『決行日は三月十日。極上のワインと飯を献上せよ。ついでに贈り物とやらも持ってきたらありがたく受け取ってやる。以上。
PS.手抜いたら潰す』
朝の覚めきらぬ頭が内容を間違えて読んだんじゃないかとか、考えたが別に読み間違いなどひとつもしていなかった。自分の誕生日を迎える、二日前のことだった。
山羊は己の立ち位置を黙視する
願ったわけではないのだけれど、約二十年そこら前の自分が生まれた日、その日と同じ日付を迎えたら祝福を贈られる。今年も朝からそこかしこからおめでとうの嵐が吹いた。ありがたいのだが、どういう顔をしていればいいのかがわからないまま、ゆらりと一日は過ぎていく。
「難しく考えるなよ、ただ喜べばいいのさ。自分が生まれたことを祝ってくれる人がこれだけいるんだってことを」
もう大して背丈も体格も変わらないのに、幼い頃と変わらず頭を撫でてくるアイオロスは、俺もシュラを祝うのは13年振りだから嬉しいよと、シュラに向かって笑いかけた。
視線が足下に落ちた。
嬉しいことを認識するのは頭じゃない。いわばからだなのだ、例えどれだけ喜んではならないと自分を戒めても身のうちから沸き起こってくるもの。同じように、悲しみや苦しみもそこに存在している。
改めて、送られた脅迫状を読み直してみた。たった67文字しかないこの白い便箋を手に、シュラは首を捻る。
幼き日の誓約があった。高く立ち上る煙と肉の焼けるにおいの中で、誰が言い出したのかはもう忘れたが、三人で、互いが互いに誓いを立てたのだ。肩を貸し合ったこともなく、手を差し伸べ合ったこともない自分たちが、命をもって仕えなければならない神を共に裏切ったというだけで、その汚れたてのひらを重ね合った。
あの日の誓いを、シュラは一遍たりとも忘れたことはない。信じるものを失い、無知と無力の代償の重さに身を沈めた自分を守っていたのはあの誓いだった。生き延びることを。そのために望めないことは決して望まないということを。そして裏切りの断罪を受けるそのときは、必ず三人共にあることを。
シュラは生き延びた。断罪の日を迎えるまで、例え何と詰られようとも誓いの通り生き延びた。共犯の口約束だろうが罪人の弁解だろうがどうだってよかった、シュラにとってそれは誓いであり、また今もそこに存在している道標なのだ。
アフロディーテは、誓いを忘れてしまったのだろうか?
たしかに、自分達は一度裏切りを神に裁かれ、そして赦され此処にいる。しかしそれは白紙を意味するのではないことを、彼ならば誰に指摘されずともわかるはずだ。
もしあの誓いが白紙に戻るなら…。…
考えるのは、やめた。そうなることを恐れている、自分の情けなさばかりが込み上げて、結局何にもなりはしない。
白い便箋を机の上に置いて、シュラは席を立つ。
たびたび訓練場には顔を出していた。体を動かしていなければ落ち着かないから、毎朝ひとりで一通りの訓練をこなし、人が集まってくる前に立ち去る。これの繰り返し。同じように訓練をこなす聖闘士達は、時間があれば訓練生らの相手をしたり稽古をつけてやるそうだが、シュラは一度たりともそれをしたことはなかった。大昔、アイオロスとサガの代わりに幼い黄金候補生の面倒を見ていた以来、シュラは誰とも訓練を共にしていない。黙々と自分の鍛錬だけを続けている。
時たま冷やかしにデスマスクがやってくることはあったが、手合わせをすることはなかった。彼も、またはアフロディーテも、シュラと同じで人と拳を交えるのを避けていた。
感覚が鈍るのは大したことではない。物心つく前から叩き込んだ感覚を忘れろと言う方がむしろ難しい。自分の手は何かを生かすためのものなどでは決してないということを、常に意識していなければ不実に思われるのだ。
ひとり鍛錬を終えて引き返そうとすると、アイオリアに会った。あ、と声を出し合って立ち止まった。アイオリアはこれから鍛錬を行うところだったのだろう。軽く肩を回しながら、誰もいないと思っていたらしい、まさかという表情をありありとシュラに見せていた。
「はやいんだな」
それを引っ込めることもなく、アイオリアは口を開く。
「…人が増えるとやりづらいからな」
妙に気まずい空気が流れた。決してアイオリアと仲が悪いわけではなかったのだが、元来シュラは人付き合いの得意な性格ではない。会話は続かないし自分から話題を振るのも難しい。黙ったままで、身じろぎもできずに時間が過ぎる。そして何より、このまま双方立ち去ることのできない理由があった。否、シュラは感じていた。
気を遣われているのだ。
思えば13年間、シュラはアイオリアとのあいだにできた歪な亀裂を埋めることができずに此処まで来た。アイオリアの兄たるアイオロスを逆賊として討ったこと。それは常にシュラの行く道に影を落とし、シュラの忠誠を揺らがせた。
命令だった、もしくは、知らなかったのだ。或いは仕方なかったとでも?
どう口にしても言い訳にしかならず、どう捉えられても光は射さず。だからアイオリアと向き合うことからも逃げたのだ。アイオロスが逆賊として討たれたことで、アイオリアは聖域において苦渋の日々を過ごした。謝って終わる話でもなく、また謝ることはできず、しかし開き直ってしまうには、足りないものが多すぎた。
復活を望まれ、アイオロスも戻り、女神に罪を許され、今その引け目はなくなったか?無論、そんなことはなかった。シュラにとってその全ては、『無かったこと』などではない。誰にとってもそのはずはない。先も言ったが白紙になどなりはしないのだ。シュラはアイオリアと向き合うのが恐かった。
なぜならきっと、アイオリアは自分を許すから。
「シュラ」
長く思われた沈黙の後、アイオリアが口を開いた。重たさはない、しかし軽くもない声は些か力が入って震えている。
「昼間はな、俺も、訓練生たちに稽古をつけてるんだが」
その先に続く言葉をシュラは知っていた。背筋を汗がひとつ流れた。臆病者、と精一杯自分を罵った。
「シュラも、一緒に見てやってくれないか」
アイオリアは、13年もの間シュラが開け放したままのその亀裂を、不器用ながらに埋めたいと願っているのだ。すべては終わったのだと、また新しくはじまったのだと、彼はわかっているに違いない。もうずっと子供だと思っていた少年も、いつの間にやら大人になっていて、変わらないのは自分だけで。
駆け込んだのは巨蟹宮だった。宮の主は、デスマスクはレシピの束を片手に、顔をしかめながらシュラを中に入れた。何か言おうと唇を開いてはまた閉じて、椅子に座ったまま石になるシュラに呆れの溜め息を吐く。
「おまえなぁ」
長い付き合いだ、何があったかは様子を見れば推測がつくのだろう。しかも下手に悩む癖に思考が単調な自分だ。右も左もなくなって此処に来る理由などひとつやふたつしかないことも、恐らく悟られている。
「何でそこで逃げるんだっつの」
わからない。恐ろしいのだ。いつか亀裂も埋まるときが来るということが。なかったことにはしてくれないのに、許されるのだということが。
「言っても無駄か。おまえが何とかしたいって、思わねーと無理だろ、そりゃ」
唐突に、あの便箋を思い出した。アフロディーテの送り出したあの便箋。この宮の主にも送られたあの便箋。
何を今更、確認するのだ。あんな風に言わなくとも、共犯者の自分達は彼とその時を共にして、薄れた日常を過ごすだろう。他の何処にも居場所をつくることなく、この小さな泥沼に浸かっている。それを、今更どうして。
「決別すんのはなぁ、簡単だぜシュラ。人間ってのは忘れる生き物だからな」
他人事のようにデスマスクが言う。
「“いつも通り”が恋しいか?」
この大きな亀裂を放り出したままで居て、良いとはこれっぽっちも思ってはいない。どうせどう足掻いても正しくなどなくて、自分は愚か者だと身が嘆く。
望むのは頭じゃない、からだなのだ。脅迫状こそ送れないものの、自分は結局此処で、この位置であたりを見渡して。暗闇に安住しながら何処かに日溜まりがうまれることばかり信じて。だけどうまれた日溜まりに、その醜さを晒されることも恐れて。
「デスマスク」
「あ?」
ようやく言葉を発音して、シュラは俯けた顔をゆっくりとあげた。
「…誓いは」
「……」
「誓いは、覚えているか」
馬鹿みたいに今も守り続けているのが自分だけだったとしたら、何とも言えない話だが。デスマスクは黙っていた。
「…生きているだけで上々だろう」
これ以上、何を望むこともない。そういう誓いであったはずだ。守っているのが自分だけでも本当は構わない。いつまでたっても自分は変わらない。変わらないことが愚かしい。
「言ったぜ、決別すんのは簡単だってな」
机の上に叩きつけるようにして紙の束を置く。そのまま椅子の背もたれに寄っ掛かり、腕を組んだデスマスクは微かに笑い声をあげながら天井を向いた。
「でももし、もう少しだけのんびりしてーんだったら、準備しとけよ。決行日まであと一週間もねぇからな」
…誕生日。
生まれてこなかったことはもう仮定の話に過ぎなくて、生まれてきてしまったなどと言っても自分が此処に居る事実は変わらないままだった。幼き誓いをいつまでも引き摺ることと同じように、消えないものは消さないようにするまでもなく、存在しているのだ。どうしようもないことに。
あとはどうにかして折り合いをつけるしかないよと、アイオロスならば言うだろう。あんなに凄惨な事実があっても笑って此処に居る彼ならば。負い目があっても申し訳なさが募っても、そう笑っているのなら、自分は足を踏み出すべきなのだと、頭ではない、からだが呼んでいる。
(…飯と、酒だったか?)
早朝の鍛錬を行いながら脅迫状の内容を反芻した。しかし飯と酒とは、自分なんかに頼む内容ではないだろう。胃に入ればいいのだから料理の味付けはいつも適当だし、普段はあまり酒も飲まない。と、なると最後はおまけの贈り物。
(…なにを贈れと…?)
趣味も好物も価値観も、腹を割れば全く別の物が出てくるような三人だ。困ったことに、アフロディーテの欲しいものなどさっぱりである。大抵のものは自分で揃えてしまうような奴だし、そもそもシュラは誰かに物を贈るとか、そういうのが大の苦手だった。
訓練所を出ると、デスマスクに買い物袋を投げつけられた。酒代ぐらい出せと言われて仕方無く頷く。
迫る決行日は明日か。ふと、少し前に通り過ぎた自分の誕生日を思い出す。二ヶ月も前から無駄に覚悟を決めて、無駄に思考を費やしたが、そもそもそんなに大層なものだっただろうか、それは。ただおめでとうと云うだけで成り立つものではなかったか。街へ向かう道を歩きながら、そう考えて少し笑っていた。
だんだん何かいてんだかわからなくなった。
続きます。