『決行日は三月十日。極上のワインと飯を献上せよ。ついでに贈り物とやらも持ってきたらありがたく受け取ってやる。以上。

PS.手抜いたら潰す』







どこの脅迫状だよ、と呟きながら、その日デスマスクは最悪の目覚めを体験した。
決行日の、二ヶ月前のことである。

































蟹は彼の願望について思考する

























「ああ脅迫状な。俺のところにもきていた」

今日は執務に当たっている。巨蟹宮から教皇宮までの無駄に長い階段の途中、同じく執務に当たっているシュラと鉢合わせた。話題は早速、今朝の最悪な目覚めについて。

「何なんだありゃ」
「さぁ、本人に直接聞いた方が早いんじゃないか」
「聞いたら半殺されそうだからおめーにきいてんじゃねえか」
シュラは顔をしかめながら、俺も知らん、と早口に告げた。
「そもそも人に何かを強請るような奴じゃあないだろうに」
そりゃあお前の見解だろう。デスマスクは心中だけでそう突っ込んでおいた。あれは決して殊勝な奴ではないし、ましてや大層な傲慢で、主観的にしか物事を考えられないような奴だ。
「…あいつの考えてることなんざ俺にはさっぱりだがね」

ふざけた物言いには返事も相槌もない。シュラは基本的にどんな相手にも不干渉の態度を貫いている。アフロディーテの横柄な振る舞いがわからない訳ではないだろうが、自分があれこれ云うことではないと思っているらしい。寧ろその態度に一種の尊敬の念すら感じているのだとデスマスクは知っている。綺麗な顔して乱暴、だのに気位はそれに恥じないものを抱えていてそれを崩されることを死ぬほど厭う生き物。案外頭に血の上りやすいあれの言動の数々を、間近で目の当たりにしてきた所為だろうか。














そもそもシュラもアフロディーテも、野放しにしておくには危険な二人だった。何時から三人で連むようになったのかは覚えていないが、いやもしかしたら自然とそうなっていっただけで切欠などなかったのかもしれないが、ともかくデスマスクはこの二人の危険性については当時からよく把握していた。

「まるで二人の保護者みたいだなぁ」
そう言って笑った半裸人馬を思い出す。同い年だよアホか、と返せば、年上にアホとかいわない!と殴られた。そしたらサガが、手をあげるなど最低だアイオロス!と半裸人馬の横面をグーで殴り飛ばしていた。




とにかく放置しておけば何をしだすかわからないのだから、必然と自分は常にどちらかの傍らに立つようになる。二人揃ったときなんて最悪だ。いつの間にやら打撲傷の人間がそこかしこに転がってるなんてザラだった。アフロディーテもシュラも頭が悪いなんてことはなくて、寧ろよく回る方だったに違いないのに、何故か利口ではいられない人種だった。



(だから面倒みてやってんだ)



言い訳はそれで正しいが、デスマスクはそれが実情ではないことを知っている。同じぐらい自分もどうしようもない人種だった。

キレて手をあげるアフロディーテを黙って眺めるシュラのその隣で、へらへらけらけら笑って暴言を吐く。大した理由があったわけではない。甘ったれた思想、偽善の物言い、理想を語る小さな嘴に、大人しくしてはいられないのがアフロディーテなら、否定はしないが賛同できないのがシュラで、心の底から馬鹿にしたいのがデスマスクだった。













屈折していたのだ。目に映る世界がどうやっても綺麗なものには見えなくて、でも人が誇張して話すほどに絶望に満ちた場所でもなくて。陽が照らし出す地面の上で、居心地の悪さに頭を抱えても上手く影に逃れれば何ということはなくて。つくづく面倒だと思った。そうやって中途半端に行ったり来たりするから貧乏くじばかり引くことになるのだ。そうやって固まった今現在の立ち位置を改めて眺めながら、馬鹿らしい、と悪態を吐いた。






今更アイツは何を確認しようとしているのか。







あれこれ文句を思い浮かべながらも、仕事を終えて自宮に戻ったデスマスクは部屋の中を引っ掻き回してレシピの束を集めてきた。脅迫状の内容はシュラのもとに届いたものも同じだったようだが、あの『飯』は恐らく自分宛てだろう。相当に舌の肥えたアフロディーテがシュラの飯で満足するとは思えない。雑誌の切り抜きや本のコピーから手書きのメモに到るまで、毎日とにかく目を通す作業を続け、全てを確認し終えたのは脅迫状が届いてから三週間後のことだった。















どうしたメモ用紙なんか眺めて。うわぁ凄いなこれ、レシピか?執務の休憩中に半裸人馬、間違った、アイオロスがひょいと後ろから手元を覗き込んできた。別に見られて困るもんでもないので、少し手を持ち上げて見易い位置に移動させる。
「誰かに作るのか?」
「脅迫状が来たんだよ」
「脅迫状?」
「1ヶ月後に飯つくれってな」
「ははぁ、なるほど」
こんなときばかりこいつは聡い。デスマスクの料理は美味いもんなぁと腕を組むアイオロスは、誰のためなのか大体の見当をつけているらしかった。
「今更脅迫するまでも、いや口にするまでもないだろうに、なぁ?」
「そうかい?」
「だってそうだろ」
「俺なら毎年でも頼みにいくぞ」
「そりゃ、」
あんただからだろ、と。言いかけて止めた。既に長い年月の中で暗黙の了解になりかけていたことを、例えばこうして叩き落としてもう一度眺めてみる行為は、その価値を再考することと同義だろう。探しているのだ。何を?今更、価値を?

(再検討したところで、買い手なんていないだろうが)

考え付いた屈折を冗談や皮肉に変換して濁すことは、既にデスマスクの癖になってしまっていた。だからいつまでたっても前に進まないのだと、気付いていながらもう覆すつもりもなく、濁したことも次の瞬間には忘れている。


「そうだ、何なら三人纏めて休暇にしといてやろうか」
アイオロスが腕組みしながら実に名案だと笑う。はぁぁ?と盛大に悪態で返せば、ぐしゃぐしゃと頭を押さえつけるように掻き撫でられた。馬鹿力にやめいやめいと全力で逃げる。
「三人でゆっくりするのも悪くないだろう」
「仕事は?」
「なぁに、それなら俺も一肌脱ぐさ。三人の分まできっちり責任もって捌いてやる」
無駄に自信満々だが、きっとそうやって積まれた分を結局サガが痺れを切らして高速処理してしまうのだろうな、とデスマスクには容易に予測がついた。















いつの間にかふらりと三人で連むようになってしまったが、もうこの外に何も期待が持てないのは事実だろう。曲がった性根を真っ直ぐに戻す力が足りない。そして例えその力を加えられたとしても、反対にそれを阻止しようとする力が働くのもまた事実だ。
背筋を張ったって歩いていけるわけじゃない。それが言い訳だった。そんな風になった過程なんて最早わかるまい。寧ろ生まれ落ちたその時からそうであったかも知れない。正しさを語る強者に頭を下げ、正しさを語る弱者を踏みにじること。甚だ勝手に思われても、否定する権利など誰も持ち合わせているわけがないのだ。誰に言ったことはないが、誰に言われたこともないが。




ああ今から思えばアフロディーテは実に潔かった。弱者の語る理想を彼は虫酸が走るほど嫌っていた。今でも思い出せる、サガを羨んだ輩の腰骨を砕いた日のことを。あの時はすぐにサガ自身が止めに入り、彼は強く諫められたが、デスマスクはシュラと笑っていた。よくやったと賛美していた。アフロディーテは顔をしかめていた。
「お前達もやってやればいい。知らしめてやればいいんだ。自分がどれだけ力不足で甘ったれた存在であるかをな!」
シュラはこっそり、あれは凄いとデスマスクに零した。そうして人一倍努力を重ねようとした。知らしめてやろうとしていたのだとは明白だった。デスマスクはただ笑ってやった。素晴らしい話だと皮肉を口にした。




しかしそれが間違いなく自分達を日陰に追い込む行為であったことに、自分達はついぞ気付かなかった。光に追従し、決してそれを汚すことのできない陰。光を無くした瞬間に、闇に紛れるしかなかった弱い生き物。





デスマスクは、もうそれでも構わないと思っている。自分は元から日陰の人間だ。何かの拍子に日向に出ることはあれど、日向の人間であるとは決して思わなかった。だが他の二人は違う。屈折はしていたが光を求めようとしていた。だから大人しくは居られなかったのだし、危険だったのだ。あの時から。

もう今更、全て忘れられるほど子供ではない。

そうか、だから確認をするのか。デスマスクは今はっきりとそう確信した。全て噛み砕けるほど大人になる為に。光がもう一度、此処に戻ってきたがために。
別にこれからも三人で連む必要性は皆無だとデスマスクは思う。やめることはできる。日陰から出ることも今ならきっと容易いだろう。ほんの少し覚悟さえ決めればこんな場所、足を踏み出すだけで抜け出せるのだ。









だが脅迫状は送られた。闇を孕んだ自分達の足跡を忘れるな、またはそこから逃げ出すなよと。あれはデスマスクにではない、あれはアフロディーテが、自分に。


…深読みのしすぎか。


紙切れに作り上げた三月十日の献立をポケットにねじ込んで、デスマスクは宮を出る。別に何か意味があろうがなかろうが、そんなことは実際どうだっていい。わざわざあれがこうして頼んできたのなら、自分はそれをマナー通りに果たすまで。それ以上はないし、以下にするにはもう長いこと面倒を見過ぎた。どうせ山あり谷ありの道も、地獄も今いるこの場所でもその先であっても、共に乗り越えていける力など持ち合わせていないというのに、どいつもこいつも歩き始めるのが億劫なのだ。



















「おい、山羊」
訓練場から戻る途中の男を呼び止めた。振り返り様に小さく纏まった買い物袋を投げつける。
「買い出し付き合え」
抗議しようと、悪い目つきを更に悪くさせて薄く口を開いた。が、何かを悟ったかすぐにそれは閉じられ、おとなしく袋を手にデスマスクの後を歩き始める。
「ああ、そうだ」
「…なんだ」
献上せよと頼まれたのは、極上の飯と極上のワイン。それに二人宛て。飯を作らない方に酒は任せたいが、この男は常飲の癖もなくてワインにも疎い。全くどいつもこいつも手のかかる。
「酒代ぐらいは出せよ。払っとくから後でな」





迫る決行日は明日なのだ。価値も意味も大して見いだせない、しかし年を重ねるたびにやってくるその日を、自分達はどう迎えるのだろうか。










蟹のひとりごと。
続きます