自分の言葉がどのくらい周囲に影響を及ぼすか、その想像がついていないのだろう。いや、眉根を寄せて難しい顔で黙り込んでいるときは、随分と噛み砕いた喋り方をすることもあるから、きっと考えることができないわけではないのだ。なのに普段はそれをしない。面倒くさがりなのかもしれなかった。それか、いつでも自分のことで手一杯で、他人にまでなかなか気が回らないのかも。そして一度回しだしたら自分のことと同じくらい真剣になって対応しはじめるから、つまり手の抜き方も知らない、変に真っ直ぐで、変に捻くれた奇妙なひとだった。
別に、人となりが知りたかったわけじゃない。知っているに越したことはそりゃないけれども。
書斎のテーブルの上に真白いクロスをかけて、菓子を乗せた皿と、紅茶を飲むカップとを用意して。……以前、自分が実家から持ってきていた魔導書に興味を示してしまった闇の魔導師さんは、定期的に此処へ本を借りに来る。異世界からの来訪者である彼には目新しいものもあったらしく、今や書架の半分程の蔵書は読み尽くしてしまった勢いだが、飽きもしていないところを見ると純粋に知識を得るのは好きなようで。ついでに今は大層暇をしているらしい。確かに、このところ特に大きな事件が舞い込んでくるでもなく、魔導師としてこの街でも活動している自分もわりと穏やかな日々を過ごして居る最中ではあった。
平和なのは良い事だ。朝は早くに起きて、好きな菓子を作る。此処の蔵書を無償で借りていくことに抵抗のあったらしい闇の魔導師さんには、なら借りに来るとき代わりにこれを食べていけと言ってあるので、最近は作る量も少し増えた。食べている間もずっと目は字を追っているけれども、どうにも口寂しいひとらしく意外にも簡単に皿は空になる。空になったら更に足して、彼が居る間は無くならないようにして。合間に口をつけるカップも空になるのを見たらすぐに注ぎ足した。そうやって彼をもてなすこと自体はわりと楽しかった。
観察を続ければ、好きな菓子も飲み物も把握できるようになってくる。カフェオレに、皮の厚いシュークリームがお気に召していたことは直ぐにわかったので、定期的に出すようにした。だけど繰り返す中で確実に、彼がその待遇に居心地の悪さを感じ始めていることにも容易に気付いてしまえたし、かといって何もしないわけにはいかない自分は、その奇妙な時間をまだ保ち続けていて。
いや、でも、わかってはいたのだ。
「……好き?」
「そう。好きなら問題ないよね?」
「………」
「好きなお菓子はいつでも美味しいよ。それこそ自分の舌を解析しなきゃその実なんてわからないものでしょう?」
理由を欲しがっていた相手から、最初に理由を奪ったのは自分だった。何も考えずに済む方向へと導いたのは自分だった。そうすれば縁も切れるのではないかと、多少なりとも思っていたことは認めようと思う。でも同じくらい、その時はまだわかっていなかった。何故彼が理由にこだわり続けていたのか。きっと、彼自身もよくわかっていなかったのだろう。互いによくもわからないまま思考を断ち切ってしまったのは、間違いだった。
ただ握りしめた両手だけがあたたかい。
オアシス
「珍しいこともあったもんだなぁ」
店のカウンターに肘をつきながら、まるで独り言のようにぼやく。
「あいつ、滅多に体調なんか崩さないんだよ」
アルル、というその焦茶髪の少女は、彼の闇の魔導師と一緒、異世界から来た人間である。彼女の向かい側で椅子に座り、様子を窺っている金髪の少女……魔女見習いらしい、ウィッチという、彼女も同じだ。だから必然と、彼との付き合いも長い。
「うーん、時間があったら見に行くんだけど。今レムレスのとこに居るの?」
「そうだね。寝心地はよくないかもだけど、ソファベッドがあったから其処に」
「なんかごめんねぇ、世話かけちゃってるみたいで」
アルルのその言い分に、くすくすとウィッチが笑った。まるで母親みたいですわねとからかうような口調で言われて、アルルが少し眉を顰める。そんなんじゃないけどさぁ、一応心配くらいはするでしょ、知り合いなんだから。当然のように口にされた言葉に頷きたくもなる。
「キミが寝込んでもボクは心配するよ?」
「あら、おやさしいのですわね。でも結構ですわ。そんな無様な姿を晒すわけにはいきませんもの」
「君も素直じゃないなぁ」
軽快なやり取りの合間に、ウィッチは手早く幾つかの小瓶を袋に詰めて此方に渡してきた。用法と用量はよく守ってくださいませねと念を押されるが、中身は別に魔法薬の類ではなく、普通の漢方薬だ。別に異世界人だからといって身体の根本的なつくりまで違っているなんてことはなさそうであるし、街の薬屋で事足りたかもしれない。けれども万が一ということもあるし、知り合いに頼むのが一番だと判断したまでのことだった。事情を話せば、それなら代金はあの人持ちですわねと何故かタダにもしてもらえた。それだけは少し申し訳ないことをしてしまったかもしれない。
「なにかメンドーなことになったら呼んでくれていいからね」
店の出入り口で手を振りながらアルルがそう言ってくれた。ありがとう、と手を振り返しつつも、彼女が出て行ったあとで少し肩を竦める。その様子を黙って観察していたカウンターの向こうの少女が、意地悪く笑みを浮かべていた。
「面倒見がよろしいのですわね?」
「いやぁ、たまたま僕の部屋に来ているときで、調子が悪そうだったから……なのに反故にはしなかった辺りはどうにも」
「まぁ言って聞く方でもありませんから、放っておいても構いやしないと思いますわよ。わたくしが言いたいのは、貴方はそれをわかっていそうなのに、ということですわね」
「うーん」
思慮のない言葉は有り難くもある。とりわけ彼女は自身に関わりのない事項に対しては、他人に全く容赦のない性質もしているようで、口を開けば何かと非難が飛んできた。そして決まって、此方の返事を聞かずにさっさと立ち去ってしまう。今回もそうなるかなぁと思っていたのだが、生憎と此処は、彼女の店の中だった。どうやら話を終わらせるには此方が立ち去るしかないらしい。
「でもほら、あの人が言って聞く人じゃないみたいに、僕も言われて簡単に頷けるわけじゃないからね」
「聞き分けは良い方だと思っておりましたわ」
「納得ができれば聞く耳もできるのは、普通じゃない?」
「あら」
正論で返されてしまいました。淡々とした口ぶりを後ろに、店の出入り口の扉に手を掛ける。一歩踏み出した外は驚くほど快晴で、むしろ少し、眩しかった。
元々隣町の出身だった自分に、この店の店主が空き部屋をひとつ貸してくれたのがこの書斎の始まりだ。帰ってきた自分をその店主が出迎えてくれて、そのまま奥へと移動した。廊下を歩いているときから、嫌に気配が静かだとは思っていたのだが、書斎の扉を開けて理由を知った。出てくるときにはソファベッドで横になっていた存在が、まるまるひとつ綺麗になくなっている。
「あ、あれえ?」
店主は何も言ってこなかったことを考えると……案の定、部屋にある唯一の窓は大きく開け放たれていて、僅かに残る気配、魔力の残滓から、そこから外へ出て行ったことは明白だった。今朝方、借りて行った本を抱えて部屋にやってきて、返したと思ったらそのまま床で眠りだした重症人が一体何をしているのやら。薬の袋を抱え直して、同じように窓から出て追跡と探知を開始する。これが容易なのは、重症人が闇の魔導師なんていう稀有な存在だからで、自分が不本意ながらそれに精通している面が少なからずあったからだ。ついでに、本当に体調は良くないのだろう。痕跡は意外にも濃く残っていて、どうやらお得意の空間転移を使ってすらいないようだった。
「どこにいったのかなぁ」
ひとりごとを零しながら、のんびりと跡を辿る。極端に人目を避けた道を通っているのは流石だと思ったが、行先には全くと言っていいほど当てはなかった。彼女たちのように、付き合いは長くない。今の姿を見て、人となりは自分の中である程度かたまってきたような気はするが、あくまで自分が見たものの中でしか判断はつかない。それで十分だったし、それ以上は必要ないと思っている。
当然の線引きをしながら、しかし一方で、そのままではもう続かない何かを悟っても居る。
それが何かを、今は考えていた。
(でもなあ)
速まらない足と同じだ。自らを急かすことができない。そもそも奇妙な関係をはじめてしまったのは彼のほうなのだから、此方から一方的に切ってしまうのも、何だか。
(理には適っていないような)
気の済むまで付き合うのが筋だろうか。書架の本が全て彼の頭の中に入れば、きっとそれは何事もなかったかのように終わるものなのだろうし。それを惜しむことができるほど生易しい人間でもなかった、彼も、自分も。
痕跡を辿った先は、小高い丘だった。随分と遠出をしたらしい、書斎から、否、そもそも街から大きく距離も離れていて、辿りついた頃には日も傾き始めるかといった時間帯になっていた。方角を理解して、首を傾げてしまったのは仕方ないと言わせてほしい。その丘は、以前三日三晩吹き荒れた嵐のあと、彼と成り行きで共に向かった霊木の下だったのだ。
木の根に腰を下ろして、彼は何をしているわけでもなくただじっとしていた。けれども近づいてくる気配には気付いていたのだろう、横目で此方を一瞬見据えて、しかし直ぐに視線は丘の上から広がる景色の方へと移る。雷の落ちた場所が見えるわけでもない、今は面白いことなどないその風景を、無表情で眺めている。
「からだの調子はどう?」
努めて普段通りに声を上げて、見習い魔女の店で手に入れた薬の袋を側に差し出した。
「貴方が体調を崩すなんて珍しいってきいたよ」
反応はない。
「此処はわりと風も当たるし、寝床に帰った方がいいんじゃないかな」
「……」
「別にあの書斎で寝てても僕は気にしないけども」
「………」
「アルルも心配していたから」
「……アルルに会ったのか」
「うん、面倒なことになったら呼んでくれって」
「…………」
「帰りたくなってきたんじゃない?」
少し、笑うように、含んだ声で呟いた。咄嗟に彼の指が開いて僅かに腕がもちあがり、此方に向けられたのを見る。それは意図を顕さず、そのまま力を失くして地面に戻ってしまったが、それだけでたった今、彼が何をしようとしたのかはわかってしまった。わかりやすい人だった。観察をし続けなくたって、きっと図ることはできただろうと思うくらいに。
「僕の事が気に入らないなら、それでいいと思うよ」
「それはこっちの台詞だ」
間髪入れずに返事がかえる。
「お前は俺の事が気に入らないんだろう」
「………」
「だから俺には何の余地も残さない。自分からそれをひけらかしもしない」
「……どうしてそう思う?」
「違うのか」
「いや、実際にどうかよりも、僕は貴方がそれを思った根拠が知りたいな」
問いかけには、僅かな逡巡を見た。言語化をしかねているのかもしれない。それは彼が今まさに、彗星の魔導師レムレスについて深く思考している証拠でもあった。純粋な興味が勝る。彼がいったいどんな風にレムレスという人間を評価しているのか……こわいもの見たさと共に、聞いてみたいと一瞬思ったのは事実だ。
「……期待を感じないからだ」
「期待?」
「お前は俺に何も望んではいない」
「それは……根拠になるのかな」
「だがお前は俺を好きだと言った」
「そうだね」
「嘘だろう」
「どうして?」
「有り得ない」
「有り得ない?」
「お前が俺を好きだなんてことは、有り得ない」
「………」
「お前にとって俺は、要らないものの筈だ」
傍から聞いていれば飛躍した思考に聞こえたかもしれない。そうやって片付けるのは容易だった。それができなかったのは、その全てが、まったくのその通りであると自分が頷けてしまえるところにあったからだ。
理由を奪って思考を断ち切って得た結果は、彼が彼自身に刃を入れて腹を開いたという事実だった。
「俺に利はあった」
「……僕にも利はあったと思うよ」
「うそだろう」
「否定されても困るなぁ」
「無い筈だ。だってお前は、………」
「………?」
普段より幾分も滑らかだった舌が突然止まる。長い沈黙と共に、代わりに差し出されたのは、開いた両手で、十の指先はそのままゆっくりと首元に絡みついた。力は込められていないが、正確に息の根を止める位置に添えられたそれを感じて、なるほど、と心得てやはり笑みを浮かべる。
そうすれば十の指はするりと首から離れて、すぐに彼の傍らに戻った。
「…………俺に利は見出せまい」
確かに、そうでした。
……とは返せず、しかし本当にそうだっただろうか、と自問自答する声も響く。
「だったら、それでもいいのかもしれないね」
「………俺は」
「うん」
「お前のそういうところが、大嫌いだ」
「うそはきらい?」
「ちがう。いや、ちがわないが、ちがう」
「じゃあ」
今度は、自分の指が動く。今までの人生で一度も、ただの一度もしたことがないことを、彼にしてみせた。外套の襟を探って、露になった首にそのまま十の指を絡めた。先の彼と同じように、力は一切込めていない。更に言えば、一度もしたことがないから、このまま力を入れてもうまくいくかどうかは、わからない。
「こうしたらどう?」
首を傾けて、幼子にするように問いかける。一瞬だけ大きく見開いた彼の蒼い眼は、その行為を確かめるようにその腕から、此方の顔まで線を投げて、そのままゆっくり細められた。
「それなら、」
「………」
「お前がやるより早く、お前の腕を切り落とす」
「あらら」
思わず身の危険を感じて手を離す。そのまま両腕を上げて降参の恰好を取り、まぁ冗談だよと言おうとして、口を噤んだ。ずっと苛立ちや焦燥を抱え、苦虫を噛み潰したような顔をしていた彼が、その瞬間だけ解放されたように表情を緩めたのを見てしまった。
ようやく理解が追い付いた。
「やっぱり帰ろう。闇の魔導師さん」
結局最後の最後まで、狡い提案ばかりをしている自覚はあった。それでもそう促すしかない、望みはこれまでも、そしてこれからもかなえてやることはできないだろう。
君の中に僕は居ないし、僕の中にもどうやら、君は居ないらしい。
すっかり日も落ちて、やっぱり体調は悪かったらしい彼は、そのまま書斎で寝かせた。自分の寝る場所はなくなってしまったが、椅子に腰を預けて眠る彼を見守ることにする。口を開けば非難轟々、というのも、そういえばあのウィッチという少女にすこし似ているのかもしれない。同じような目で己を見ていたというのなら、きっと彼女にも看破されていたのだろう。うそつきであることを。
眠っているときの彼は、起きているときとは変わって非常に静かだった。寝返りも打たず、寝息もひそやかで、そのままだと勘違いしちゃいそうだねえとおかしな頭で考えた。笑おうと思ったのに笑えなかった。だいじょうぶ、今はだれもみていないからきっと笑っていなくてもいいのだと思うと、それすらもおかしかった。
首に絡みついた両手だけはやはりあたたかかった。それだけは今も、嘘じゃないと貴方に、いや君に、伝えることができると思う。他のどんな感情を濁しても、たった今うまれたこの確信だけは、きっと自分でも汚せないから、彼に信じてほしかった。
だけどきっと、信じてもらうためにまた、自分は嘘を吐くのだろう。
オアシス
愛がその胸に足りないなら。
一応コースターの続きとしてかいたものでした。
此処しばらくレムシェについて考えていて、考えて、出した結論を何とか形にできないかと思って、とりあえずあれの続きを書くかと思い立ったわけなのですが。ひしひしと技量不足を感じつつももういいやと投げつつも。レムシェが好きなことだけは嘘じゃないとでも言っておきます。