この間手首を捻ってしまって。綺麗な形の眉を顰めながら、少しふてくされたようにこの女の海闘士は自身の手首をくるくると回した。執務机を挟んで向かいに座っていたカノンは、書類に落としていた視線をほんの少しだけあげてその様子を窺う。
「大丈夫なのか」
「ええ、まぁ」
その割にはあちこちに手首を曲げて、ずっと気にしているようである。
「手は大事にしろ。しかも右だろう?」
特に深い意味もなく、するりと口にした。咎めたわけでもない。ましてや心配をしたつもりもないのだが、
「それ、シードラゴン様には言われたくないです」
なんて、この目の前の少女はすました顔で言い返してきた。
「そう言って一番怪我して帰ってくるの、シードラゴン様じゃあないですか」
それは確かにそうだが。しかし心外だとばかりにカノンは、少女と同じく眉を寄せた。
「俺は構わん。お前達とは鍛え方が違うからな」
「1ヶ月前に右足折った人が何を言うんです」
「もうくっついた」
「どうせまたぼきっといきますよ。癖になってますから。それに比べたら私のなんてまだ可愛いもんです」
「怪我は怪我だろう」
「ちょっと捻っただけですもの」
「あのなぁ、」
口を開きかけてふと、何張り合おうとしてるんだ、と我に返る。何故かこの海闘士の少女は海将軍たる自分に対して遠慮というか、容赦がない。海皇は海闘士達に序列はないと仰っているから構わないといえば構わないのだが、流石に十以上も年の離れた子供に、しかも女に、こうも容赦なく突っかかられるというのはかなり複雑な気分だ。
理由はわからなくもない。カノンに容赦がないのは彼女だけではないし、カノンも自分に少々子供っぽい面があることは認めている。しかもそれは、どうやら自分よりも年下の者の前で特に顕著な現れ方をするということも、最近わかってきた。
しばらく無言の睨み合いが続く。カノンには全くそのつもりなどなかったのだが、向こうは立派に臨戦態勢である。ああ、またくだらないことをしている。少し自分から身を離してみれば直ぐにわかることだろうに、いつも何故か気付くのが遅い。だからといって途中放棄してみれば狡いだのなんだの、これだから年下は扱いづらい。ついでに言うと、女は更に面倒くさい。
カノンが溜め息を吐きかけたその時、廊下からばたばたと足音が響き、部屋の扉が勢い良く開いた。シードラゴン様、と声を荒げた別の海闘士が言い終わらないうちにカノンは椅子から立ち上がる。
「不祥事のようですね」
「ああ」
部屋を出るカノンに続くように、少女も扉まで駆けた。先ほどまでのふてくされた様相は一瞬で形を潜め、
「速やかに他の海将軍様にもお伝えなさい。先に向かわれるシードラゴン様には私が付きましょう」
と、女性特有の高い声のまま、廊下でざわめく他の海闘士達に鋭く言い放った。
カノンは一層、しかめ面になる。
「…来るのかお前」
「勿論です。何を仰るんですか」
大股に競歩で歩くカノンの後ろを追いかけながら、少女はさらりと口にした。
「ソレント様から、『また』シードラゴン様がひとりで勝手なことをしないよう見張っていてくださいね、と言付かっていますので」
そうではなくて純粋に手首のことを心配して言ったのだが、完全に鳩尾を一発打たれてカノンは黙るしかなくなった。その様子を見て少女は私の勝ちですねと言わんばかりに微笑んだ。全く強かなものである。騒がしい廊下の真ん中で、カノンは苦笑いを浮かべるしかなかった。
海の日の午後 第二月曜日
なんか前に、カノンは大人気なくてでも年下の前では年上振るんだろうなぁとか言ってたんですが、やっぱ弟気質ってことは、年上にはちょっと背伸びして良い子アピールして、年下には案外同レベルな付き合いを自然にするんじゃねぇかと思ったんでした。
テティスが好きです。強かな女の子はいい。あと私的に、明確に階級のようなものが存在するのは冥界だけなんじゃないかなと思っているのですがどうなんだろう。