いつだってそうだ。時間と状況は私を大人にしようと後ろから急かす。夜の闇は新しいときの始まり、さぁ準備をして今日の不足を補うがいいと、吐きそうなくらい優しげな声で笑いかけて私を追い立てる。目覚めた朝の光は暖かさを齎す代わりに網膜を焦がして私を殺す。

その全てが憎い私は、決まりきったように身を起こし、昨日の続きのように活動を再開して、また新しい嘘を考えるのだ。




























「おはようムウ」
最近金牛宮の主になったばかりのアルデバランが、何の屈託もなく私に声を掛けて笑みを向ける。おはようございます、と私は何時も通り僅かな微笑みで挨拶を返した。

「どうした?教皇がお呼びなのか?」
「…ええ」
聖衣を身に纏っていたからアルデバランはそう判断したのだろう。教皇に会いに行くのだ、というところまでは正解だった。私は自宮でひそりとまとめ上げた荷物を思い出して、心の中だけで彼に詫びを入れた。
「暫く、ジャミールの方へ」
「ジャミール?修行地に帰るのか?」
「女神が降臨なされたということは、近いうちに聖戦があるということでしょう?…聖衣の修復作業に、専念しようかと」
ジャミールの地に、死んでしまった聖衣の残骸が多く存在していることぐらいは、アルデバランも知っている。成る程そうか、と納得して何度も首を縦に振っていた。
「しかし聖戦か…俺も今や黄金聖闘士のひとり。覚悟は勿論決めているが…」
「どうしました?」
「うん…俺は、いや俺だけでなくムウもだ。まだまだ小僧ではないか。こんな小僧に、そんな大きな大戦が導けるだろうか」
ああ、真っ当な不安だ。私はアルデバランに気付かれぬよう、安堵の笑みを浮かべた。彼はまだ酷く純粋で、正常で、優しいのだ。
「まだ直ぐと決まったわけではありません。焦らないでアルデバラン。学ぶべきことは、寧ろこれからの方が多いですよ、きっと」
















少しずつ、少しずつ人間は大人になっていくものだよ。からだが大きくなっていくのと同じようにね。勿論、急に成長する時期だってある。それはそれでそういうときなんだ。だから傍らの誰かが急に大きくなってしまったからといって、焦ってはいけないよ。自分のペースで大きくなりなさい。




大人はそうやって嘘を吐くのだ、と私は歯軋りをする。尤もらしいことを人の良い笑みで述べ上げて。真実か否かなど問題ではないとでもいいたげに、柔らかい普遍の毛布を広げて私達を寝付かせようとする。何が自分のペースだというのだ、夜毎に迫り来る時間の急かすような声を前に、私は自分の胸を潰すように握り締めた。

理不尽だ、不公平だ、どうして、と喚くには少し感情が足りない。わからないことの答えを与えてくれる人間がいなくなってしまったことに、まだ暫く実感が湧かない所為だ。死んだというのならばその死に顔を見せてほしい。死んだという証拠の為に、式を挙げて目の前でからだを焼いてほしい。


実感はないのに、私はここで、ひとりだった。




































誰かの怒鳴り声が耳を突いた後に、鈍い打撲音がその場に響く。私は顔を暗くした。音の方向へ足を運べば、小さな獅子が地面に両手を付き噎せていた。
「アイオリア」
私はただ静かに声をかけただけで、手は差し伸べなかった。同情の念が私の中に存在すると考えるのが嫌だったのもあるし、そんなことをしなくても彼は自力で起き上がると信じていたからでもある。その通り、彼は両足に力を込めてゆっくりと立ち上がっていた。彼は大抵擦り傷だらけだったけれども、今日のそれは明らかにモノが違った。頬にこびりつく血を手の甲で何度も擦って、アイオリアはきつく唇を噛んでいた。
「ムウか」
掠れた声が僅かに聞こえた。最近彼は声変わりの時期に入ったのだという。
「何か用か」
「いえ、偶然通りかかっただけですよ」
「そうか、ならば失せろ。俺と話しているところを見られては面倒だぞ」
彼の兄は反逆罪で此処を追われた。山羊座が始末したと報告されたが、遺体は見つからなかった。だから、此処にも実感のない足場が広がっている。

私は素直に彼の忠告に従い踵を返した。世界を違えたと思ったわけではないが、既に彼は見つめる先を定めているように思えた。彼は普遍の毛布すらはぎ取られた。彼の思惑の届かないところで。その点私は、毛布をかけてくれる人間を失ったといえど、まだ未練がましくそれを頭から被ったままなのだ。

苦々しく忌み嫌っていたものではないか。

自問をしたところで私の脳裏に浮かぶのは、わからずやの頭を撫でる、優しいてのひらだけだった。





子供であることに甘んじていたかったわけでは決してない。

言い切れる心とは裏腹に、私は未だ夜の闇に隠れ朝の光から目を背けている。照らし出されて迎えられた場所はまるで処刑台のようだ。裁判を持つ猶予もなく、執行のときは訪れてしまった。
大人と同じように思考し大人と同じように動けたとて、私は大人ではない。事実、私のてのひらは私を育てたものよりふたまわりも小さく、工具を握り続けてできる窪みも存在しない。どれだけ必死に足を伸ばして一歩踏み出しても、私より背の高いものたちの半分も前に進むことはできない。それは、例え私が大人と同じような思考をできたとしても、何を為すこともできないということを示す、決定的な事項である。




なら何を恨めばいいのか?




失いたくないものを多くこうして抱えながら、一体私は何処に行けばいいのか。
教えてくれる声はもう聴こえない。足場は自分で見つけなければならない。
見つけられなければ、私はきっとこのまま沈んで、二度と浮かび上がらないのだろう。



































「アイオロスの話はするな!!」
別な場所では、小さな蠍が喚いていた。既にひとり、被害を被って傷をつくっている。堪えようともせず涙をぼろぼろ流し、蠍は今にもまた近くのものを傷付けそうな勢いだった。そうならないのは、後ろから彼の無二の親友が押さえているからである。
「アイオロスもサガも、おれも、みんなで、一緒だったからっ」
「落ち着けミロ!」
「何も知らない奴が知ったように口にするな!!裏切ったんだ、みんないなくなったんだあああああああああ」





子供の世界は狭い。
他人を見て、その聞き分けのなさを非難する。わからずやで居られない理由はこんなにも明白だ。耳を穿つ声の不快感は否めないまま、しかし同時にその足下の確かさを羨む。

小さな蠍は散々泣いて、泣き疲れてその場に座り込んだ。周囲の誰もがこの正直な子供を前に沈黙を破れず、互いに顔を見合わせる。彼の親友だけが彼に寄り添い、沈黙の海に溺れぬようひたすら声をかけ続けていた。






「君も、見物にきたのかね」
突如、背後から声がかかる。みっともなく驚いたりはしなかったが、咎める視線だけはしっかり送った。いつの間にやら私の背後にはシャカがいた。…彼が自宮を離れるなど珍しいこともあるものだ。私はそう考えて気を逸らした。
「そんな趣味はありませんよ」
シャカは私の返事には初めから期待などしていなかったのだろう。両の瞼は下ろしたまま、小さな蠍の座り込む方へと首を捻っている。彼の表情は常と変わらず、何を考えているかは見当もつかない。

「ミロは単純だな」
「いきなりですね」
「君も、さっき思っていたのではないか?」
「…否定はしません」
「しかしそれは真っ当な反応でもある。殊に彼は二人によく懐いていた。無条件に信じていたものが何の前触れもなく消えたのだ、喚くも仕方あるまい」
「…なら、あなたは信じていなかったとでも?」

途端、私は矛盾を突きつけられた気分になった。

「いいや。捉え方が一様でないなら、反応も対応も一様でないのは当然のことだ。単純というが、悪いとは思わんよ」
「それは、あなたが直接の被害者でないから言えるだけなのではありませんか。足場を崩されたものにとっては、そういわれてはいそうですかと改善を図れるほど簡単な話ではないのですよ」

だから『大人の言い分』は嫌いなのだ。私と変わらない年月を生きてきた筈の彼が、今正しく私に促していることが普遍の毛布を被ることに違いなかった。…その遠い立場が憎い。憎いのに、そこへ到達できない私の愚かさが背に迫る。私は投げやりになっていた。

「何を、焦っているのかね」
心底不思議そうな物言いのわざとらしさが見えて腹が立つ。
「焦ってなど」
「確かに、庇護者がいなくなれば私達は何を頼るわけにもいかなくなる。しかし例えどれだけ装ったところで私達はまだ道理のわからぬ餓鬼ではないか。先走って高みを目指しても為すべきことが見付かるわけではないだろう」
「……言われなくてもわかっていますよそのぐらい!」


思わず語気を荒げた。その内容がついさっきまで考えていたことと違わなかったからだろうか。それをわざわざ指摘されたことに確かな怒りを感じたのだ。
「だったらどうだというのです、今更何を見返せと?この状況の中で、私に大人になるなと!?」







そう言ったって夜は必ず訪れて、朝は必ずやってきて。








「大人になりたかったのかね?」
「……」
「ならば君は、子供のままでいたいのかね」
「………」





































この焼け爛れ黒ずんだ身を皮肉るように朝は今日も暖かい。目を覚ましたって何も覆せないのに、まだ此処で続いている呼吸も、それに甘んずることを許さない夜の訪れも、ただ優しく私を蝕むだけで。

どうしたところで何も正しくはないのだ。間違いだと断定できるわけでもないが、顔を上げて見つめる一日に糾弾できることが見当たらない。いっそ容易く見捨てられるような過ちを選べればよかったのに、それも過ぎ去った後ではただの後悔にしかなり得ない。



子供であることに甘んじていたいわけでは決してないのに。



私は言葉を発しようとして失敗し続けた。見苦しく口を開いたままでいれば、舌の奥を打たれたように様々なものが胃からせり上がってきた。思わず膝をついて、その開いて閉じない口元を右手で覆い、私は地面と向き合う。
「……私は…」
シャカは何も云わずに、その醜い私の方へ顔を向けていた。
「私は……」
























思い出すのは、いつも嗄れたてのひらだけだった。私のものよりもふたまわりほども大きなそれは、私の足場を作り、私の身を高みへと連れて行く。
ああそう、私は結局殺せなかったのだ。毛布を引きちぎれもしなかった。たったそれだけで何時までも私は続いて、朝に生まれ、夜に死ぬ。


「信じているとも」
ようやくシャカは口を開いた。平時と大して変わるところのない尊大な声のままで、膝をついた私の前にしゃがみ込みながら。

「その全てが須く君だろう。私が当事者でないことで私にはわからないことの多くがそこにあっても、ひとつ、私は君を信じているよ、ムウ」











































ジャミールへ旅立つ日の朝、私は久し振りに夜明け前に目を覚ました。まだ暗闇に包まれた中、私はそろりと毛布を剥ぎ取りゆっくり身を起こす。

ひとりには違いない。ついこの間自身に突き付けた『現実』をもう一度思い起こしてみる。だがそのことが一体何を作ったというのだろうか。誰かと手を繋いで歩こうが並んで歩こうが、もしくはひとりになろうが、どうせ呼吸は続くのだ。目に見えた形で死体を晒して欲しいと、叶ったところで私はもうひとりだということは何にも覆らず、憎めるものを見つけたところでそれらは何も大切なものなど返してはくれない。

どれだけ此処で喜びを見出しても、いつかは息絶えるのと同じように。




真正面から捉えた朝の光は、眩しいけれども暖かかであることに変わりはなかった。思っても今は変わらず私の網膜を焼くそれを、いつか愛せたら私も大人だろうか。その時までは、私も子供であったとて許されるのだろうか。

昇りだした朝日が暗闇を柔らかに照らしていくのを、私は初めて美しいと思った。























ひそりと纏めた小さな荷物を抱え牡羊座の聖衣を背負い、私は晴れた空の下、ひとり静かに聖域を出た。見送りは欲しくなかったから、前日までに必要ある者達にだけ赴くことを伝えて日取りは教えなかった。アイオリアは終始無言のままだった。ミロは何か言いたげに顔をしかめたが、結局元気でやれよと踵を返してしまった。カミュも似たような反応だった。彼は既にシベリアへと向かう予定が立っていた。
シャカとは、あれ以来顔を合わしていない。ジャミール行きを伝え損ねてしまったが、まぁ構わないかと放棄した。私達はいつ命を落とすかもわからない世界で生きているけれども、私はこれを今生の別れにするつもりは毛頭なかった。寧ろ再びこの場所に戻ってくることさえ考えていた。


忘れてはならない。私はまだ、事を何も解決してはいないのだ。逃げるようにして決めたジャミール行きの、その本義も恐らく何ひとつ変わっていない。優しい普遍の毛布を頭から被りながらも私はただ、確実に段差で躓くことを覚えて歩き出しただけなのだ。

私は一度も後ろを振り返ることなく聖域を後にした。次にこの目が映すこの場所の風景が変わることを少し期待して、同時に変わらないものが其処に在ることを信じて。





ひとりの道を行く。









愛おしい朝






BGMはtacicaのオニヤンマ。
聞いてたらふつふつと思いが湧き上がってきたのですが、何がなんだかです。パッションだけでかくとこうなるという分かり易い事例です

ムウ様が好きです。正しさを常に客観的に考えてるところが。間違えないわ、と思うし謙虚になれるのだと思う。
あの問題多い年少組において『大人』であることと『子供』であることを、身をもって知ってる人なのではないかなと思ったのでした