ただの扉だ。部屋と部屋を繋ぐための、錠前すら取り付けられていない、押すだけで誰をも中へと受け入れるその“ただの扉”の前で、カノンは立ち尽くしていた。隔てて向こう側にはサガがいる。毎日毎日変わらずサガがそこにいる。



























慣れっこのおにごっこはいつもカノンが鬼だった。
始まりは非常に一方的で、まだ『やろう』と口を開くことは疎か、やろうと聞かれてもいないサガを相手に、カノンは勝手におにごっこをやり始める。しかしそうして捕まえたサガに『今度はお前が鬼だ!』と宣言したところで、サガは決して鬼の真似事などしない。逃げ去るカノンを置き去りに、仕方なかったのだと言わんばかりの微笑みを見せ、遊びを使ってようやく繋いだ細い線を引きちぎるようにしておにごっこを終わらせてしまう。



知っている。それは嫌がらせでもなんでもなく、サガの無意識なのだ。カノンより少し大人だったサガは、それがくだらない遊びだということを理解していた。理解していたから付き合う必要は皆無と判断したまでで、別にサガはカノンを蔑ろにしたわけでもカノンを意図して退けていたわけでもない。

しかしそれがカノンを失望させた。美しく微笑むサガの姿は、彼がカノンとは違うところに住んでいる人間なのだということを見せつけているようで、カノンは怒るよりも悲しむよりも、強く失望した。


















そういえば。
振り返って部屋の中を見渡してみて、意外にもこの空間が広かったということに気付く。人ひとりが押し込められているだけというなら何の不十分もない、贅沢な空間である。しかし敢えて云うならそれは過剰なのだ。足りないのではなく余計なものが存在しすぎている。

分割できない。

できてもどうせ置き場はない。

そしてまた、ただの一度もこの過剰を直視したことのないサガを恨む。




















カノンは思い起こしてみるが、生まれてこの方サガと仲の良かった時期など見当たらない。初めから明確にサガの“弟”として区別されて扱われて育ったのもあって、物心つく前はカノンの“兄”としてそれなりに懐いていたような気もするが、それもほんの短い時期だった。
先に離れていったのはサガの方だ。それだけは間違いなく言える。いや、カノンは今になっても自分からサガを離れようとしたことはないと思っている。必要がなかったといえばそれまでだが、離れようと決意するには圧倒的に不足がありすぎた。場所、術、力、価値、意味、根本的な存在。別に欲しかったわけではない、と思う。正直な話よくわからないというか、よく覚えていないのだ。しかし少なくともそれら全てを確実に手に入れていたサガを嫉んでいたということは、欲しかったのかも知れない。



相手にされないおにごっこは何時しかやめた。サガ以外の誰もカノンを知らないのに、サガがカノンを追いかけなくなってしまったらそれはもうおにごっこではなくてただのかくれんぼだ。それも永久に見つけられることのない、何の意味も持たないかくれんぼ。存在はしているが認識されない世界において、ひとりでかくれんぼをすることの虚しさがわかる程度にはカノンももう大人になっていた。なってしまった自分に失望した。結局はサガも自分も大した違いはなかったのだと知って失望した。



思考は複雑に展開する。サガへの恨みは日に日に募っていったが、それをどうすることもできずにただ持て余していた。例えば誰かに、或いはサガに思い切りぶつけることができれば何の苦労もなかったのだろう。しかしカノンは段々サガと話をするのもその顔を見るのも嫌になっていた。ふと覗いた鏡の中に映り込む自分がサガにそっくりの容貌で、苛立ち吐いた悪態の声もサガにそっくりの声であることすら憎みはじめた。サガと共有できるものなど何一つ有りはしないのに形ばかりが整えられていく。せめて双子でなければよかったと思えど今更で、カノンの狭く短い人生は既に双子の兄であるサガに侵食されて、もう他の何にもなれそうになかった。
血は残酷だ。決してそう望んだわけではないのに、という言い訳すら殺してしまう。













話を部屋に戻そう。
カノンが今見渡しているこの空間は、少年期を過ごした空間とはまた違う場所である。カノンは自分から部屋を選んでおとなしく閉じこもっていたりはしなかった。存在が露呈しなければいいのだからどこに居たって構わないだろうと思い、できるだけサガの居る空間から逃げたがった。だからカノンが部屋の空間過剰に顔をしかめるときは、決まってサガにこっぴどく叱られて中に放り込まれた後だった。



サガはこの過剰を直視したことがない。
だからわからないのだ、きっと。



云いながら、カノンはひとつ、引っ掛かったままだった。常にサガしか見るものを持たないカノンは、サガはこうだ、こうなのだ、と観察した結果を断定的に表現してしまうが、実際はどうなのだろう?
カノンはサガ以外の人間を、知らないといえば知らない。だからサガと比較できる人間がいない。もしかしたらカノンが信じている多くのサガについての事項は、ただの思い込みではないのか?

そう考えると身が震えた。しかしこの当時のカノンは、その震えが何処から生じたものなのかはわからなかった。




























溺れ死にかけた十日間を経て海底神殿にひとり立ち、思ったことをひとつだけ覚えている。
サガに女神と教皇の暗殺を吹き込んだことは、カノンとしては失敗だった。非常に浅はかな行為だった。今のようにそれは重い罪だと云うのではなくて、それに伴うサガの反応を上手く考慮していなかったという点が浅はかだった。
サガに侵食された人生は海界に来ても尚続いた。しかしひとつ違っていたことと云えば、やはりサガが近くにはないことによる優越感だ。劣等感ばかり感じていた時期とは明らかに面持ちが違った。サガを恨み憎むそれが、侮蔑と憐れみに変わるのがよくわかった。それは確かにその後十三年間、カノンを生かす力となった。
十日死線をさまよい知り得たことは、自分の中の醜い生存本能である。貪欲なまでにしがみついた己の命である。いっそそのまま死ねば良かったのにと今から思えば笑うしかない話で。

だが過剰だ。いつもそうだが、何故上手い具合に天秤は釣り合わないのだろうか。圧倒的に足りないものばかりの中で、明らかに必要以上のものがある。
優越感は思い上がりでもある。思い上がりは過ちも生む。
過ちはいずれ自分を蝕む。気付けないまま不足を嘆き、それがまた過剰を促す。
今見渡す部屋と同じだ。此処で過ごしたことは少ないのに、此処は驚くほどよくカノンを象徴していた。人ひとり押し込めるには広すぎる空間。背後に存在して開くことのない扉も、その向こうにサガがいることも。
知っている。少年期の十五年間も、青年期の十三年間も、カノンはサガに纏わるものを下敷きにして生きてきたのに、サガは何一つカノンを下敷きにはしていないことを。
いや、知っているというより、そうだったのだ。




意味のないおにごっこの終わりは、サガが断ち切った線をカノンが踏み潰した瞬間に迎えられた。

かくれんぼはサガに対して宣言したこともないのに、見つけてくれないことを逆恨みしていたのはどう考えたってカノンなのだ。



























端的に言おうと思う。事実と他人の判断はこの際棚上げして、全てはこのカノンの所為なのだ、と。自嘲だと蔑むのなら、一から考え直してみればいい。仕方なかったそうでしょうと哀れむ前にもう一度考え直してみればいい。

間違いだとか正しいだとか、そういうことではない。
…カノンが、そう思っていたいかいたくないか、それだけなのだ。

































思考の渦から帰ってきて、再び扉を眺めてみる。なんてことはない、ただの扉だ。引けば開くし、押せば閉まる。
たった今、この過剰な空間にカノンは自らの意思で閉じこもっている。その向こうにあるサガの姿を想像して足を止めて、少しのあいだ瞼を下ろした。音にはせずに口の中だけで薄く呟く。


(サガ、おにごっこをしよう)


今更ながら、カノンはサガにそう伝えようとしていた。自分のものと寸分違わぬ顔が訝しげなものに成るところを脳裏に描く。
我が身を振り返れ、正しかったか間違いだったかそれを判断する必要は特にない。例えサガがくだらないとはねのけても、多分今なら笑い話で済ませられるだろう。ちゃんと真正面から言葉を発すればサガはきちんと返事を返してくるはずだ。あれは真面目で頭も良くて、少々感受性が強すぎるが根は純粋で良い奴なのだから。

屈折したままなのはいつも。














軽く扉を押してみた。想像通り容易く開いていくそれに、凭れるようにして部屋の外へ出る。
たったこれだけのことを馬鹿みたいに悩み続けた。やはり天秤はいつも異様に傾いてうまくは釣り合わないままだが、過剰を見据えて不足に足掻けば嘆く暇もない。随分回り道をしたわりに答えは非常に安直だった。
(サガ、おにごっこをしよう。何ならかくれんぼでもいい、鬼は俺で構わない)
散々下敷きにしてきた罰だろう、どうせもう崩せも覆せもできないのだから、死ねないなら踏み込むしかないのだ。
サガの空間に。



















…十数えたら目を開くことにした。
今日も変わらずこの扉の向こうにサガがいるなら、今日も変わらずカノンもそこらへんに存在している。腹の立つことに、生きているということは多分、たったそれだけで成り立つ話なのである。










ワン ステップ、メイク ア プローグレス




双子論のカノン→サガまとめ的な。
非常に書きやすい感じでのんびり書いてたんですけど、収拾が・・・(いつも通り)

結局カノンは自分の軽さに失望して、サガは自分の重さに絶望したのではないかなと思います。
軽重の計り方なんてどうせ自分の尺度でしかないんだけど。
面倒くさい双子が好きです。