その日、貴鬼は白羊宮にひとりだった。宮の主であるムウは朝早くから任務へ赴いており、日の出ているうちには帰って来れなさそうとのことだった。
「留守番、頼みましたよ」
別に何ということもないのだが、少々冗談めかしてそう言って微笑んだムウに、貴鬼はいつもより元気な声で、はい!と返事をしたのであった。
ゴイセンパーティー in 白羊宮
ジャミール暮らしが長かったおかげで、貴鬼はひとりでも困ったことは一度もない。いつも日が昇り始めたくらいの時間帯にムウと共に起床し、朝食を作り、その後は掃除洗濯その他諸々。ムウがいても家事は大抵貴鬼が行っていたし、それも修行のうちだと云われ続けてきた。全て終えたときには既に日が高くなってしまっていることもしばしばあったが、苦に思ったことは一度もなかった。
今日も同じように、ムウを見送った後は掃除洗濯その他諸々、やらなければならないことを手早く済ませていると、いつの間にやら昼近くになっていた。そろそろ昼食を作ろうと思い、台所の電気を点けるスイッチを押した。が、何故か明るくならない。
あれ?と天井を見上げながら何度かパチパチと付けたり消したりしてみるが、全くの無反応である。どうやら電球が切れてしまったらしい。すぐに倉庫に予備があったことを思い出し、急いで持ち出してきた。
しかし此処で重大な問題が発生した。なんと、手が届かないのだ。棚の上段にある食器などを取るための台を使っても、貴鬼の身長では指先すら電球に触れることができない。かなり高い工事用脚立があるにはあるが、危ないからひとりで使ってはならないとムウから釘を刺されている。
どうしよう、と貴鬼は考えた。台所はあまり日が入らなくて薄暗く、明かりがなければ作業がし辛い。怪我をする可能性もあるし、そのままではあまり好ましくないに違いない。
仕方ない、ムウ様が帰ってきたら付け替えて貰おう、と貴鬼が諦めかけたその時、宮の入り口に人の気配が、ぬっ、と現れた。それにしっかり気付いた貴鬼は、少し驚きながらも慌てて台所から宮の入り口まで駆けていった。誰だろう、と思いながら顔をあげると、長い金髪と伏せられた目に出会った。
「ムウはいるかね」
貴鬼がしばらく呆けたように黙っていると、目の前の長身は見下ろすように顔を下げて、はっきりとした声でそう言った。その一言で我に返った貴鬼は、
「はい!今日は任務でムウ様はいません!」
と、元気な声で返事をした。
一瞬反応が遅れてしまったが、貴鬼はもちろんこの目の前の人物を知っている。黄金聖闘士のひとり、乙女座のシャカである。師を介して何度か顔を合わせているし、師とはそれなりに仲も良い。しかしこうして直接的、しかも一対一で話をするのは初めてであり、何よりも貴鬼は、師をはじめとし多くの聖闘士たちから『シャカとはあまり関わらないほうがいい』という旨の発言をよく聞くために、ほんのちょっと警戒したのだった。しかし同時に、貴鬼の中には子供らしい、未知なるものへの小さな好奇心も沸き起こっていた。
「ふむ、なんだ不在か。しかも入れ違いとはな」
「ムウ様に何か御用ですか?」
「いいや、」
シャカは目を閉じているから、表情の変化がよくわからない。しかしそれを何とか窺おうと、貴鬼は恐らく綺麗な部類に入るのであろう、シャカの顔をじっと見上げた。対象物を知るための第一歩は対象物をよく観察することだ、とムウがよく言っていたからである。
「私は今、任務帰りで空腹なのだよ」
またも一瞬、貴鬼はぽかんとした。
「仕方ない、アルデバランのところに行くか」
そのまま宮を突き抜けて立ち去ろうとするシャカの背中に、貴鬼は夢中で声をかけた。
「おいら、ごはんつくれるよ!」
ぴたり、とシャカの歩みが止まる。少し首を捻って振り返った。
「ほう」
「ちょうど作ろうと思ってたんだ!もし良かったら…」
口にしてから、電球のことを思い出して少し語尾が小さくなった。
「ふむ、子供に布施を強請るほど落ちぶれてはいないが…振る舞うというのなら食してやっても構わんぞ」
あくまで上から目線のシャカは、そこでようやく体ごと貴鬼を振り返った。しかし、困ったようにきょろきょろする貴鬼に…目は閉じられているから見えているわけではないと思うのだが…眉を寄せて不思議そうに首を傾げた。
「どうしたのかね」
「あ、うん…ごはんは作れるんだけど、台所の電気が点かないんだ」
「…?それは何か不都合なことなのかね」
シャカは生まれてこの方、台所に立ったことなど一度もない。勿論そんなこと貴鬼が知るはずもないが、まるで気にした風もなく当たり前のように、繰り出される常識外れな質問に答えていく。
「うん。危ないしやりづらいよ」
「ふむ。ならどうすればその問題は解決できるのかね」
「新しい電球に付け替えたら大丈夫」
「ふむ。なら今すぐそうしたまえ。私は寛大だから、そのくらいの時間なら待っていてやろう」
「あ、でもおいらじゃ手が届かないんだ」
「何?」
貴鬼はシャカの腕を引き、台所まで連れてきた。先ほどと同じように何度もスイッチをパチパチ鳴らし、点かないことを主張する。シャカはその間も目を閉じたままだった。見えてるのかなぁ、と貴鬼が少々不安に感じたとき、
「新しい電球とやらを寄越したまえ」
と、突然目の前に手を差し出してきた。
「付け替えてくれるの?」
「やり方さえわかれば私にもできないことはあるまい。幸い、君を悩ませた高さについては問題ないようだしな」
貴鬼は恐る恐るその手のひらに電球を置いた。シャカは足下の台を利用し、黙ったままの電球に顔を近付けた。そしてそれと自身が持たされたそれとを見比べ、ふむ、とか、なるほど、などとぶつぶつ独り言を言いはじめる。やがてぶら下がる電球に手をかけた。
しばらく、沈黙が流れる。
「…貴鬼といったか」
「はい!」
古い電球を掴んで固まったままの姿でシャカは口を開いた。
「これはどうやったら取れるのかね」
やはり常識外れな質問に、やはり貴鬼はまじめに答えた。
「左に回したら取れるよ」
「ふむ、回すのか」
おとなしくシャカは電球を左に捻り始める。しかし少し錆び付いていたらしいその結合部は、ぎぃぎぃと嫌な音をたててうまく回ろうとしない。が、特にいらいらした様子もなく、シャカは冷静にゆっくりと回し、やがて、ぽんっと音がしそうなほど小気味良くそれは外れた。
外れたそれを貴鬼に預け、次は手にした新しい電球をつけようと試みる。左に回したら外れたのだし、次は右に回せば繋がるだろうことは理解できていたらしい。しかしうまく嵌らないのか、何度も結合部を眺めてはつけたり外したりしている。
そんなこんなで随分な時間をかけたが、電球はしっかりとぶら下がり、貴鬼がスイッチを入れると、ぱぁ、と台所を照らし出した。
「やったぁ点いた!」
貴鬼が思わず飛び跳ねてはしゃぐ。足場から降りてきたシャカも満足そうに光る電球を眺めていた。
「さぁこれで君の邪魔をするものはなくなった。存分に昼食を振る舞いたまえ」
やはり上から目線のまま、如何にも誇らしげにシャカが言い放つ。
「うん!ありがとうシャカ!何が食べたい?」
しかしやはりというか、もういちいち突っ込むまでもなくそんなこと気にしていない貴鬼は、無邪気にそう尋ねた。
「何でも構わん。好きなものを作るといい」
勿論気遣いでも何でもなく、シャカの辞書には極端に料理の名前が少ないだけである。
貴鬼は炒飯を作った。何故炒飯かというと、丁度ご飯が炊けていたのと比較的時間がかからないからである。その間シャカはじっと黙って座っておとなしく待っていた。炒飯が出てきたときもいただきますすら言わず黙って口に運んだが、相当空腹だったらしく物凄い速さで平らげていた。
「ふむ。なかなか美味だったぞ。馳走になった」
食べ終えてからようやく貴鬼にそう告げる。やはり表情に変わりはないが、皿に米粒ひとつ残していないので言葉どおりと取っても問題はなさそうである。
「どういたしまして!」
褒められて勿論悪い気はしない。貴鬼は嬉しそうに笑って、うきうきしたまま皿の片付けを始めようと椅子を降りた。すると、シャカは流しに立つ貴鬼に向けてこんなことを言い出したのだ。
「折角だ。私も君に食事を振る舞おうではないか」
「え?」
「私は恩知らずな人間ではない。先ほどの炒飯のように腹を充分に満たすものではないかも知れんが、三時の菓子休憩には丁度よいものを提供してやろう」
「お菓子?」
「そうだ。有り難く思うがいい」
やはりというか、これまたもういちいちツッコミを入れるまでもなく、シャカは何故か上から目線である。しかしやはりというかこれまた以下略、貴鬼は『菓子』という二文字に目を輝かせた。仕方ない、いくら聖闘士候補であのムウの弟子とはいえ、彼はまだ子供なのである。
「いいの!?」
「ああ」
シャカはそこで初めて、口端を上げて笑むような表情をしてみせた。心なしか楽しそうである。空腹がなくなったおかげでちょっと機嫌がよくなっているだけかもしれないが、ともかく貴鬼も何だかますます嬉しくなってきて、今にも部屋中のものがポルターガイスト現象を起こしそうである。
「ならば行くか、貴鬼よ。しっかり私に付いてくるがいい」
「はい!」
シャカは白羊宮の教皇宮側の出口へと足を向ける。日は丁度、天頂を果たしたところであった。
全ては此処から始まってしまった…。
この奇妙な凸凹コンビが十二宮を巡ります。