割れたガラス瓶の行方が気になった。落とされて、床に散らばって、直ぐにまとめられてどこかへ持っていかれてしまったその欠片が、部屋の隅にひとつだけ残っていたのだ。だからどうやってもきっと、二度と元には戻らないんだろうなぁと、思って、心を濁した。
戸棚の奥で眠っていただけのそれ。特にお気に入りでもなんでもなくって、多分誰かが何かの時に自分に譲ってくれたものだったような気がする。切欠すら思い出せないなら、壊れたってどこかへ行ってしまったって関係ないものの筈なのに、棚の定位置からすっかり居なくなってしまったというだけで悲しいと思うことが、ひどく滑稽だった。
本当は、何も悲しんでなどいないのではないでしょうか、と。
夕べ新しいレシピを思いついて、朝から店の厨房を借りていたらフェーリが表の店に来ていた。店主に呼ばれて顔を出すと、此方を見て彼女は少し照れた様子を見せながら、必要な魔道具があるから見に来たのだと、先輩がいらっしゃるなんて知りませんでしたと慌てて教えてくれた。相も変わらず律儀で可愛い後輩だった。特に他の客人の予定もなかったので、中に招いて作っていた菓子の試作第一号を振舞うと、これははじめて食べるものですねときちんとわかってくれて、それも素直に嬉しかった。
「また、少しだけ物がふえましたか」
厨房を片付けている間に、書斎の方を見ていたらしい。フェーリが戸棚を眺めながら尋ねてきた。確かに、以前此処に彼女を通したときよりは増えたかもしれない。魔導師としての活動は多岐に渡るが、正式に依頼を受けたわけではない事の報酬などはこういう形で礼をされることがままあったし、単純に、少し前に迎えた自身の誕生日の祝いとして受け取ったものもあった。それらの殆どが、此処に収められている。
「先輩、たまにはことわることも大切ですワ」
「あはは。一応毎回、お気持ちだけで十分ですとは言ってるんだよ」
「そうじゃなくって……」
受け取ってしまったら、それは先輩のものになってしまいます。
優しいフェーリが選んで渡してくれた言葉を聞きながら、確かに、もうこの棚に並んだすべては自分のものなのだなぁと実感した。しかしその傍らで、せっかく自分のものにしてくれたのに手に馴染みきらないままそこで眠らせたままにしていることを、大層申し訳なくも思っていた。
後日、フェーリから綺麗なパフェグラスを貰った。高価なものではないと本人も言っていたが、それでも十分な質と意匠を拵えた立派なものだった。ちゃんと使ってくださいと言われてしまって、困ったように笑う。棚の中の空いた場所をそれで埋めようとしていたのがばれてしまったのかもしれなかった。
クルークが本を借りに来たのは何時の事だったろうか。幾つかまだ返されていないものがある中で更に借りて行ったりもするから、一応はちゃんと読み切ったのかとか借りたものはちゃんと返すようにとか、指摘はしている。そのたびに慌てて彼は謝ってくるけれども、本当のところはそんなに気にしているわけでもなかった。好きなだけ読めばいいし、そのまま返すのが面倒になったならそれはそれで、また自分が必要になったときには自分で取りにいけばいいかなどと。アコール先生に知られてしまったらどっちもお咎めを食らいそうだ。それはちょっと御免被りたいから、催促だけはしておくことにしているだけ。
そう言えば、クルークはあまりお菓子を食べていかない。甘いものが嫌いなわけではないらしいけれども、そろそろお年頃というやつなのだろうか。でもこの間来たときは、ショコラケーキを一切れ食べていってくれた。採りたてのイチゴを使ったパフェの方は全力で遠慮されてしまったので、そっちは自分で食べた。後で気付いたが、もしかしたら生クリームの量が問題だったのかもしれない。
レムレスは博識ですね、本をたくさん読んでいるんですかと、彼がはじめて云ってきたときのことを思い出す。そうだね、昔はわりと読んでたよと答えると、じゃあ貴方が読んでいる本を僕にも読ませてくださいときた。別に大した本は持ってないんだけどなぁと言い訳をしながらも、書斎にあるものは特に制限を設けず自由に持って行かせている。実際に、今はあまり読む時間もなくて眠気が来る前のお供にしている程度だ。別に嫌いになったわけではなく、それ以上に自分の足でつかんでくる知識の方がずっと魅力的だということに気付いてしまった。
自分のもので溢れ返っているはずのこの部屋も、結局は借りものに過ぎないのだということを知るにはどうしたって外に出る必要があったのと同じで。
知識は、いつだって得るだけでは価値がない。
「ご、ご、ご、ごめんなさいアコール先生!」
アミティの必死に謝る声が聞こえてくるのと同時に、壊れた教室の窓を確認した。リデルが説明するには、どうにも勝負に白熱したアミティとラフィーナのふたりが窓に思い切り技をぶつけてしまったらしい。自分が此処にやってくるまでには既に大体の後処理が終わっていたが、壊れた窓だけは明日までそのまんまかもしれないとも教えてくれた。
「部品が壊れちゃったらしくて、今日はなおせないみたいなんです」
アミティとラフィーナは、罰としてしばらく放課後掃除を命じられていたようだった。異存はなかったようなので、ふたりとも反省はしているのだろう。シグとリデルも手伝っていたが、どうやら見ていたのに止めなかった責任として自主的に参加することに決めたらしい。
「そんなに簡単に壊れるなんておもわなかったんですもの」
箒を片手で手持無沙汰にしながらラフィーナは口を尖らせていた。
「力加減はむずかしいかい?」
「あ、……あれはアミティさんもわるかったですわよ!おかしなタイミングで技を放つから!」
「だ、だって当たったら痛いもん〜〜!だから咄嗟にやっちゃったっていうかその、その〜」
「あららなるほど。増幅したのが軌道を外してぶつかっちゃったんだね」
いつでも、予想外のことというのは起きるものだから仕方がないと言えば仕方がないのかもしれないし、不注意だったと言えばそうなのかもしれないし。
「でもしばらくはふたりとも、反省するんだよ?」
まだ当たったのが窓で良かったねと、宥めるように言った言葉にふたりとも眉根を寄せて頷く。素直なところが大変好ましかった。その日だけは、自分も彼らの掃除を手伝ってから魔導学校をあとにした。
すっかり日が傾いていたから、空でも飛んで街まで戻ろうかと思ったところ、同じく空を飛んで街まで行こうとしている人物に出会った。そういえば、書斎を設けてもらっているあの店と彼女の店はわりと近い位置にあるので、一緒に帰りますかなんて提案してみたのだけども、ひどく不審な目で見られてしまった。
「このウィッチさんを口説く文句としては落第点ですわよ、アヤシイお方」
「うーん、手厳しいなぁ」
「そう思うならまずその胡散臭い態度をどうにかなさってはいかが?」
なかなかどうしてはっきりモノを云う人だ。でも一緒に空へ浮かび上がってそのまま道中一緒になっても特に気にはしないらしい。むしろよく話しかけてきた。もしかしたらちょっとさびしがりやさんなのかもしれない。
「あなた、この辺りの植物や鉱物にはお詳しかったりします?」
「うん?まぁ、そこそこかな?」
「なら今度ちょっとお付き合いなさいませ。こっちに来てから博物誌も買ったんですけども、本開きながらなんてやっぱりメンドウですのよ。だったら知ってる方に案内してもらった方が早いかと思いまして」
そういえば、魔法薬を作って売り物にしている店だっただろうか、彼女の店は。商売以上に趣味が混じっているようだが、趣味と兼用できるならそれはそれで素敵なことかもしれない。僕も将来は魔導師やりながらお菓子を売ろうかなぁなんて考えて、ああでも、お菓子は本当に趣味だから、おかねを取ったりはできないなと改めて思い直す。
「僕で良ければ案内するよ」
「ではまた後日。よろしくお願いしますわ」
街の入り口で箒を下りると、黄色い生物が足下に駆け寄ってぐぐーと鳴いた。先に降りたっていた魔女さんが何度か驚いたように瞬きをして、あらカーバンクルではありませんこと、と一言、そのままその生物に目線を合わせるようにその場で屈みこんだ。
「アルルさんはどういたしましたの?」
質問には、ぐー、ぐー、という声が返るだけ。此方を振り返って彼女が肩を竦めてみせた。何を云っているのかさっぱりなのだろう。それは自分もなのだが。
けれどもそんなことはお構いなしに、黄色い生物、もといカーバンクルはてとてと彼にしては急ぎ足で街の中央へと駆けていってしまった。街の入り口に残されて互いに顔を見合わせながら、とりあえずその後を追った。追った先は広場の噴水で、カーバンクルが駆けて行った先には、ベンチで眠るアルルが居た。
「……あらまぁ」
隣の魔女さんがそう洩らしたのも無理はない。既に周囲は人もまばらになっているとはいえ、いつから此処で横になっていたのだろうか。さすがに年ごろの女の子が夜までその状態のままというのは、ちょっと。彼女は確か、自分と同じように街の何処かに部屋を借りていた筈だが、生憎と場所までは自分も知らない。魔女さんに訊いてみたが、彼女も知らないという。
「興味持ったことありませんもの、アルルさんの部屋になんて」
かといって自分の部屋に運ぶのは流石にマズい。あらぬ誤解を招きそうだ。だったら君の部屋なら、と魔女さんに提案してみるも、渋い顔をされた。プライベートルームにまで人を連れ込むのはどうやらお気に召さないらしい。
「友達でもダメかい?」
「わたくし、アルルさんとお友達になった覚えはありませんわよ」
苦笑いするしかない。
「でも、まぁ、仕方がありませんわね。一晩だけなら許してあげましょうか」
その一言に此方が胸を撫で下ろすと、何をほっとしてますのよ貴方が運んでくださいましなんて睨みつけられてしまった。確かに、この状況なら自分が運ぶのが筋なのだろうけれども。ベンチの前に屈み、できるだけ起こさないよう慎重に腕を掴んで肩に回して足を支えて抱え上げる。小柄なので、特にその一連に苦労はなかったが、遠くから聞こえた羽音に少し身を固くした。
すっかり暗くなった夜空には月が浮かんでいる。その月を背景に颯爽と広場に降り立ったのは案の定、魔女さんやアルルと同じ異世界から来た魔王さまだった。
「貴様、私の見ていないところでアルルに手を出そうなどと……覚悟はいいな?」
やっぱり。下りてくる前から感じた凄まじいプレッシャーは気のせいではなかったらしい。いや、あれが気のせいだったら逆に凄いか。自分はこの魔王さまについては一種の伝承の中での知識しかないが、その圧倒的な力については何度も目の当たりにしたことがある分、洒落にはできないので精一杯否定してみせた。
「でしたら、魔王さまがお運びになってはどうですか?」
「……私が?アルルを?」
「はい」
「……た、確かに、私はアルルのフィアンセだからな!そうだな!この状況何もおかしくはないな!?」
誰に同意を求めているのかはわからないが、とりあえず頷いてみせると魔女さんが怪訝そうな目を向けてきた。確かに、アルルのことを考えると魔王さまに任せてしまうのはちょっと申し訳ない気がするのだけど。なんだかんだとこの魔王さまは彼女に甘いので大丈夫なんじゃないかなと思っていたりもする。決して生易しい人物ではないとは勿論わかっているし、そのあたりは良心と、自分の何とも言えない場違い感とが微妙なバランスで揺れていた。
しかしその審議を此方が下す前に、挙動不審になった魔王様はカーバンクルの手痛い一撃を食らっていた。どうやら、アルルの相棒の意思はこの通りらしい。これは仕方がないか、と、気絶している魔王様にごめんなさいと軽く謝ったうえでさっさとその場をあとにした。当のカーバンクルは身軽に此方の肩まで上ってきて、ぐぐー!と誇らしげな声をあげていた。
魔女さんの店の前までようやく辿り着き、彼女が指定したソファーにアルルを下ろした。御苦労さまでしたわねと一杯だけの紅茶を頂いて、そのまま店を後にする。もうすっかり夜になっていて、街の灯りに照らされながら書斎までの道のりをゆっくりと歩いた。大した距離ではないため直ぐに店の看板が目に入ってきたが、同時に店の前で何やら作業をしているらしい店主も見かけた。直ぐに声を掛けてもう店じまいではないのかと訊くと、どうやら明日は年に一度の商店街のお祭りのようなものらしく、夜のうちにできる準備はしておきたいのだという。そういうことははやく言ってほしかったなぁと返しつつ、そのまま作業を手伝った。部屋を借りている身の上だから、出来る限りの手伝いはさせてほしい。
結局、書斎に戻ったのはそろそろ日付も越えようかという時間帯だった。店主も流石に疲れたのか、直ぐに部屋に入って眠ってしまったようで、特に話し相手もいなくなってしまったから、机の端に置きっぱなしだった読みかけの本を手に取る。途中からになっても内容を忘れているわけじゃないから、また眠気が来るまでその世界に入り込む。
灯りを消して、寝台の上に倒れ込んでから、戸棚の空いた隙間を思い出した。今度はあそこに何を置こう、何か、いいサイズのものが手に入ればいいけど。頭はそう言って眠気と仲良くなろうとするけれど、心の隅っこに残ったあのガラス瓶の破片が、今も深々とそこに突き刺さったままであることを自分は知っていた。大してお気に入りでもなかった、ただ貰ったから、その善意を託って大事に其処に飾っていただけ。そういえば、あれは何故割れてしまったのだったか。数日前のことを思い出そうとした。あのガラス瓶が床に散らばった瞬間のことを、思い出そうとした。
「あれがいい」
記憶の隅にわずかに引っ掛かった声がある。その声は戸棚の上を指差して、何の気もなく自分に告げたのだ。俺はあれがいいと、あのガラス瓶に入れてくれと。何を入れようとしたのだったか、恐らくその声の主のことだから、魔法に関わる何かだったことだけは確かなのだが。結局その瓶は、取ろうとした自分の手元が狂って、割れてしまった。台の上に居た自分はともかく、その下で待っていた彼にはガラスが降りかかったはずで、慌てて怪我はないかと口にしたが、彼は緩慢に首を横に振って、割れたガラスの破片をひとつ摘みあげた。
特に残念そうな顔をされたわけでもない。その瓶に入れて渡そうと思っていたものは、別の器に入れて渡したような気もする。
ああそうでした。壊れても大したことはないものでした。なのに刺さったままの破片を未だに自分で抜かないのは、いつまでもその事を覚えていなくてはいけないと思っていたからなのでした。誰がくれたかも覚えていないなら、その誰かもきっと僕の事は覚えていないのでしょう。彼が咎めないのなら、きっと誰も咎めてはくれないのでしょう。
あの日、棚の定位置から落ちたのはきっと、自分だったに違いありません。
落ちるスターマン
はじめに書きだした内容から短時間で連想ゲーム的に続けた短編でした。
大事じゃなかったものが、壊れた瞬間に大事になったりもすることを、何故かみんなわからないまま壊れたものに憧憬を持つのは、滑稽で悲しくて愛おしい話です。