ガラス





静寂を破るけたたましい音に、ルネは急激に機嫌を落とした。思わずペンを握る力が強まりインクが滲む。

嘆かわしい。と、口にするのも嘆かわしい。今の音は間違いなくガラスの割れる音だった。此処は冥界だ、しかも死人が裁きを受ける法廷の場だ。子供が蹂躙する住宅街ではない。


「おやおや」
近く、窓際の椅子に深く腰掛けていたミーノスが楽しそうに窓の外を眺める。
「逃げ出した亡者の捕獲に何を手間取っているのやら」
あれは何処の冥闘士でしょうね、独り言なのかそれともルネに向けて言っているのかわからないような、それでも幾らも品位を落とさない綺麗な声が静かに笑う。

相槌を打つことすらルネはしなかった。きっと期待もされていないだろう。無言で再び手元を動かしはじめる。




「そんなに不機嫌な顔をしないのですよ、ルネ」
しばらく、ペンが紙の上を走る音だけが部屋に響いていた。突如自分に向けられた声にルネは全運動を停止させる。
「出来の悪い輩の不手際ぐらい、寛大でありなさい」
「……」
機嫌を落としてなど。そう口にすることも憚られてルネはただ沈黙した。不敬か、とも思うがミーノスは大して気にする素振りもない。ただ音もなく立ち上がり、やはり楽しそうに外を眺めているだけだ。その指先がガラスに触れた。ルネは、先の鋭い音を耳に思い出す。煩わしい。




「…お言葉で御座いますが」
「なんです?」
「事項の効率を著しく低下させる者に与えるべき猶予など、必要ともしないかと」




何処か酷く澄んだ声にミーノスは僅かに笑んだ。やはり機嫌が悪いではありませんかと指摘されて、なるほど自分は今機嫌が悪いのかと。振動で震えるガラスを横目にようやく顔をしかめた。