サガは待っていた。いつも視界の端で捉えていた、何てことのない扉が開く時を。何ものもを拒絶しようと頑なに閉ざされている割には、誰かが開けてくれることを待っているようなそれは、いつもサガに矛盾を突き付ける事項の象徴であり、故に唯一サガを『人』たらしめる小さな重みでもあった。
扉は一種の自己防衛の証だろう。サガは冷静にそう考えた。あの扉の向こうにはカノンがいる。生きていくことに貪欲な、血を分けた実の弟がいる。
この世は疑念だらけだ。他人は当然として、自分自身ですら此処にあって疑わずにはいられない。そうしてあらゆるものを疑い自他を知ろうとすることで人はあらゆる事項を確認し、そこから正しさを導き己の道を作る。
それを自明のこととしても、サガは、ただひとつ愛情だけは信じていた。目に見えるものでは決してなく、ましてや触れるものでも理論を説明できるものでも何でもないというのに、サガは肉親への愛情だけは間違いなく信じていた。正義を振りかざす両手の下に我が子を守る母親がいれば、その手は既に正義ではあるまい。それを素直に理解できるということ。つまり人間はある程度の道徳や倫理を生得的に持ち得ているはずなのだと、サガは信じていた。
事実はそうではない。肉親への愛情など塵ほどにも持たないものだって世の中には存在する。少し目を開いて見渡せば直ぐにわかることだ。しかしサガは、他人がどうであれ何があっても自分は家族を愛していると自負できたし、理屈などなく家族であれば愛せるということを何処かで信じていた。
物心ついたときから既に聖域で聖闘士となるべく修行を行っていたサガに、家族と呼べる人間は双子の弟であるカノン以外にひとりもいなかったが、サガはこのたった一人の弟を愛していると、尋ねられれば堂々と答えただろう。サガは、双子であるが自分の方が兄であるという強い自尊心を非常に早い時期から抱き始めていた。サガにはカノンを守る義務があった。それは同時に、何に於いてもサガはカノンよりも優れていなければならないことを意味した。幸か不幸か、カノンはサガよりも幼く成長も未熟で、何よりふたりが育った聖域において、誰よりも立派になるよう求められていたのはサガの方だった。
今でも、何故、と思わないことは、ないのだ。サガはたった一人の弟を、忙しいながらもそれなりに愛していたつもりである。勿論、過去となってしまった今では、それがつもりで終わっていたのやもしれぬと疑うこともあるが、それでもやはり、サガは弟への愛情に偽りはなかったと思っている。忙しかったが、時間に余裕があるときはしっかり構ってやっていた。勉強を教えた。簡単な小宇宙の使い方を教えた。気に入りのものがあればくれてやった。毎年誕生日には贈り物だってした。時には声を荒げて叱り飛ばしたこともあったが、叱るということはそれだけ気にかけているということでもある。サガは自分なりに、カノンを大事にしてきたと、今でも思っている。
しかしカノンはいつの頃からか、サガを避けるようになっていた。喜怒哀楽をはっきり表した幼い顔は、いつの間にか嘲るような笑いしか浮かべなくなった。
「誕生日を祝うなんて、今更だな。他に祝ってくれる奴が沢山いるんだろう?別に無理して俺と過ごそうとしなくていいんだぞ兄さん」
何てことを、と思わず怒りを露わにしたことをよく覚えている。無理などと、そんな風にお前には見えるのか。内心ひどい衝撃を受けながらも、しっかりとした口調でそう返したのだ。
「違ったか?俺なら嫌だがな。折角盛大な宴会を開いて心から祝ってくれる一方があるのに、こんな薄暗い部屋の中でふたりっきりだなんて。お前だってもううんざりしてるんじゃないのか。別に構わんぞ俺は、誕生日なんぞ祝わなくとも。何も不便なことはないし、生死に関わるような問題でもないだろう。こんな贈り物も、金の無駄だからやめてしまえ」
気味の悪い笑みを絶やさずに、机の上のものを一瞥して鼻で笑っていた。
「俺なんかいなければ良かったって思ってるんだろう?」
サガは勢い良く立ち上がって、カノンの頬を殴り飛ばした。カノンが床に転がった後も、腕が震えて止まらなかった。
その時初めて、サガは自身の肉親への愛を疑った。その瞬間に体内を、または脳内を駆け巡ったのは言いようのない憎悪だった。サガはカノンを憎んだ。正確には浅はかなカノンの思考の、その矮小さを恨んでいた。
理解しているだろうと、そう信じていた。サガは本当に洒落にならないぐらい忙しく、また双子座の黄金聖闘士になってからはその重責もあり、精神的にも肉体的にもかなり追い詰められていた。それでもたった一人の肉親を大事にしようと必死に心を尽くしてきたのだ。
サガが信じる道徳や倫理の通用しない外界と接することに限らず、人と関わり人と調和し生きることは、多かれ少なかれ苦痛を伴う。それを恐れて生きていくことはできない。人と交わることなく生きて行ける人間などいない。
だがサガは悟ってしまった。この愚かな弟は、自分の影に隠れてその苦痛から逃れ続けているということを。弟は人と接した時に生じる痛みを知らぬ。だから平気でサガを詰れるのだ。へらへらと笑って、あたかもサガの不徳であるかのように。
一度その視界の狭まった目を叩いて、よく外を見るがいい!
そう叫んで、カノンを聖域の切り立った崖の上から放り出したくなった。弟なのに、とは微塵も思わなかった。むしろ弟だからこそ、そうすべきなのだと心が訴えていた。サガはカノンの兄で、カノンよりも常に優れていなければならない。それはサガがカノンを守るためであると同時に、サガがカノンを正しく導くためでもあった。
それが切欠だったのかもしれない。サガはとにかくカノンといがみ合いばかりした。カノンの素行は日に日に悪化したし、暴言も増えた。勝手に街へ下りて盗人の真似事まで始めた。しかし何が一番手に負えなかったかといえば、何とか話をつけようとするサガをあの手この手でかわし、まともに取り合おうとすらしなかったことである。
「なんだ兄さん、こんな所で俺に構ってないで早く修行にいったらどうだ」
一番よく聞いた文句はそれだったように思う。そのたびに俺はお前に用があるのだと返した。そしたらカノンは心底うんざりした表情を作り、
「なんだ、またお説教か」
と、踵を返そうとするのである。引き止めようと腕を掴んで引けば、如何にもサガが悪いと咎めるかのような視線を投げられた。サガはカノンをそのまま壁に叩きつけたくなった。
「俺とて好きでお前に説教をしているわけではない」
「じゃあ止めたらどうだ?俺は別にして欲しいなどと言った覚えはないぞ」
「…俺には、お前のたった一人の肉親として、お前を諫める義務がある」
「義務だと?」
「そうだ」
何の躊躇いもなく頷くサガを見て、カノンはけらけらと笑い出した。
「何がおかしい」
その笑い方が非常に不愉快で、出来るだけ冷静でいようと思うのに自然と声が重たくなる。
「義務か、なるほど。なら兄さん、兄さんはその義務を果たしてどんな権利を手に入れるんだ?」
「なに?」
「義務は権利を得る為に行うものだろう?兄さんは俺を諫めるとかいう義務で、どんな権利を手に入れるのかと聞いているんだ」
「そんなもの、」
家族なのだから、必要ない。義務という言葉を借りるだけで、実際に社会で力を果たすような義務ではないのだ。一体何処でそんな屁理屈を学んできたのか。サガはとうとう顔をしかめた。
「俺たちは兄弟だろう」
「兄弟?」
「そうだ」
深くは語るまい。強い口調で言い切った。自明のことだと思っていたからだ。サガはカノンが自分の弟だというだけで、優しくも厳しくもなれると、信じていた。
カノンは勢い良くサガの手を振り払った。そして素早く身を離して距離を取り、忌々しげな目でサガを見上げた。
「…だから何だというのだ」
ふざけていたカノンの声色が急に変わった。奇しくもその呪うような低い声は、平素のサガのものとよく似ていた。
「兄弟?家族?双子!?知るかそんなもの!ただ血が繋がっていて顔が同じなだけではないか!それを特別なもののように銘打って、結局お前は俺のことなど何も見てはいないのだろう!?いい加減目障りだ、俺はお前の慰みの玩具じゃない、俺はお前のものでもない!」
衝撃が走る。サガはとっさに反応ができず、目を丸くさせてカノンを見るほかなかった。急激に押し上げて急激に引き下がった感覚を自覚できるようになると、次は堪えきれない怒りが顔を出し始める。右拳に力を込めた。
愚かな弟だ。世界の広さも己の小ささも知らぬ。卑屈を傲慢で潰し、喚くことでしか解決する術を持たぬ。そうして全てをサガの所為にして、カノンは逃げる気なのだ。
何故、どうして、一体何が足りなかったのか。
…今、この頑なな扉を前に、サガは考える。再び命を得ることとなった限り、何時かは開くのだ、この扉も。その時自分は何と言ってやればいいのか、どんな顔をしていればいいのか。それを考える。
カノンは一体何を望んでいたのだろう。自分にどうして欲しかったのだろう。本当は、どうしたって上手くはいかなかったのだと、わかっているが考えずにはいられない。
どれだけ憎んでも、やはりカノンはサガの弟だった。血どころか、世界でただひとり遺伝子も同じくした人間だった。だからその間に、諦めるとか、投げ出すとか、例えしてしまったのだとしても永遠に等しくすることは、決してないのだ。どれだけ縁を切りたくても切れないものが、不本意だと嘆いても存在している。サガはそれを知っている。
扉が開いたら、真っ先にそれを伝えてやらなければならないか。
卑屈を傲慢で愛そうと必死になる愚かな弟に、どうあっても自分だけはお前のことを愛していると、お前がお前でいるだけで充分なのだと。誰かが厭う一面を、サガも嫌ったとてカノンを嫌うわけではないだろう。そんな簡単な話を、今まで自明だと思い込んでカノンを放り出した、それが責だ。
望みをこれから聞きにいく。聞いて、最後はちゃんと抱き締めてやろう。頑なな扉もそのうち開け放されたら、サガが此処にいて、カノンがきっと向こうにいる。
ノッキング アンド オープニング
題名考えるのが毎回大変です(しかしこれはひどい)
…前書いたカノンの奴の対になってるはず…なんですが。間があきすぎてどうにも。
サガは正しいけど、正しくあろうとしすぎて失敗するんだと思う。双子は素直に家族愛情であってほしい。サガとカノンで形は違うけど。それはしゃーないよ、だって違う人間なんだからね。
双子はいろいろ書きたい内容が多くて困る…!