休みを取ったんだが、とは8月頭の話。いつも通り来客用のソファーを我が物顔で占領していたカノンは、それを聞いて目を丸くさせた。
「休み?お前が?何日?」
「五日間だ」
そりゃ凄い。カノンはソファーに寝転がったまま、机の上の菓子に手を伸ばす。案の定届かなかったそれを、さり気なくラダマンティスが指で寄せてやった。
「何処か行きたいところはないか」
コーヒーを啜りながらさも当然そうに尋ねてくるので、菓子をばりばりと噛み砕き、うーん、と思案する。
「やっと取れたんならゆっくり休めばいいだろうに」
「たまには何処かへ行くのも悪くはないと思ってな。それとも嫌か」
「別に」
ただカノンとしては、適当に此処に来て茶を貰って菓子をつまんで寝て話をして、とそんなぐだぐだなことを繰り返しているだけで充分だった。聖域や海界では決して流れない時間が此処には流れている。どれがいいとか悪いとかそういう事ではなく、常に一所に留まっていられないカノンの性格所以の楽しみである。
「じゃあ、あれだ。水族館」
「…水族館?」
意表をつかれた。
「…海界で魚なんか幾らでも見れる気がするが…」
「いいだろ。行きたいとこ言えっつったじゃねえか。連れてけ」
わかった、と短く返事をする。カノンは笑って茶を飲み干した。
「お前、水族館行ったことある?」
特に視線の置き場がなく、列車内を適当に見回しているとカノンが尋ねてきた。ラダマンティスは視線を向かい側の席へと持ってくる。カノンは目まぐるしく変わる外の景色を眺めたまま、此方を向く気配はない。
「いや、ない」
「そうか。俺もない」
そういえばカノンは、普通に会話をしているときも人の目を見て話すのが苦手だ。引き換えラダマンティスは、仕事柄か性分か、会話中に人の目を探る癖がある。
「一度行ってみたかったんだ」
「…お前のことだから、行きたい場所があったら直ぐに行くものかと思っていたが」
「一人で行くようなものでもないだろう」
「聖域の連中とは?」
カノンは目だけを動かしラダマンティスの方を見た。唇が小さく笑っている。海界の奴らは論外だよな、水族館とか、口にもできん。からかうような声でそう言った。細められた目が訴えるところを何となく察して、ラダマンティスは口を閉じる。再び視線を逸らすと、列車内を楽しそうに駆け回る子供の姿が映った。列車が大きく揺れる。山間部に入ったらしい。
人はそこそこ、といったところだろうか。丁度いい感じだな、と言ったカノンに同感である。
多すぎるとゆっくり見ることができないし、少なすぎるとそれはそれでかなり気まずい。ましてやそろそろ良い歳した大の男が二人だ。笑えないし、上手い言い訳も思い付かない。
カノンは入り口で受け取った館内パンフレットも碌に読まず、ふらふらと適当に歩き始めた。その後ろにつきながらラダマンティスは館内地図を片手に持つ。カノンが特に何も考えずに向かう先を大雑把に把握するためである。地図の左上方には何やら催しの時間帯が丁寧に記されていたが、カノンはどれにも興味がなさそうだった。どう見ても脇役の、小さい水槽ばかりを熱心に眺めていた。
「ラダマンティス」
周りの観光客らしき人々の楽しそうな笑い声の中から、自分の名を呼ぶカノンの低い声を確かに聞き出し、なんだ、と返事をする。
「楽しいか?お前」
いきなり何を聞くのやら。そう思いつつ確かに、自分は今楽しいのだろうかと自問すると、答えが出なくて少し困った。険しい表情をして言葉を詰まらせたラダマンティスに、カノンも困ったように苦笑いした。
「だったらカメラマンになってみるか?」
「カメラマン?」
「ほれ」
カノンは首から肩にさげていた黒いカメラを取り、ラダマンティスの首に引っ掛けた。
「誰か代わりに撮ってくれたらいいのにと思っていたところだったんだ。丁度いい」
レンズ部の蓋を取って鞄に突っ込む。最近はデジカメとかいう小さくて持ち運びも楽でフィルムも要らない便利なカメラもあるが、これは従来のフィルム式で随分と重たかった。
「目新しい場所に行ったらとりあえず撮ることにしていてな」
「…何を、撮ればいい」
流石にカメラを使ったことぐらいはあるが、ラダマンティスにはこれの需要が何処に存在するのかが全くわからなかった。しかもこれはカノンのものである。フィルムもカメラ自体もカノンのものなのである。
「そうだな、お前の好きなものを撮ってみろ」
しかしカノンはそんな事を意にもせず、そういって笑うだけだった。
「参考までに、普段お前が何を撮るのか教えてくれ」
苦し紛れにそう切り出した。辺りを見渡しながら、カノンは考える素振りをする。
「場所によるが、建物とか風景とか、空とか海とか人とか。気に入ったものを片っ端から」
「…何で撮るんだ?」
「あんまり長くその前に止まって考えてる暇がない。どんなに印象深くてもどうせすぐに忘れるだろう。勿体無いから手元に残す。それだけだ」
改めてラダマンティスは首からさがったカメラを手にしてみる。黒いフォルムには所々傷が入っていたが、物の扱いが基本的に雑なカノンのものにしては大事にされている方だろう。
「まぁそんなに堅苦しくなるなよ。写真なんて気張って撮るもんじゃない。いいから好きなものを撮れ。フィルムも気にしなくていい」
しばらく館内を歩き回ると、薄暗く部屋全体が青っぽい場所に出た。壁の大部分を大きな水槽ガラスが覆っている。
そこにへばりつく小さな子供達は、優雅に泳ぐイルカを指差して喜んでいるようであった。わいわいと盛り上がる子供達に付き添う大人達も、備え付けのベンチに座り静かにイルカに喜んでいる。
改めてパンフレットを見ると、どうやらイルカは目玉らしい。人気があると云うことだが、ラダマンティスにはいまいちあれの魅力がわからない。
「でかい水槽」
隣でカノンが呟くのが聞こえた。
「…あれは好きか」
「嫌いじゃない。だがあんな風に水槽の中を泳いでいるのを見るのはあまり好かん」
何処からともなくシャッター音がした。ガラスから離れたところで一人の男がカメラを構えているのが見える。
「回遊生物だろう、イルカは」
そう言うとカノンはさっさと歩き始めた。
その先しばらくは大きな水槽続きだった。だからといってそれに見合う大きな魚ばかりが入れられているわけではない。足下にかかれた鑑賞順路の矢印を辿ると、青い光の溢れるトンネルに着いた。
天井から真隣の壁まで、全てガラス張りの水槽だ。
「…海の中にいるみたいだな」
「そういう趣旨なのだろう」
「色んなことを思い付くもんだ」
皮肉そうに口にしたが、肩を竦めてカノンは少しだけ嬉しそうな顔をした。自然とラダマンティスもほっとしたように頬を緩める。そこで初めて、此処に来てからずっと険しい表情のままだったことに気付いた。
やはりカノンは先々と歩いて行く。その後ろを遅れて歩くのが常となってしまったが、大したことではない。隣にいては上手く様子も表情も計れないのだから、むしろ後ろに居た方が都合がいい。
トンネルをゆっくり通り抜けようとするカノンを追い、青の世界に足を踏み入れようとしてぴたりと止まる。顔を真正面に向けて視界に入る光景を前に、ラダマンティスはふと思い付いた。
首からさげられたカメラを両手でしっかり持ち上げ、それが綺麗に収まるようにピントを合わせる。が、レンズの中心に持ってきたいものが前方に動いて上手く収まらない。
「カノン」
ラダマンティスは無意識に名前を呼んだ。
「ん?」
くるり、とカノンが振り返る。その瞬間、ラダマンティスの指は自然と降りてシャッターを切った。
「……」
「………」
「…………………」
カメラから顔を離し、ラダマンティスはカノンを見る。随分と呆けた顔をしていた。その時周囲に人がいなかったのが幸いだろう。開いた口すら塞がらないカノンはそのまましばらく動かなかった。
やがて後ろから人がやってくるのを察し、ラダマンティスはカノンの方へと歩み寄った。そのまま力の抜けているカノンの右手を自身の左手で取り、少し引っ張ってやる。ようやく我に返ったカノンは、すぐさまラダマンティスの手を払い飛ばし距離を置いた。慌てて表情を取り繕おうとしているのがわかったが上手くいっていない。そして手持ち無沙汰になったように宙に浮いたラダマンティスの左手を見て、カノンは小さく吹き出した。
「ちくしょう、俺としたことがお前に騙されるなんてな」
心底悔しそうにそう言われたが、ラダマンティスとしては騙したつもりなど全くない。勝手に名前を呼んでいた。勝手に指が降りていた。たったそれだけのことである。
カノンはまたもラダマンティスに背を向けて歩き出した。黙ってその後を追う。青の世界を脱出すると、明るい日の光が差し込んできた。
館内を一巡りし終わり、休憩所のベンチに並んで座った。売店で買ったコーヒーの蓋を開ける。仕事中によく飲むからだろうか、平時でもラダマンティスは無意識にコーヒーを選ぶ癖があった。カノンは隣でスポーツ飲料のようなものをぐびぐび飲んでいる。
「どうだった」
思い切り飲み干した後、カノンが尋ねた。
「水族館がか」
「それ以外に何がある」
「…ならこっちが聞きたい。行きたいと言ったのはお前の方だからな」
舌打ちの音が聞こえた。あまり聞かれたくなかったようだが、連れてきたラダマンティスにとっては重要な事柄である。
「思ってたよりも楽しかった」
少し投げやりな言い方だった。
「…ただ、退屈そうだな。ここの奴らは」
首をやや下に傾けて、やはり目を合わせずに話すカノンに対し、ラダマンティスはカノンから目を逸らさなかった。
「そうだ。折角の休みを一日使わせたんだから、俺もお前に何かしてやろう。欲しいものでもいいぞ、言ってみろ」
突然声色を快活にさせて、カノンは珍しくラダマンティスの目を見た。しょうもない悪戯を思い付いたようににやにやしている。ラダマンティスは顎に手を当てて、考える振りをした。
「そうだな、なら…」
ずい、と目の前に右手を差し出す。意図が汲めなかったか、カノンは僅かに首を傾げた。
「部屋に帰り着くまで、手を握らせてくれ」
さっき払われたからな、と余計につけて。
大の男二人が手を繋いで帰る図は、薄らどころかかなり寒い光景ではあるが。
「…それだけか?欲の無い奴」
「それはお前もだ。良い機会だと利用することもできただろうに」
行きたい所は、水族館。
「俺はいいんだよ。楽しかったから」
渋々、カノンは自身の左手をラダマンティスの右手の上に置いた。その手を下からしっかりと握り締める。
「そうだ、カメラからフィルム抜いておけよ。それ一本はお前のもんだ」
あれから幾つかシャッターを切った。最後は派手な音を立てて使い切った。
「ああ」
列車が揺れる。目を閉じると、今日で散々目に焼き付いた青が瞼の裏に見えた。その中を泳ぐ生き物。密やかに緩やかに、そっとラダマンティスの先を行く。
あれは回遊魚か。8月の海は何処だろうか。背を追うばかりも悪くはないが、今は手を握っているから共に青の世界を行かせてくれ。
そう、きっとあの箱の中では息苦しいに違いない。
青い箱にて、逢瀬
長いのかこうとは思っていたけど、これは想定外すぎました。しかも主題があっちこっちに飛んでしまって収拾するのが大変なことに。どちらかというと実験的な話でした。書いてる本人だけが楽しいという、典型的な駄目例です(笑)。
そしてまたもこの為だけに『水族館』『回遊魚』『イルカ』などなどウィキさんで調べ回りました。水族館のイルカって、環境に馴染めなかったら五年程で亡くなってしまうそうですね。ううーん、複雑…。