その日、私は酷く疲れていた。連日の執務と調査で二晩は徹夜をしたことが原因だろう。ようやく全てを終えきり、だらしないと思いつつも椅子の背もたれに体を預けた。見かねたアフロディーテが『後は自分達がやるから宮に戻ってくれ』と懇願するように言った。相も変わらず彼は私に優しい。別な机で作業をしていたデスマスクも『それがいい』と言って私に部屋から出て行くよう促した。言い方は素っ気ないが、気遣いは大いに伝わる。少し足下覚束ない私をシュラが双児宮まで送ってくれた。彼はあまり器用ではないが、昔から真面目でとても良い子だ。



宮に着くと、安心感からか瞼が重く、どうもこのまま起きていられそうにない。本当は風呂に入りたかったのだが、やむを得まい、まずは仮眠を取ろう。少し眠って起きたときに入ればいい。私は目の前のソファーに寝転び、丁度よくあったクッションに頭を乗せ、すぐに深い眠りについた。




夢は見なかった。そこで瞼を閉じた瞬間から次に瞼を開く瞬間まで、時間を早送りしたような気分だった。私はまだ少し疲れていたが、部屋の薄暗さに、まずい、と上半身を起こした。すっかり日が暮れている。私は少しばかりの眠気を振り払い、部屋の中を見渡した。
明かりが点いていない。なのにダイニングテーブルの上には既に夕餉が乗っており、僅かに部屋は暖かかった。

「起きたか?」
しばらく呆けていると入り口の方から声がして、私と同じ顔が薄闇から現れた。カノンだ。カノンは一昨日の晩から海界へ赴いていた筈だ。帰ってきていたのか。
「ああ…すまないカノン、明かりを点けてくれ。暗くて見えづらい」
カノンは返事をしなかったが明かりはすぐに点けられた。私はゆっくり立ち上がり、ダイニングテーブルを上から覗き込む。
「…珍しいな、今日はシチューか」
「ああ、多少汁物の方が喉を通りやすかろうと思ってな」
そう言ってカノンは水道で手を洗い始めた。よく見ると既に着替えて私服になっている。引き換え私は教皇宮より下りそのまま横になったために、まだ法衣のままであった。仕方ない、夕餉を目の前にして腹は減ったが、もとより起きたときに入ろうと思っていたのだし、丁度いいだろう。
「湯浴みをしてくる」
「ああ、そろそろ起きる頃合かとさっき沸かしたばかりだが、温かったら言え。どうも俺にはお前の湯加減がわからん」
私は少し驚いた。
「カノン、先に入っていないのか?」
「いつも一番風呂がどうのこうの言うのは誰だ。俺がお前より早く入るわけがなかろう」
着替えていたから既に入ったものだとばかり思っていた。私が少し眉を顰めると、カノンは笑った。
「帰ってきたのは昼過ぎだ。流石に海界帰りでそのままの格好なのもなんだから、ちょっと着替えて作業をしていた。そんな顔をするな」
どうやらカノンは、私が眉を顰めたのを『風呂も入らずに新しい服を引っ張り出してきたのか』と咎めてきたのかと思ったらしい。そうではないのだが、訂正するほどのことでもないので、そうか、と相槌だけ打った。


カノンは徐にテレビをつける。夕方のニュースの時間帯だ。あまり聞いていて楽しくないニュースが重なる中、突如映された猫の赤ん坊の姿に癒された。

「何だ、入らないのか?」
カノンの声で我に返る。頭が寝かかっていたようだ。頭を右手で押さえて刺激した。まだ眠気が覚めていなかったか。
「相当疲れてんだな。二度寝するか?」
「いや、私が入らなければずっとお前は待っている気だろう」
カノンはテレビから目線を外さなかった。返事も返すことはなかった。
「入る」
「…いいって、寝てろよ」
「ならばお前も共に入るぞ」
「それでは温度調節ができんだろう」
私はカノンを睨んだ。しかしカノンは私に背中を向けていて、その表情を窺い知ることはできなかった。

暫し沈黙が流れる。

「…わかったよ、入れって。但し、風呂場では寝るなよ」
ようやく私の方を振り返ったカノンは、やはり笑っていた。
「上がったら飯にするぞ」
「お前は入らんのか?」
「後でいい。どうせ腹も空いてるんだろう」
言いながら、カノンはテレビのリモコンを探し始める。ダイニングテーブルの上にあったそれを、私は手に取り黙って突き出した。ああ悪い、とカノンがそれを受け取ろうとした瞬間、私はカノンを抱き締めた。
勢い良く行き過ぎてカノンが後ろへひっくり返る。そのまま後頭部を床にぶつけた。
「いだっ……!いきなりなんだ気持ち悪い!」
「何だ、こうして欲しかったのではないのか」
「誰が!」

共に倒れ込んだ私は、そういえば仕事はどうなっただろう、明日真っ先にアフロディーテに聞かなくてはなと考えていた。起き上がろうとするカノンを全体重かけて押し留め、目を閉じた。

「おいこら寝るな」
不機嫌な声が耳元で聞こえる。
「大丈夫だ。眠気はとうに覚めている」

それは本当だ。ただ、このままもう一眠りするのも悪くはないなと、少し思っただけである。









御苦労様でした



普通にサガを気遣うカノンだったはずなのに、最後の最後でカノンを甘やかしたくなってしまった私は負け組である。
サガカノの基本は飴と鞭。…って打ったら『雨と無知』って出てきた。何それちょっと面白そう。