欲しいものは幾つになっても尽きない。ただ、欲しい欲しいと駄々をこねなくなるだけだ。大抵のものは自分でどうにかできるようになるし、どうしようもないものは諦めるという分別も身に付く。
しかし諦められるものが存在するなら、諦めがたいものも存在するのは必然で。流石にもう『世界が欲しい』なんてことは思いもしないが、ほんの身近にあるのに上手く手に入らないものってのは、今も確かにある。所謂、『他人のもの』って奴だ。
昔からサガの持ってるものを羨んでばかりだったから、今更他人の何がしかが欲しいとぼんやり思ったところで焦りもしないが、そういうものは時間が経っても胸の中心を渦巻いてるものだってことはよくわかる。それは絶対的に手に入れることの叶わない、ついでに云うと、羨むという時点で既に自分とはかけ離れたものなのだ。事実、今になっても自分はサガに羨んだものを手に入れてはいない。
他人のものを欲しがる自分の浅ましさなら、自分がよくわかる。だから、出来るだけ諦めるように、出来れば羨むことのないように。勿論そういって簡単に無くせるものではないが、無くさないとしんどい。何時しかそういうものは全部、憎しみとか恨みとかに変わってしまうのだ。人を憎んだり恨んだりするのは非常に体力を使う。四六時中落ち着かなくなって苛々するし、瞼の裏で何度も相手を殺す夢を見る。
今自分に必要なものは、浅い睡眠と薄い毛布一枚だ。長い時間は必要ない。特別な寝床すら必要ない。ただちょっと肌寒いから毛布が欲しいだけ。散々体力使って生きてきたから、ちょっとぐらい無理をして搾り出してもまぁ大したことはないかなんて思ったのは過信だったに違いない。体が重たい感覚は久しぶりだ。あまり気分の良いものではなかったことを改めて思い出して苦笑い。歳取ったかな、と考えかけて止めた。それを考えるのは些か虚しい気がする。
それでも何もしないで動かないよりは幾らかマシだ。体を動かせば忘れられるつまらない思考がある。欲しいものだって、一杯の水だとか半日の昼寝だとか美味い晩飯だとか、そんなもので片が付く。安上がりだ。
今のように、薄い毛布に顔を埋めて目を閉じて、
(あ、今俺生きてるな…)
と思うのも容易い。
羨むものはまだ多く、沈む思考は尽きないが。
(…む)
不意に、脳裏を見知った繋がり眉毛がよぎって顔をしかめた。多分ここ1ヶ月ぐらい目にしてないものだが、相変わらずクソ真面目に仕事してるのだろうか。間違いないな、例外はないな、と思うと何故だか妙に笑えてきた。
よし、明日は久しぶりに連絡でも入れといてやろう。羨むものがないから何時までも落ち着いていられる。欲しいものならそこにある。鳩尾に一撃を穿たれたような感覚も、懐かしさだけで今は済ませる。
だから今は、寒さに少し肩を震わせながら、重たい瞼を閉じて眠ろう。
午睡
特に何の意味もないです。ただラダカノっていっつもこんな感じで互いの存在を考えてる気がしてなりません。