく快晴で、朝日が眩しすぎるぐらい。雨なら雨で、土砂降りならいい。けれども天気予報は曇りだとかで、やはり期待通りには何もうまくはいかないらしい。
天気はまぁ冗談として、一体どんな風に決行日を迎えるかは、アフロディーテにもわからなかった。
ただ何かが変わるなら、あの街のように、あのお人好しのように、健気な子供のように、狡い大人のように、愛されていたことを忘れないようであれば。
ようやく魚。本筋はここまでです