歩幅が違う。速度が違う。無性にそのことを意識し始めたのは何時頃だったか。開いた距離が一秒追う毎に鮮明になるのを、おかしな気分で見つめていた。

「カノン」

何かを否定するかのように首を横に振り、そうすればどうにかなるかのように名前を呟いた。如何にもそれが自分の中では神聖な儀式なのだと、意識などしていない、だが疑ってもいまい。そのことが酷く傲慢に思われて視界が歪む。



何時からか両手を広げて待っているのだ、この自分が。滑稽にも気付かれたいと訳も分からぬまま必死にもがいて。だからよくよく自分の現在地も確かめず拳を握って歯軋りを繰り返し、今やっとその明らかな事実に気が付いた。鈍い衝撃を加えられたような感覚だった。しかしどこにも痛みはなかった。











































映画を見に行った。一週間前公開になったばかりのものだった。半日でもいい、とりあえず時間が取れないかと考えていたら、バレンタインが設けてくれていた。仕事に関する事項ならまだしも、こんな個人的な話で部下に気を回されるというのは如何なものだろうか。そう思われて初めは断ったが、バレンタインはきちんと手続きを踏んでとった休みなのですからと聞き入れなかった。
「偶には映画もいいでしょう」
私も好きですよ、映画。バレンタインは珍しく穏やかそうに笑んでいた。




『なんだ?また戦争モノか?』
電話越しのカノンはけらけら笑った。まず一緒に映画に行く人間が他にいないことに笑った。そして内容が予想通りのものであったことにむしろ苦笑した。
「嫌なら構わんぞ」
『誰も嫌とは言っとらん。もう三回目だ、今更ぐだぐだ言うか』
しょうがないから行ってやる、断ってやったら可哀想だからなと楽しそうな声が耳を通る。失礼な、と不機嫌に返したが、頬はするりと緩んでいた。寝台の上で仰向けになって来る日の話をする。何気なしに覗いた窓の外は、冥界だから、当たり前といえば当たり前だがどんよりとしていて、おおよそ聖域での“苦労”だとか健全たる海界の青少年達の成長ぶりだとか、電波が悪くあまり明瞭でないカノンの話とはどうも噛み合っていない。正しいのはどちらだろうかと頭の片隅で思うが、そもそも何が間違いなのだろうか。






カノンと何処かに出掛けるのが好きだ。自覚したのは自分でも驚くほど最近のことで、何か用事があるにつけて受話器を握っている。断られることを想定していないわけではないが、カノンは大概の要求を笑いながら呑んでくれた。そのごくあっさりとした感覚が、少々拍子抜けでありながら心地良く思っているのかもしれなかった。

そもそもラダマンティスは他人に期待をするような人間ではない。気の置ける者に対して信頼を寄せることはあれど、それは決して期待ではなかった。はっきり言ってしまうと、待つのは苦手な性分なのだ。いつになるかもわからないことをただじっと待っているぐらいなら自分から行く。駆け引きなどもってのほかで、ラダマンティス自身も自分には向いていないという自覚があった。
期待なのだろうか、これは。或いは信頼と呼んでも良いのだろうか。それとも共に出掛けるのが好きだという事実から生じるものだろうか。カノンと出掛けるのが好きなのは、遠慮が要らないからだと思う。変にストレスを溜めることがないからだと思う。カノンの方が年上だということも忘れてそんな風に考える。
















五分遅れで姿を現したカノンは如何にも面倒だと言うように眉間に皺を寄せていた。ちょっと出掛けてくると言っただけでサガに捕まったとラダマンティスに愚痴る。苦笑した。自分がサガによく思われていないことは非常によくわかっているが、それでも絶対反古にしないあたりがカノンらしい。すまない、ありがとう。素直にそう伝えるとカノンは首の後ろを掻きながらさっさと歩き出した。


三回目。この間の電話で言われてはじめて気が付いた。そうか、もう三回目なのか、これも。その数が多いか少ないかはよくわからないが、確かに三回目にもなれば馴れ馴れしくもなるものだ。ほんの少し前までは簡単な連絡を取ることすら渋っていたというのに。勿論あまり邪魔をしたくないというのが主な理由だが、それ以上にカノンはなかなか捕まらないというか、確実に連絡の取れる場所がない。数日間どうにも行方知れずだと思ったら、中東の方に居た、などと言い出すような奴なのである。



映画の方は、ラダマンティスとしては非常に満足のいくものだった。前々に多大な期待を寄せて実際にはそうでもなかった、ということも世の中にはあるのだろうが、彼はあまりそういう失敗をしたことがない。

見終わってすぐのカノンの第一声は、『ちょっと便所』だった。全く余韻も何もあったものではないが、そういう奴なのだ、と妙な納得で濁す。別に、ちゃんと見ていないとか退屈だったとかいうわけじゃないことぐらい、三回目にもなれば流石にわかる。

戻ってきたカノンは腹が減ったと訴えてきた。これも最早決まり文句だった。何か食うかと向かう店も毎回同じだ。
「なんだっけ、あれ」
何の脈絡もなくカノンが呟く。ラダマンティスは首を傾げた。
「あれだ、中盤あたりで主人公が」
ああ、と。映画の話をしていたらしい。記憶を巻き戻すように場面を回想した。思い返したことをひとつひとつ語るとカノンも饒舌に語り返した。珍しいことだった。大抵は相槌だけで済ますところをその日はやたらと掘り下げてきた。半分口論に近い形で、約一時間ほど前に見た映画の話を交わしたあとで、カノンは笑って肩を竦めてみせた。
「お前、本当に好きなんだなぁ」










あまりにも月日の流れが穏やかなのがいけない。
自分の本分を忘れたことは一度たりとしてもないが、平穏を見つめ返す意志がないわけでもなかった。全て口で説明をつけるより、自分の崇拝するものが冥王であるというだけで理由は十分だろう。争いは、理由を無くした途端に意義を失う。生憎とラダマンティスは、空虚なものにぶら下がったままを強いられて耐えられるような、そんな生き物ではなかった。

毎日、自分の拳を握り締めて開くという、意識もしないで行う無為な作業のような。

つまりは確認ごとだ。自分の輪郭を、日々に埋没させないための僅かな作業。




冥界へと戻ったラダマンティスはまた暫くの間執務に追われた。その合間の休憩時間、バレンタインに映画の話をした。バレンタインはただ静かに聞いていた。お時間頂けましたら私も見に行きたいものですと、ややあってそれだけ口にした。












































面倒なことになったなとは、カノンの言い分だ。久しぶりにカノンが双子座の聖衣を纏っているのを見た。三界会議の際、カノンは大抵海界の代表であり、それならば勿論鱗衣を纏って姿を現す。
「全く、何でお前まで名乗りあげたんだ。俺ひとりで充分だと言っとろうに。サガに睨まれるのもいい加減わかるだろう?」
任務だった。それもその三界会議の中で話し合われた、少々見過ごせない事態である。

風だ、エーゲ海を襲う暴風雨。





それを議題に持ち出したのは聖域だった。初めはただの自然現象と気にかけられもしなかったのだが、それがどうにも違うらしい。数人を調査に向かわせるも、その小さな嵐はゆっくり移動しているという以外に、詳しいことはわからなかった。
「嵐の中に2、3人放り込んでみればわかるのではないか?」
軽い口振りでとんでもないことを言ったのはカノンだった。すぐさま兄であるサガが諫めるように、その案は一度聖域内だけでも出たのだと返した。ならば何故やらん、と不満そうにカノンは口を尖らせる。
「慎重であるべきだ。まだそれが何であるかも皆目見当がついていないのだぞ」
「だが誰かが行かねばそれもわからんだろうが。手拱いている間に被害は増える。ならさっさとした方がいい」
会議中だというのに軽く兄弟喧嘩を始めた同じ顔に、アイオロスが仲裁に入る。そして結局、『ならば俺が放り込まれてやろう』とカノンは声高に宣言したのだった。


「待てカノン、ひとりで行く気か?」
アイオロスの問いに、カノンは躊躇いなく頷いた。
「ひとりはやめておけ。誰でもいいから連れて行くんだ。何かあったら対処しようがないだろ」
アイオロスは至極まともに意見した。カノンは僅かに眉を顰めたが、素直にそれを聞き入れた。
同行者として真っ先に名乗り出たのはミロだった。しかしカノンは嫌だと即答する。
「サガが煩いから聖域の奴を連れて行くわけにはな」
なら俺が、と次に声を上げたのはアイザックだった。しかしこれもカノンは退けた。海界は今丁度別件に追われていて、カノンが抜けるのもかなりの痛手だというのにもう一人などと。それが言い訳だった。


話を黙って聞いていたラダマンティスは、ああこれはひとりで行く気なのだなと察した。それ自体は恐らく、渋い表情を浮かべているサガも、宥めるアイオロスも既に承知の上であったに違いない。だから、名乗り出てやったのだ。サガがほんの少し自分の方を向いてきつく目を細めたのを、彼は視界の端にしっかりと捉えていた。











「アイオロスの言うことは尤もだったぞ」
「だからって、嵐の中飛び込むだけにふたりも要らんだろう」
「飛び込むだけに終わらなかったらどうするんだ。無謀なことはするな、そんなに簡単な話ではない」
「ああ、もういいわかったわかった」
まるで子供のように拗ねた声色で、カノンは軽く両手をあげて降参のポーズを取る。ラダマンティスは顔をしかめた。


調査員の情報によれば、今嵐は丁度海の真上らしい。船を出してぎりぎりまで近くに寄ると、目に見えて明らかにどす黒い雲のようなものがある地点のみをすっぽり覆っていた。カノンが僅かに感嘆の声をあげる。
「なかなか手応えありそうだぞ、なぁラダマンティス」
楽しそうなカノンとは対照的に、ラダマンティスは目を鋭く細めて黒い雲を睨み付けていた。異様だ。直感的にそう感じた。カノンじゃないが、『面倒なこと』になりそうである。
「このまま突入するのか?」
ラダマンティスが尋ねた。
「それ以外にどうする」
返しながら、自分の足場を見下ろす。特別頑丈な船であるわけではない。たったふたりを送り出すためだけのものだ、あの嵐の中の状況は想像の域でしかないが、無事で済むとは思えない。
「空でも飛んでいくならまだしもな」
カノンがわざとらしく溜め息を吐いた。
「…ならば飛ぶか?」
「あ?」


柔らかく、しかししっかりと、ラダマンティスはカノンの左腕掴み取った。一瞬、わけのわからないような表情を浮かべたカノンに構わず、そのまま冥衣の翼を広げる。ラダマンティスの体が宙に浮いた。

「近くで待機しておいてくれ。くれぐれも、あれに巻き込まれないようにな」

振り返って船を操縦する男にそう伝えると、ラダマンティスはカノンを抱えて空に羽ばたいた。

「お、」
何か言おうとカノンは口を開くが、だんだん船から離れていく自分の足下を見て開けたまま黙り込む。そのまま高度はあがり、やがて風をつかんだラダマンティスは改めてカノンを抱え直し、速度をあげて勢い良く黒い雲の中へと飛び込んでいった。












視界が悪い、雲の中なのだから当然だ。しかしその中心辺りから、決して自分達のものではない小宇宙が溢れ出ている。それを目指してラダマンティスは飛行を続けた。水滴が身に纏わりついてくる。横風もきつい。
「行けそうか?」
疲労を感じ取ったか、カノンが声を張り上げて尋ねる。返事はしなかった。代わりにカノンを抱える腕に力を込めた。
「しっかりしろ」
カノンはラダマンティスの手を取ると自身の小宇宙を燃焼させる。急激に体が軽くなったラダマンティスはそのまま勢いづいて速度をあげ、次の瞬間、雲の層を突き抜けた。














視界が唐突に開ける。相変わらず風は吹きつけ雨は降り続けているが、それは先程のような横殴りのものではない。どこかを中心として渦巻いているようだ。
「…なにか居るな」
この一帯を、自分達とは比べものにならない強大な小宇宙が満たしている。ラダマンティスは注意深く周囲を見渡した。


嫌な予感どころではない。今更ながら、ついてきてよかったと思いながら、その嵐の中心までゆっくり飛ぶ。

まるで風に守られるかのようにそこにあったのは、癖の強い髪と顎髭を生やした男だった。見たところ老人であり、背に紛い物かと疑ってしまいそうなほどによくできた羽根を携えている。

「…ボレアスか!」
「ボレアス?」
途端、一際強い風が吹き付けた。老人がこちらを見据えている。
「風神のひとりだ」
「ふ…ってことは神か!?」
ラダマンティスはわざと風に身を預け、その流れに乗り、風神の様子を窺った。先程はこちらを鋭く睨んでいたが、どうやら最早興味は失せたらしい。その視線は既に別の方角を捉えており、それに合わせて少しずつ、嵐が移動を始める。

「一度戻って報告をした方がいいかもしれん」
ラダマンティスの提案にカノンが噛み付いた。
「お前、此処まで来て何もせずに撤退する気か?」
「ボレアスは神だ。それに風神の中でも気性が激しくその力も強い。あれが何に狂っているのかはわからんが、おれたちの手に負えるものではない」
「だからといってアテナの御手を煩わせるというのか!俺は退かんぞ、今この場でケリをつける!」
「落ち着けカノン、だからといってどうするというんだ。おれたちではあれに近付くことすら不可能なんだぞ!」
あの風神の纏う風は、恐らく刃だ。触れるだけで皮膚が切り裂かれる。
だがカノンは認めなかった。

「何かあるだろう何か。おいラダマンティス、ボレアスにまつわる神話だかなんだか、知らないのか」
カノンは聖闘士であるがギリシャ神話に酷く疎い。サガから一応学んではいたようだが、どうも記憶に残らず曖昧なままらしい。顔をしかめながらもラダマンティスは口を開いた。その間も、風神を見失わぬよう嵐と共に移動を続ける。

「ボレアスは北風、むさぼりつくす者という意味だ。さっきも言ったが元来気性が激しく、風神の中でも最も強力な神とされる」
「それはわかった。次!」
「ボレアスは過去、アテネの王女アーレイテュイアに恋をし、略奪を図ったらしい。それ以来、アテネの民はボレアスを親類関係とみなしている」
「親類?」
「ああ。故に、前500年より続いたペルシア戦争においてアテネの民はボレアスに祈りを捧げ、エーゲ海を渡るペルシア軍を壊滅させたともいう」

カノンは風神を見つめた。荒々しく空を駆けるそれは、人の祈りなど聞き届けるような存在には思われないが、物は試しだな、と小さく呟く。




「おいラダマンティス、あれにぎりぎりまで近付けるか」
ラダマンティスが一層険しい表情をした。
「…正気か?」
「ああ、大真面目だ」
カノンはにやりと笑い、はやくしろとラダマンティスの腕を叩く。ラダマンティスは渋った。見るからに風神は何かに怒っていて、話など聞きそうにもない状態だ。無謀にも程がある。
「なんだ、俺も信用がないな」
「そういうわけではないが…」
「なら任せておけ」


無理に風に逆らうことなくゆっくりと、ふたりは風神へと接近していく。風神は気にした様子もなくただ進行方向を目指すのみだ。風の鎧ぎりぎりまでたどり着いたとき、カノンは僅かに身を風神へと乗り出し声を挙げた。が、どうやら風の音にかき消されて届かないらしい。小宇宙を向けてみるも、その周囲に渦巻く風神のそれが大きく邪魔をする。カノンは舌打ちをした。






「…ラダマンティス」
「何だ」
「あれの頭上に俺を落とせ」






何かの糸がぷつりと切れたのだろうか。カノンの頼みは何処か投げやりにラダマンティスには思われた。今度こそ本気で、正気かカノン、と言わざるを得なかった。

「あの風の層も、小宇宙を燃やせばある程度何とかなるかもしれん。なんとしてでも説得させる」
「ならばおれも、」
「邪魔だ、引っ込んでろ」

びしゃり、と音が聞こえそうな程にはねつけられる。一瞬、ラダマンティスは身を硬くさせた。そしてそのまましばらく黙り込み、徐にカノンの冷たい髪に指を絡める。カノンは少し眉を顰めたが、腕を伸ばして逆にラダマンティスの頭部を小突いた。ラダマンティスがカノンを見る。

「おさまったら、ちゃんと回収しにこいよ」









カノンはひどく綺麗に笑んでみせると、次の瞬間、ラダマンティスの腹を思い切り蹴飛ばした。そしてその勢いのまま跳躍し、文字通り風の層へと飛び込んでいった。

「カ…!」
バランスを崩したラダマンティスの体を風が打つ。すぐさま体勢を取り戻してカノンの後を追おうと翼をはためかせるが、急激に風が強まり、風神のいる中心部に向けて小宇宙が集中した。視界が急に閉ざされる。


ラダマンティスは自分に落ち着けと、諫めの声を挙げることもできなかった。しかし呆けることもしなかった。カノンに蹴られた腹の痛みだけが何故か鮮烈だった。










忘れていたわけではない。繰り返すことに慣れていたのだ。蝕む平穏の恩恵の陰で、自分の本分はカノンの本分であり、自分が毎日確認していたように、カノンもまた、確認を続けていたに違いないのに。











唐突に、風が止んだ。体が一気に軽くなり、ラダマンティスはその場に滞空する。すぐさま周囲の小宇宙を探った。嵐の中心であった場所から、強大な小宇宙が、す、と薄らいでいく。と、入れ替わるように見知った小宇宙が伝わってきた。

「カノン!」

真っ直ぐにその方向へと突っ込んでいく。晴れた中心一帯から、真っ逆様に落ちるカノンを両腕で受け止めた。

「カノン!」
呼びかけると、カノンはうっすらと目を開いて頭上を見上げた。黒い雲が霧散し、その隙間から青空が顔を出しはじめる。それを確認すると、カノンは僅かに体を震わせた。
「カノン?」


不審に思って顔を覗こうとすると、カノンは突然ラダマンティスの首に腕を巻き付け大きな声で笑い出した。




「ウワーッハハハハ!!!見たかラダマンティス、どうだやってやったぞこれで文句はあるまい!!ハハハハハハハ!!」







見たこともないぐらい無邪気に笑って抱き付いてくるカノンに、ラダマンティスは唖然とした。背中に腕を回して抱え直し、とりあえず船を目指して飛行を始めたが、カノンは止まらないのか、殆ど消耗しきった状態であるにも関わらず、ずっと声をあげて笑っている。

しかし流石に疲れたようで、しばらくすると、あーだとか、うーだとか、言葉でもない脱力した声に変化した。


「あーお前の翼は便利だなぁ…」
ラダマンティスが黙ったまま飛行を続けていると、カノンが何の脈絡もなく口にする。
「ボレアスを見てても思ったが、ずるいぞこれ」
「…どうして」
「だってお前、これがあったら何処にだって行き放題ではないか」
「どこに行く気だお前は、どこに」
カノンがへらへらと笑った。そろそろ腹筋に力が入らないらしい。
「別にどこでも構わんだろう」

ラダマンティスは目を細めて、カノンを抱く腕に力を込めた。やがて遥か下方に置いてきた船を見つけ、ゆっくりと下降を始める。船員が声をあげ、甲板に足が触れた直後、ラダマンティスは抱えたカノンごとその場に倒れこんだ。風に煽られ飛び続けた彼に体を支える力は既に無く、久しぶりに嫌な疲労が全身にのし掛かっていた。











その緩やかな距離を思う。どれだけ踏み入っても、どれだけ掴んでも、きっといつまでも開いたままなのであろう、その距離を。

忘れないままでいた不穏の感覚は、忘れたくても忘れることはできまい。本当は確認すら必要ではないのだ。ラダマンティスが帰ってくる場所は、幾ら平穏を重ねたとても必ず戦場であるし、それはカノンだって同じだろう。戦士は一度戦場に出れば、もう二度と戦場から逃げることはできない。








































船の甲板に伏せて意識を失い、次に目覚めたのは慣れた自身の部屋だった。バレンタインが居た。野次馬でミーノスやアイアコスもやってきていたらしいが、今は部屋の前でクイーンとゴードンが相手をしてくれているらしい。
「ご無事で何よりです」
バレンタインはたったそれだけを口にした。とっさに頭の中で、おれはカノンを運んだだけだ、何もしていない、と弁解の言葉を浮かべた。だがそれを伝えるのも億劫になるほど疲労を感じていたラダマンティスは、そのままもう一度目を閉じた。









































次にカノンと会ったのは、再びひらかれた三界会議のときだった。その時には既に二人共完全に回復をしていたが、出会い頭にカノンが掛けた言葉は『大丈夫だったか?』であった。


「…あれはボレアス。北風を司る四柱のアネモイのひとりだ」
会議の中で、サガが全員の前でそう報告した。突如目を覚ましたそれは、エーゲ海の北岸付近を中心に徘徊し、何かを探していたのだという。
「突然目が覚めるというのは、一体どういう状況なのですか」
海界側としてソレントが発言する。その視線は一瞬、隣のカノンへと苛立たしげに向けられた後にサガを見た。
「風神たちは気まぐれに目を覚ます。刺激さえしなければ大抵の場合、二、三日のうちに再び眠りにつくはずなのだ」
イオがよくわからないというように首を傾げる。
「まぁつまりは、誰かが手を出したんだろうな。大事なものでも盗むか何かして」
アイオロスが苦笑いながら説明を付け加えた。笑い事ではないとサガが盛大に顔をしかめるが、今は住処であるトラキアで再び眠りについたのだと、事態の収束を正式に報告した。

「しかし一体何を盗まれたというのだ」
アイオリアの疑問にミロも同意する。神が怒り狂って探し回るほどのものというのがいまいち想像し難い。ふたりはカノンの方へその疑問を投げかけた。
「オーレイテュイアではないのかね」
答えないカノンにシャカが口を挟む。
「尤も、既に大昔の人間がこの世に生きているはずもないのだが」
「ああ、」
不思議そうに顔を見合わせるふたりに、カノンは笑って答えた。

「だから教えてやったのさ。此処にはいない、だってあんたが自分の下に連れてっただろ、てな」

ラダマンティスはただ黙って、その様子を眺めていた。







何事も無かったかのように、世界は再び元の色に戻る。混じり合えもせず漂うであろうに、自分もまた、その日常へと埋没するのだ。
その繰り返しや積み重ねに意味はない。どうせラダマンティスはこの距離を前に、待つ以外の選択肢を選ぶことはできない。肝試しでもするかのようにたったひとりで嵐の中に飛び込んで、うまくやり遂げたと馬鹿笑いをするカノンが、好奇心旺盛な子供のように生きていくのを尊ぶ限りは。そして自分が確かに地の底に足を着け、其処から這い上がることを望まない限りは。



どうしたってカノンはラダマンティスのものではないし、ラダマンティスはカノンのものにはなれないのだ。



















それでも持て余す感覚を、完全に捨て去ってしまうには少し長くことを続け過ぎただろうか。実に気の遠くなるような作業を繰り返し積み上げた足場を、壊したとして壊れたものは足下に残るのだ。どこかに置いてきたって無くなってしまうわけではないことも、ラダマンティスは知っている。


「今度どこか出かけないか」
休憩時間の合間に、ラダマンティスは何の脈絡もなくカノンに言った。カノンは首をちょっと傾げて眉間に皺を寄せる。
「どこか…って、どこに?」
「どこでも」

本当に、どこでもよかった。自分とカノンが居るならどこでもよかった。待つことしかできないなら待つしかないだろう。何故だかあの時のカノンのように投げやりな気分で、ラダマンティスはそう思った。
「なんなら映画でもいい」
「また戦争モノか?」

カノンが笑う。そこには何の他意もない、素直な感情がある。いたく真剣な自分は何一つ笑えなくとも、別に構わないのだ、鈍い衝撃に痛みはない、両手を広げて目も閉じられる。






























いつか全てを忘れられる時が来たら、その時は迷わずその手を取りに行こう。思い切り抱き締めたまま離さないでいよう。ただそれまでは、ここで握り締めた掌を開いて、今も続く無為な確かめごとを。










足の裏から伝わる世界の温度を一歩一歩確かめる


裸足のグライダー

さよなら、また明日。言わなきゃいけないな
言わなきゃいけないな




BGMはくるりの『ロックンロール』。迷走しすぎて頭がパンク起こしました。べっこんべこんです、ラダカノに関しては。

そして力量不足を物凄く感じました。久しぶりに、ほんと、どうしようやめようかと思うぐらい。
おかしいな、そんな難しいことを書こうとしてるわけじゃないのにっていう、ね。

ちなみに途中の部分は、あれだ…なんかぼんと入れたらだだだだだ…と繋がり…あんな感じに(笑)。私もよくわかりません。一応調べたけどミロ状態です。何が起こったというのだ…!


要リベンジですね。何度もぶつかるのは、ラダカノが好きだから…ってことにしておいてください。