比較的穏やかな様子の小宇宙が、ここ、双魚宮に近付いてきていることはすぐにわかった。へぇ、珍しい客だな。デスマスクが茶を啜りながらそう云うとアフロディーテはあからさまに嫌な顔をして、がたん、と席を立つ。

「おい蟹、挨拶に来たと云っても私はいないと言え」
「何でてめぇの宮なのに俺が対応するんだよ」
「休憩時間に自宮まで戻るのが面倒だから此処で茶を飲ませろといったのは何処の蟹だ。いいからやれ」


取り付く島もない、と云うようにアフロディーテはすたすたと奥の部屋に入ってしまった。ガキかあいつは、と思わず悪態を吐くが、特に気にすることもなく再び茶を啜る。控えめに扉を叩く音が聞こえた。

「開いてるぜ、勝手に入れよ」

戸惑ったのだろう。ほんの僅かな躊躇いの間を置いた後、ゆっくりと扉が開いた。建て付けが悪いわけでもないのに蝶番がぎぎぎと悲鳴をあげる。外の空気をあまり中に入れないようにだろうか、半分と少しだけ開いた扉から鮮やかな緑が覗いた。
「お邪魔します」



非常に落ち着いた声色に綺麗な角度のお辞儀を以て、大変礼儀正しく挨拶をされる。全く、迎える気は疎か居留守を咬まそうとするこの宮の主とは大違いだ。


「ようアンドロメダ。魚に何か用か?」
「いえ、特別なことは。教皇宮に行くついでに、十二宮の黄金聖闘士全員に挨拶していこうと思いまして」
「へぇ、律儀だねぇ」
嫌味ではない。このやり取りを交わす間も、アンドロメダ、もとい瞬は、扉は静かに閉めたものの入り口のところにたったままである。その殊勝な態度にデスマスクは素直に感心した。感心したから茶でも振る舞ってやるかと中へ入るよう促した。瞬は部屋をきょろきょろと見渡して、いいんですか、と少し困った顔をしたが、気にすんなと適当な返事を返して勝手に棚からカップをひとつ引っ張り出してくる。どうせ宮の主は“いない”ことになっているのだし構わないだろう。



入り口でもう一度頭を下げて、瞬はようやく中へと足を踏み入れた。



「巨蟹宮に居ないと思ったら此処に居たんですね。こんにちはデスマスク」
「どうも」
「アフロディーテと仲良いんですか?」
「まさか、吐き気がするようなこと云うなよ」

デスマスクは大袈裟に肩を竦めた。シュラも含めた自分達三人を友人とか呼んだら世の友人様方に大変申し訳ない。いやむしろ友人のハードルを著しく下げて、全世界の人間が友人だと云えるような事態を招くだろう。強いて言うならば自分達は腐れ縁だ、腐れ縁。

…とか、瞬にいちいち説明したところで逆に誤解を招くだけな予感がするのでそれは噤んでおく。

「砂糖とミルクは?」
「あ、置いて頂ければ自分で」
「ん」
小綺麗な瓶に入れられた砂糖とミルクをカップと共に差し出す。失礼します、と一言断りをいれて、瞬は真っ直ぐ砂糖の瓶とスプーンに手を伸ばした。すくい上げられカップの中に吸い込まれていく甘く白い粉の量に、デスマスクは思わず、げっ、となった。尋常じゃない量だ。その時改めてそういえばまだ13の少年だったのだなとデスマスクは思った。



「女神のお使いか?」
「ええまぁ、そんなところです」
砂糖を大量に吸い込んだ液体に、次は並々とミルクが注がれる。みるみるうちに茶色く透き通っていた液体は濁り、底の見えない色へと変貌を遂げた。
「沙織さんが、最近聖域に戻る時間が取れないからよろしくお願いしますって。いつもはギリシャにちょっとでも用がある人が行くんですけど、みんな都合が合わなかったから僕が来たんです。丁度空いてましたし、しばらく来ていなかったので久し振りにと思って」
「へぇ」
「聖域は、何か変わったことありましたか」
「別に、蠍と獅子が喧嘩して騒動なったり、サガとお騒がせ半裸人馬がちっちゃい諍いこじらせて騒動なったり。いつも通りすぎて何にも面白いことなんてないぜ?」
瞬はにこりと微笑んだ。
「聖域はいつも賑やかですね」
「俺としては平穏な方が嬉しいけどねぇ」


暇の潰し方なら幾つも知っている。適度に忙しく適度に退屈なぐらいで上々だとデスマスクは思っていた。面倒事はできれば避けて通りたい気分だし、自分が何かの厄介になるのも御免だ。心に波風立てず身は常に健康に。なーんて。
まぁそれは、既に心身ともすっかりデカくなってしまったオトナの言い分に過ぎないわけだが。よく云えば謙虚、悪く云えば怠惰。どちらかと云えば後者だろう。
カップの中身をスプーンでかき混ぜている瞬は変わらず微笑んだままだ。その表情を眺めながら、13の幼い少年はこんなオトナの言い分をどう捉えるだろうか、とぼんやり考えた。





「僕も、平和が一番だと思います」

唐突な発声に思われた、先程のデスマスクの呟きの返事だと気付くまでに暫く掛かる。

「傷ついたり傷つけたりするのは、やっぱりどんなに正当な理由があっても辛くて、悲しいことだと思うんです」

少し声のトーンは抑えながらも、淀みなく、迷いなく述べられた言葉にデスマスクは何も言わなかった。そうかいそうかい立派なことだねぇ、と茶化すこともできただろうが、そうしない方がいい、そうするべきではないと、はっきり口を噤むよう促していた。

「…そういって、自分が傷つけてきたことから、目を背けたいわけではないんですけど…」
「いや、わかってるから気遣わなくていいぜ」
本当に見上げた子供だ。デスマスクは思わず苦笑った。
「だから、此処にも来たんだろ?」



一瞬、驚いた顔をしたが、すぐにそれは明るいものへと変えられる。そして苦笑うデスマスクに、はい、と、瞬は優しげに返事をした。
「だから、アフロディーテにもそのように」






























「…だってよ、魚」
丁寧に礼を述べ、教皇宮への階段を上っていく瞬を見送り、閉まったままの部屋の扉に向かってけらけらと揶揄うような声をかける。扉の向こうの気配が揺らめくのを感じた。機嫌を損ねたに違いない。デスマスクはわざとらしく声をあげて笑ってやった。
「……喧しいぞ蟹」
「ガキは素直でいいねぇ。殊勝で何よりじゃねえか」
蹴飛ばしたように勢いよく扉が開く。しかめ面でずかずかと歩いてきて、どかりと椅子に座り、偉そうに腕を組んだ。
「私はガキが嫌いなんだ」
何を言い訳しても負けた気分がする。どれだけ嫌がっても、浮かび上がってきた自分の姿を見ないわけにはいかなくなる。
机の上にひとつ残された空のカップを、忌々しげにアフロディーテは見た。
「俺は結構好きだぜ?」
得られるモンも多いだろ、とは、皮肉のようだが。



ふと思いついて、アフロディーテのカップの中に砂糖の塊を落としてやった。机の下で思い切り爪先を踏んづけられたが、案外甘い茶も美味いものである。なんてったって昔はそれを嬉々として飲んでいたには違いないのだから…といったところで、デスマスクももう甘い茶など飲めなかったりするのだが。それはそれ、これはこれと云うことで。









あおときらめき
ver.瞬



瞬と、蟹と魚。
大人になっても瞬ってあんまり中身変わらないんじゃないかなー、とかきながら考えてました。瞬すきです。実は、原作☆矢で一番はじめに好きだったのは瞬でした。