季節は冬に近付いている。少し前までは生温くて鬱陶しかった風が冷気を帯びてきていた。上着を持ってくるべきだったとラダマンティスは今更に後悔をする。そして目の前を悠々と歩くカノンの背中をじろりと睨んだ。
何処から持ってきたのか、カノンの手には野球用のボールが握られていた。それを真上に投げては手の中に戻してを繰り返し、カノンは忌々しげにこちらを睨むラダマンティスを振り返る。
「やったことあるか?」
「…何をだ」
ラダマンティスはあからさまに機嫌悪く返事をした。というのも寝不足で非常に体調が悪く、部下達の計らいもあって仕事もそこそこに切り上げてきた。苛々する頭痛と戦いながらとにかく眠ろうと思っていたのに、何の前触れもなく部屋に侵入してきたカノンはそんなラダマンティスなどお構いなしに無理矢理外へと引っ張り出してきたのである。
普段ならばある程度歓迎するカノンの来訪なのだが、そういうことで今日は少し訳が違った。ラダマンティスははっきりと迷惑に感じた。連れ出されることを渋る理由も言い訳も聞こうとしなかったカノンに、はっきりと腹を立てていた。
連れ出された先の少し開けた原っぱに容赦なく風が吹き付ける。空も一面灰色の雲が覆っていた。にやにや笑っているカノンだけが高い温度を持ってそこに立っているようである。
「何って、わかるだろ」
案の定カノンは手の中のボールを、ラダマンティスに向かって投げつけてきた。大方予測はしていたので、突然の行動でも反応するのは容易い。軽く左手で受け止める。距離がかなり近かったために、カノンもそこまで力を入れていなかったようだ。衝撃すら体には響かなかった。
「やっぱり、わかってるんじゃないか」
おかしそうに笑うカノンの声が妙に耳につく。勿論、指摘通りラダマンティスはわかっていた。だがあまりにも機嫌が、引いても気分が悪く、素直に理解してやる気になれなかっただけだ。
受け止めたボールをもう一度カノンへと投げ返す。
「で、あるのか?ないのか?」
「…ある」
「そうか、俺はこれが初めてだ」
両手で掴み取るようにボールを受け取ったカノンを改めてラダマンティスは見つめた。そういえばカノンもそれなりに薄着である。数週間前に寒いのは嫌いだとしつこく主張していたことを思い出す。
「なぁ、投げ方教えろよ」
「…投げ方…」
「どうやったらあれだけ遠くの場所に、あれだけ正確に投げられるんだ?」
テレビの野球中継でも見てきたのだろうか。あれは練習したからだ、と答えてやるべきだと思った。例えカノンが聖闘士で、ほんの少しコツさえ掴めば容易くできてしまうであろう可能性があったとしても、そう答えてやるべきなのだ、とラダマンティスは痛む頭で考えていた。投げやりな気持ちが半分、このまま付き合わされることを何としても避けたい気持ちも半分だ。
「…練習を」
「ん?」
「……それよりお前、寒くないのか…」
下手なタイミングで風が吹き付けてきてラダマンティスは思わず身を竦めた。そんなラダマンティスの様子を楽しそうに眺めて笑って、カノンは再びボールを真上に投げては戻してを始める。
「ああ、確かにちょっと寒いな」
「…だったら」
「部屋に戻ると?」
「キャッチボールならまた今度付き合ってやる。から、今日は帰れ」
体調が悪いことを伝えて理由にするのは何となく御免だった。それなら薄情者に思われた方がマシだと何故か思っていた。
「今度か、いつになるというんだ?その時には大して興味もなくなっていそうだな、こいつには」
「そうだ、そもそもどうしていきなりキャッチボールなどと」
そしてそもそもそのボールは何処から発掘されたものなのかと。遠目から見ても古びて茶色いそれは、先程受け取ったときにはっきりとわかったが既に表面は凸凹で、投げるには適していないような状況になっていた。キャッチボールが目的というより、偶然ボールを見つけて使ってみたくなったという印象を受ける。
そんなものに付き合わされたくない、と、ラダマンティスはこれもはっきり思っていた。だのにカノンは少し首を捻って、
「してはいかんのか」
とか、白々しく尋ねてくる。ラダマンティスは盛大に顔をしかめた。そろそろ平静を装うのが難しい。こんなやり取りの間中もずっと、響く頭痛はラダマンティスから余裕を奪っていくようだった。
「何故おれが相手をせねばならん」
「嫌だったか」
「寒くて不愉快だ」
「ついでに頭も痛いか?」
「…よくわかったな」
ばれていた。驚きと僅かな悔しさがせり上がる。意地を張る理由もないので、ラダマンティスは苦々しくもそれを認めた。
「見てればわかる。頭が痛いと無意識に目線が下がるからな」
わざとらしくカノンが自身の右側頭部を押さえたのを見て、ようやくカノンが偏頭痛持ちだったということを思い出す。
「わかっているなら休ませてくれ」
疲れた声でそう願い出たというのに。
カノンは突然、ラダマンティスに向けてボールを投げつけてきた。今度はさっきよりも少し距離が離れているところから、かなり力を込めて投げられた。不意打ちを喰らって舌打ちをしながらも何とかそれを受け止める。が、グローブもない腕に聖闘士の力は負荷が強く、腕を強い痺れが駆け巡った。
「〜カノンッ!!」
とうとうラダマンティスは怒鳴り声をあげた。自分の声が響いて頭痛が一際大きく存在感を示してくるが、そんなこともいってられない。
「いい加減にしろ!」
視界に映るカノンの表情が明るいのも癪に障るのだ。冷たい風景の中で唯一温かみを持つもの。
「どうだ、そろそろ愛想を尽かしたか?」
「尽かされたいのかお前は…!」
「いや?」
普段ならば、もう少しカノンの言動に注意を払い、冷静にその意図を分析できたかもしれない。だが今のラダマンティスには既にそんな余裕は微塵もなく、わけのわからなさに苛立つばかりだった。
歪なボールをその場に投げ捨てるようにして放り、帰る、と言い切って背を向ける。ボールが地面を打つ音がした。が、それ以上に何の音も聞こえず、ラダマンティスは立ち止まった。冷たい風が吹き付ける音すら耳には無い。振り返れば、カノンは転がったボールを身を屈めて拾い上げ、片手で弄びながらこちらを見ていた。何だ、帰らないのかと目が尋ねている。
「初めからそうやって、声を張り上げて断れば良かったのだ」
カノンは笑っていた。決してラダマンティスへの嘲りの笑いではない。それが尤もだろうというような、僅かに覗いた本音である気がした。
そうして欲しかったのだろうか。
突き放して欲しかったのだろうか。
…いや、何かを期待していたのだろうか。
痛む頭では結論など出なかったが、くだらない、と強く思った。それではまるで、小さな子供のようだ。
「馬鹿馬鹿しい」
「うん?」
「お前が何と思おうとおれには何も関係がない」
距離など何も考慮せず、ラダマンティスは右手をカノンに差し出すように向けた。
「帰るぞ」
カノンがあまりにも不思議そうに首を傾げるから、咎めるようにもう一度急かす。
「早くしろ」
「帰るんだろう?」
「ああ、だから帰るぞ」
「ゆっくり休みたいんじゃなかったのか」
「何度も云わせるな。担がれて帰りたいのかお前は」
「…御免被ろう」
喉の奥で笑いを噛み殺しながらも、おとなしくその場から動いたカノンは、改めて感じた空気の冷たさに小さく息を吐いた。確かに寒いな、と先程ラダマンティスにした返事と同じことを口にする。カノンの歩みはわざとなのか非常に鈍く、見るものなど特に無いであろうに余所見ばかりしていて、その様子を見ていると急に心配になってきた。頭痛は引かないが、一度怒鳴った分だけの冷静さは取り戻しているようである。
「…そういえば、そのボールは何処から引っ張り出してきたんだ」
表情がよく見えるぐらいの距離になるまでその場でカノンを待ち、ラダマンティスは徐に切り出す。
「今更だな」
「…確かにそうだが」
「別に、町でガキ共の相手をしてやったときに拾った落とし物だ。地面に半分埋もれていたから、見つけられずに捨てられたんだろう、きっと」
「それでキャッチボールか」
「それ以外に用途が思い付かんかった」
「やったこともないのに?」
「ああ」
ラダマンティスは盛大に溜め息を吐いてやった。冷静になったといえども完全に苛立ちが無くなったわけではない。が、カノンが少し目を細めて再び、
「今度こそ尽かしたか?」
とか尋ねてくるものだから。
黙れ、と一言で切り捨てて、その頭をぐりぐりと俯きに押さえつけてやった。
「あいだだだだ、おい折れる折れる」
「大丈夫だ。そう簡単にいってたまるか」
「それは俺の台詞だ」
どうやら、首から背中にかけてにかなりの負担がかかっているらしい。結構本気で痛そうにカノンが抗議してきた。勿論そんなことわかりきっている。寒さと頭痛が引かないことの、ただの八つ当たり行為だった。
少し低い位置に移動したその頭に、よく跳ねる青い髪が鬱陶しく肌に当たるまで顔を近付ける。
「…尽かしたりせんから、くだらんことを云うな」
聞き落とされてしまわないように、できるだけ耳元に寄せて告げる。ほんの一瞬、呼吸が止まったかのようにカノンの纏う空気が静かになったが、それもすぐに解かれてわかったから離せという抗議に変わる。頭を圧迫から解放したのと、二人して寒さに身を震わせたのはほぼ同時だった。
さっさと部屋に戻ろうと口にするまでもなく二人で歩き始める。いつものように左手を掴むことはしなかった。いつもと違ってカノンがラダマンティスの後ろを歩いていたということもある。が、思っていたよりもラダマンティスの手は冷え切っていて、印象として捉えていたよりもカノンの体温は高くもなくて、そのことに何だか少し、ほんの少し、落胆したからである。
泥の乾いた後で
単なる思い付きです。多分、私がラダカノがかきたくてしゃーないだけです。もやもや