多量のエンジン音に紛れて物騒な音が撒き散らされている。コンクリートに重たいものが落ちて振動が起きた。不揃いな行進。何を言っているのか聞き取れない罵声の幾重奏。クラクションが高らかに鳴る。
「…回り道するぞ」
ハンドルを握るデスマスクがそう宣言して間もなく車体は右折した。曲がり終えない内に、アフロディーテは後部座席から身を捩って遠ざかる景色を眺める。左は大通りに続く道だった。シュラがバックミラーを横目で確認する。後続の白い車も同じように右折をしていた。
「なぁ見ていかないか」
運転手は無視をした。計ったように三発、発破音がしたかと思うと大通りから人間が投げ出された。それが地面に叩きつけられた瞬間、助手席の男は顔をしかめた。
「酷いな。どこを目指しているんだ、あれ」
まだ興味の失せないらしい後部座席の声が面白くも何ともなさそうに笑う。
「…関わらねーぞ」
「わかっているよ」
運転手は舌打ちをした。遠く喧騒を置き去りに、彼らを乗せた黒塗りの車はそのまま道を左折する。
「またデモが?」
「ああ、丁度街まで買い出しいってたんだがな。その帰りに見たぜ。お陰で回り道するハメになった」
「そうか。お疲れさん」
難しそうな顔して執務室の椅子に座っていたアイオロスは、わざわざ立ち上がると労うようにデスマスクの肩を叩いた。そういえば珍しく法衣なんぞ着込んで真面目な格好をしている。案外似合ってんじゃねーか、普段もそうやってりゃ少しは威厳もあるだろうに。デスマスクは思考を濁した。
「これから何か御公務ですか?教皇補佐様」
「わざとらしいなぁ、その敬語」
「うっせーよ。で?何かあったんで?」
「いやなに、教皇の手伝いさ。サガばかりに任せるわけにもいかんだろう」
苦い顔をしながら、そんなわけでしばらく留守にするから、と適当に告げてアイオロスは部屋を出て行った。デスマスクも適当に手を振り返す。閉まった扉を睨みながら、ひとり部屋の中、彼は盛大に溜め息を吐いた。
外界と隔絶された聖域まで、街の生きた音は届かない。何処までも見渡せそうな高みから目を凝らしても、それよりも高い山々が視界を遮ってきた。退屈な話だ。
ほんの数ヶ月前は、もう少し穏やかであった気がするのだが。あの大通りを歩くのが好きだった。特に理由らしい理由もない。ただ漠然と好きであるという感覚だけが浮遊していて、軽く失望を覚える。
明くる日、アフロディーテはひとり街へ向かった。昨日の喧騒とは打って変わって、街は酷く静かだった。嵐のあとかとぼんやり考える。それは何かを根こそぎ奪いとって、そのままどこかで姿を消した。
改めて嵐のあとを見ると、前歩いたときとはまた少し様相が変わったようだ。アフロディーテの歩く歩道の反対側、建物にかかる看板が見慣れないものとなっている。確か小さな服屋だったはずだ。いまぶら下がっているそれも正しく服屋のものではあったが、形もロゴも色もまるきり別物であった。アフロディーテは少し目を細めた。残念だ、あの店結構好きだったんだが。あの優しくて気弱な店主の行方が気になった。
もっと見渡せば変わったところなど、他に幾らでもこじつけられる。道の整備が為された跡や、発光ダイオードの新しい信号、切り倒された街路樹。しかし必然的に、何かが変わったことに気付けない部分も存在するに違いない。この広い道路を走る車だけで、此処の景色は毎日変わっている。点かない建物の明かりは、其の住人は既に無いということを意味しているかも知れないのだ。自らの預かり知らぬところに、誰とも知れぬ人の終わりがある。
変わるものなのだなぁ、と。今更知ったことでもないのに思ってしまう。車道の真ん中に大きく焦げ跡ができていた。先日の喧騒のことをまざまざと思い出す。
非難をする気はない。こんな言い方をするのは何だが、アフロディーテには関係のない事項なのだ。だが例えばあの時、野次馬で喧騒を見に行っていたらどうだっただろう。何をしただろう。今となれば仮定の話に過ぎないが、ただの野次馬で居られたとは、誰に聞いても有り得ないと返されるだろう。
街は変わる。通り過ぎていく人々も変わる。足音ばかりが耳につくようで、アフロディーテは顔をしかめる。誰かが嘆いた息苦しさは、この首にも纏わりついているようでいて実はそうではないことを、見えない不安に足掻く街を遠目に思い知った。
答えは出ている。あの喧騒を目の前に回り道をするしかなかったのは、足踏みばかりしているむっつの踵。街と共に生きることのできない愚かな生き物。嘗て愛した大通りは、変わっても美しいままで人々を内包している。
呼び止められて差し出されたのは、小さな箱だった。包装紙の所為で中身は見えないが、ひどく軽いものであるらしかった。
「土産だよ、シュラ。とびきり美味いヤツだから大事に飲んでくれ」
何だと尋ねる前に答えが返る。教皇宮に参内した帰りのこと、双魚宮の主がやたらと上機嫌なのを訝しがりながら、箱は有り難く貰っておいた。
「シュラ」
階段を半ばまで下りたところで、再び呼び止められる。振り返って彼を見上げた。何故か青い空が目に付いた。
「なんだ」
「任務かい?」
「…ああ」
「そうか。蟹の話によると教皇とアイオロスもしばらく留守のようだし、随分と忙しないんだな」
「…年が明けたから」
改める必要があるのだと。サガが少し困ったように言っていた。どんなものであれ全ては時が経てば古びるのだ。朽ちてしまえば使いものにはならなくなる。だから何らかの節目を決めて、全てを振り返る必要があるのだと。
言われたことをそのままシュラはアフロディーテに語った。アフロディーテは呆れ怒り苦笑いなど複雑そうに表情を変えて、最後になるほどなと呟いた。
此処も、そのままでは居られなくなってしまったらしい。
当然といえば当然だ。何も変わらないことを嘆いていた頃とはもう全て訳が違うのだから。喜ばしいことではないのか。
(だって私は、変わることを死ぬほど望んでいただろう)
シュラの背中を見送りながら、アフロディーテは再び耳を澄ませた。そんなことしたってあの街の喧騒が聞こえてくるわけでもない。
…あの喧騒の下に、幸福が待っているわけでもない。
サガが、書類を片手に慌ただしくあっちに行ったりこっちに行ったりしていた。執務室に入ったデスマスクが微妙な顔をする。何かあったのかよ、とぶっきらぼうに声をかけると、はっとしたように笑顔を繕った。困ったような笑顔だった。
「訪問の予定があるのだ。もう少ししたら行こうと思うのだが、場所がな…」
ひっくり返した書類には簡易な地図が書かれていた。デスマスクは細目でそれを眺めた。目印となる建物を確認し、やがて、ああ、と納得した声を出した。
「そこなら魚が詳しいぜ」
「アフロディーテが?」
サガは意外だというように書類の地図をまじまじと眺めた。その間に、デスマスクの頭にはしっかりとその風景が映し出されていた。一番新しい記憶は、多量のエンジン音に紛れて撒き散らされた物騒な音、強い振動。揃わない行進と聞き取れない罵声。それを背後に残して立ち去ったという、小さな事実だけ。
ふたつ返事で、アフロディーテはサガに同行することを受け入れた。もとより断る理由などない。サガの役に立てるならどんなに少しのことでもやるつもりでいた。正午に近付く明るい時間帯、静かに街の方へと向かって歩く。公式の訪問らしいから別段目立たないようにする必要もないが、法衣を着たままのサガをアフロディーテは気遣った。出来るだけ人気の無い道を通った。
しかし、理由はそれだけではない。聡い耳は既に街の音を拾っていた。思わず顔をしかめる。明らかに異様な空気のなか、漂ってきた硝煙のにおいにサガが反応した。
「…なんだ?」
しまった、とアフロディーテは至極冷静に思った。音の響く方へとサガが視線をさまよわせている。
「…デモだよ」
「なに?」
その時、喧騒の声が一段と高く響いた。サガは既に大通りへと足を向けていた。失敗したなと思えどもう今更だ。
「サガ、巻き込まれてしまうよ」
一応、形だけ止めようとしておく。どうせ聞かないのだということはわかりきっていた。
その光景は想像していた通りのようでいて、実はそれよりも酷い状況だったかもしれない。隣で声を張り上げても殆ど聞こえないのだ。どうしてこの音があの山奥に届かないのだろう。不思議に思うよりも先にアフロディーテは苛立った。
サガはその様子をただ黙って見つめていた。眉間に皺を寄せながら、それでもあくまで落ち着いた佇まいをしている。
あの日、同じように此処に立っていたら。こんな気分だったのだろうか。違ったようにも思うし、やはり変わらないようにも思う。
行こう、と。小宇宙を使って伝えようとした時だった。サガが動いた。アフロディーテも視界の端に捉えた。スローモーションにすら見えなかったその小さな光がきらりと輝いた瞬間、爆音が辺りに響き渡った。
黒い煙が高く上る。口元を押さえながらアフロディーテは目を凝らした。煙の中から、7、8歳ぐらいの少年を抱えたサガが姿を現す。その後ろにも何人か腰を抜かした人々がいることも確認できた。
通りの中心は、黒く焼け焦げていた。
「…愚かな」
サガは、丁寧に抱えていた少年を地面に降ろすと、周囲をゆっくりと見渡した。
「多くのものを巻き込む可能性は、当然考慮していたのだろうな。貴殿等の目的は何だ、人を傷付けることなのか?そうでないのならば浅はかと言う外あるまい。今一度、互いの顔を見合わせて思い直してみるがいい」
しばしの静寂がその一帯を支配した。
「…次はもっとマシな抗議の仕方を考えるのだな」
サガはあっさりと踵を返し、すれ違い様にアフロディーテの肩を軽く叩いた。それを合図にアフロディーテも通りに背を向ける。自分たちの足音だけがやたらと耳についた。
「あれは駄目だ」
遠くなる景色を少し眺めて、アフロディーテは切り出した。
「いけないよ、サガ」
ただひたすらに首を横に振る。それ以上に言うべき言葉は見つからなかった。瞼の裏には、あの一瞬の輝きだけがこびりついている。サガは振り返って苦笑した。そうだな、と独り言のように呟いた。
「関わろうと思ったわけではない。ただ見過ごせんと思っただけだ。心配をかけさせてしまったのならすまない、アフロディーテ」
そうではない、そうではないのだ。しかしそれを伝えるには、あらゆるものが、彼には足りなかった。
硝煙のにおいを嗅ぎ取った時点で、あれは予測がついていたことだった。戦いの中でそれができないというのは致命傷に繋がる。つまりは傍観したのだ。あの瞬間、自分は全てを見過ごそうとしていた。
サガは一瞬で守ったぞと、自分の声が脳内を反響する。
そうありたかった。
人として生きてはいなかった13年の所為とは最早云うまい。自分は、サガのように成りたかったのだ。できもしない癖に変わろうとしていた。そしてそれを思い知らされた時に、全てが止まってしまった。
もう望んだものにはなれないのに、そこから後退することもできない。ただひたすらに憧れていただけの時にすら戻れない。
諦観が胸で育ったら、それが実に合理的だと言わんばかりに利用して、挙げ句の果てには退屈、だ?
馬鹿じゃないのか。
サガの後ろ姿は、昔と変わらず潔さを保ったまま、しかし確かに大きく美しく見えた。変わるのだと。今度は断定的に感じた。そして同時に、ひどい苛立ちが腹の底をかきむしった。
あの小さな純粋さが、今も此処を駆けずり回っている。
何してんだ?とデスマスクが呆れたように尋ねる。まるで世界を見下ろす高き山の頂近くで、アフロディーテはうずくまって笑っていた。空は驚くほど青かった。
「いいところに来たな、蟹。見てくれこの素晴らしい景色を」
「…もう見飽きるぐらい見てるっつーの」
「あの山の向こうにはな、街があるんだ」
だから知ってる、と溜め息混じりに言いかけたとき、くくく、と押し殺した笑いが再びアフロディーテを支配した。気付けば両眼からはぼろぼろと水が溢れて足下を濡らしていた。
「良い街だよ。好きなんだ。もう15年も前になるのかな、初めて訪れたときはわくわくしたなぁ。今から思えば不謹慎だが、汗まみれになるよりずっと楽しかった」
「……」
「なぁデスマスク、シュラはいつ戻るって?」
「…知らねーよ。大体一週間弱とは聞いたけど」
「そうか、まだ戻らないか」
身を起こしたアフロディーテは十二宮の下へ続く階段へと目をやった。誰かが上ってきている。反射的にデスマスクもそちらを向いた。ふたつの隠そうともしない大きな小宇宙を感じた。
「ほら、教皇と補佐殿のお帰りだよ。出迎えに行こうか蟹」
「冗談じゃねぇ、誰がいくかよ」
「なら私が行ってやる」
「…おい魚、変なもん拾い食いしたんじゃねえだろうな」
「失礼な。誰がするかそんなこと」
「じゃあなんだよ」
「別に」
喧騒の音は、相変わらず此処には届かないが。顔面を両手で覆い隠して下へとずらす。それで変わろう、それをくだらない合図にしよう。
ひょっこりと見えたアイオロスの頭のてっぺんに向けて、お帰り、と声を挙げた。元気に手を振り返すその後方から、シオンが悠然と姿を現した。
幼い頃から好きだった店を思い出す。美味いパンを作っている店だった。久しぶりに幾つも買い集めてかじりながら通りを歩いた。昔食べたときの味を鮮明に覚えているなんてことは有り得ないが、懐かしさは湧き起こる。
街は再び静かな生活を取り戻していた。深く刻まれた嵐の爪痕すらそこに生きている人間の証にして、今日も歩み続けているらしい。
「お姉さん」
服の裾を軽く引っ張られてアフロディーテは視線を下に落とす。7、8歳ぐらいの少年がいた。彼には見覚えがあった。
「お姉さん、あのとき助けてくれたお兄さんと一緒にいたよね?」
ああ、あのときの。ようやく正しく記憶と符合する。
「助けてくれてありがとうございました、って、お兄さんに言いたいんだ」
案外はきはきと喋る少年だった。見た目は柔和そうで女子に似るが、まぁ外見というのも当てにはならないものだな、とアフロディーテは少し笑んだ。
「…そうか」
アフロディーテは紙袋の中から小さめのパンを取り、少年に持たせた。嬉しそうに顔を綻ばせながらも彼は首を傾げる。袋を抱え直し、アフロディーテは少年の頭を乱暴に撫でてやった。
「なら私から伝えておこう。だがその前に、私は“お姉さん”じゃあない。“お兄さん”だ」
不満げにそう言ってやると、少年は申し訳なさそうに謝った。何処からか女の声がした。少年は大きな声で返事をして、明るく笑ってアフロディーテに手を振り、そのまま走り去っていった。アフロディーテも手を振り返す。奇しくもそうして遠ざかる彼の背中に、燦然と輝く明日を見た。
愚者の行進
いつから書いていたのかももうわかりませんが、時間をかけた割に大した話でもないという。なんてこった
ただここからみっつほど派生話ができたので、それはきちんと書いてみたい所存。
余談ですが、BGMはtacicaのセメルパルスでした。途中から完全に違う感じになりましたが…今更ながらこういう話に需要があるのかと思いつつ、考えたら終わりかなとも思いつつ