散々な一日だった。その一言を吐き捨てたくて開いた口からは、まるで膿を落とすかのよいに血が零れて地面を赤く濡らす。黒々とした粘性の塊を認めて、恐らくどこか、内臓のあたりをやられたのだと冷静に判断した。痛みは既に朦朧とする意識の中へと追いやられているが、視覚と聴覚は何故か妙に鮮明で、眼前に近づく地面と倒れ込んだ己の立てた鈍い音をまるで他人事のように思っていた。
「……………」
月の明るい夜だったらしい、暗闇のなかでも影は鮮明だった。勝手に下りようとする瞼を必死に吊り上げていると、先から風に揺れる木の葉の音ばかり拾っていた耳に、妙な歌声が届く。何処から聞こえてくるのだろうか、それは不可解な事に、遥か遠いところから聞こえてくるようでもあって、しかし耳元で歌われているようでもあって。耳鳴りのような不快感と共に、ああ、もしかしてこれは、幻聴というやつかと納得した。
- 諸人(もろびと)こぞりて 迎えまつれ
- 久しく待ちにし 主は来ませり
- 主は来ませり 主は、主は来ませり
- 悪魔のひとやを 打ち砕きて
- 捕虜(とりこ)をはなつと 主は来ませり
- 主は来ませり 主は、主は来ませり
- この世の闇路(やみじ)を 照らしたもう
- 妙なる光の 主は来ませり
- 主は来ませり 主は、主は来ませり
今頃人里は賑わっているに違いない。今日はいわゆる神の生誕日……の、前夜祭にあたる。殆どの町ではこの日を祝節日として、明日の生誕日の夕方まで、それはそれは盛大な祭りを繰り広げるのだ。勿論本来はそのように馬鹿騒ぎをするような日ではなく、祈りの場で供儀を行い厳粛に過ごす神聖な日の筈なのだが、昨今はその意も大きく薄れて……いや、己が幼い時分にはもう既にそんな厳粛な風習も廃れてはいたか。
今耳元で歌われている唄は、その頃に聞いていた聖歌の類だったような気がするのだ。ずっと忘れていたのに、こうして聞いてみれば今でも口ずさめそうで、靄のかかる意識の底から嫌悪を引き摺り出した。別に信心深い子供だったわけではなかったし、歌えるのだって毎年歌わされたからだというだけで、今は……今は、もうそんな世界にすら居ない。あれは、町を一歩外に出ればどこで耳にすることもない、どこまでも作り物めいて美しい歌だった。
おかしいな、走馬灯みたいだ。過去に思いを馳せるのは、目の前のことから逃げているからだろう。そうつまり、つまりは。
その時、歌声のうしろに鈴の音が聞こえた。しゃん、しゃん、と、ひとつ重ねるごとに近くなるそれは、いつの間にか複数になり、そして四方八方から不規則に鳴らされはじめる。同時に、からからと子供が笑っているような音も乗せられた。
「におう、におうぞ」
「血のにおいがするぞ」
「すこし焼けたにおいもする」
視界を横切った小さな足は、人間のものではなかった。小悪魔、かもしれない。あの形は、この声は。振り絞った知識は曖昧だが、ひねり出したと同時に理解もした。餌だと思われているのだ。だから笑われた。そして囲まれた。
「ニンゲンのにおいだ」
子供の肉は美味いと聞く。
ふざけんな、食われてたまるかとは、またこの上ない負け惜しみだろう。血だまりに倒れ伏した身体は誰がどう見ても満身創痍だ。自分の意志では動かせない。それなら餌になる以外の道はない。しかし、だがしかし、此処で命乞いをする程に気概も己にはなく、瞼を下ろして全てを投げ出せない程には、諦めも悪く。唯一何とか正常だった、利き腕の剣だけをぎりぎりと握りしめた。
小悪魔たちは、己を囲んで何やら喧しく言い争いをしているようだ。どうせくだらないことだろうと思いつつも鋭敏になった聴覚が勝手に声を拾ってしまう。
「足がいいとおもうんだ」
「腿の肉か?だめだ、そこはおれがもらう」
「じゃあおれは腕をもらうぞ」
「腹は?腸はどうする?」
ああもう少し静かに相談しろよ、本当に散々な一日だ。
血の塊を吐き、詰まりそうな喉の通りをなんとか確保しようとしていると、小悪魔たちが周囲で踊る足音とはまた別の何かが地面を叩いた。次はなんだと思っていたら、肩を掴まれて仰向けにされた。急な事に目を見開いて、否応なく上から己を覗き込むそれの姿を視界に映した。煌々と明るい月を背後に緑の長い髪が揺れている。見た目は人型だが、天に向かって突き出した二本の角がそいつを異形の存在だと示していた。そしてぴりりと肌を刺す気配が、そいつから離れろと本能を刺激する。咄嗟にいう事をきかない身体を無理に捻ると、額をぐいと押えられた。身体を起こせない。そのままもう片方の腕が、血塗れの己の身体の線を確かめるかのように這い出した。
「サタンさま!」
「サタンさま、サタンさま!」
「サタンさま、にく!にく!」
「……ああ」
小悪魔たちがその存在に向かって喚きだす。
「屍肉ではないから、摘まぬようにな」
ひどく冷たい声で返事をしながら、検分する指先が服の間を潜り込み、一番深く抉れた腹の上に直接触れる。瞬間、全身に電流が走ったかのような強い衝撃を感じて、その違和感に思わずのたうった。
「が、がはっ……!?う、うあ、うああああ」
喉が痛むのも構わずぎりぎりと悲鳴を上げて、しかし額は押さえつけられているからそれ以上には何もできない。そのまま突き上がる違和感は、抉れた肉が徐々に再生していくに従って戻ってきた痛覚に掻き消され、一瞬だけ鮮明になった意識は次の瞬間に途絶えた。
「さて、どうしたものかなぁ」
直前に聞こえたその声を耳底に残して、あとはただ、歌が聞こえるだけ。信心深くもないただの生意気な子供が義務のように繰り返した、神に捧げられる聖なる歌でやってきたのは、とびきり強大で性質の悪い、悪魔だった。
やたらと豪勢な部屋の内装に面食らいつつ、床に足を下ろして近くの窓を開いた。乾いた冷たい風が吹き込むのも構わず、そこから身を乗り出して外を見る。魔力の気配がこれほど濃い屋敷が他にあっただろうか、明らかに、普通の人間の住んでいる建物じゃない。
……いや、いちいちこんな風に確認などしなくても、今己が居る場所が如何に異質な空間であるかなど、傷痕ひとつ残っていない腹を確認するだけで十分だ。悔しいが、己の治癒魔導を以てしても此処までの再生能力はない。中身も特に欠けている部分はないし、まるで昨晩の出来事が夢のようだった。そんなことは、有り得ないのだが。
「はじめは狼の群れにでもやられたのかと思っていたが」
食事だと給仕姿の女に連れられ、長い机に大量に並ぶ椅子のこれまた別世界じみた部屋へ押し込まれた。運ばれた食事は意外にも普通だった。自分の他にはもうひとり、斜め前の主賓席らしき場所で悠々と食事をする例の悪魔しか居らず、見たところそいつと殆ど変らないメニューを出されていたのでそんなものなのかもしれない。と、思って黙って口に運んでいたら何の脈絡もなく会話を振られて、一瞬フォークを口の中に突っ込んだまま沈黙した。
「野盗の類か?」
「……なんでわかったんだ」
「刃物の傷が一番多かったからな。いやはや、神聖な夜に人間同士で御苦労なことだ」
「……おまえ悪魔じゃないのかよ」
「如何にも。サタンさまだが」
あまりにもあっけらかんと言われてそれ以上会話を掘り下げる気力も失せる。だがこの悪魔、放っておくとひとりでも延々と喋り続けるものだから何となく気まずい。だが「以前変装をして潜り込んだ上流階級のパーティーで出会った女としばらく懇親にしていたがお互い身元を隠し合っていたことが互いにばれて破局した」なんて話に適当な相槌を打つこともできまい。会話の種にしているというよりは、言いたいこと、誰かに話したいと思った出来事をただ垂れ流しているだけのようだった。
腹は満たされて、どうでもいい話は耳にタコができそうな程聞かされて、血みどろだった服はまるで新品同然になった状態で返された。至れり尽くせりとはまさにこの事を云うのだろうが、有り難さより不気味さが勝る。屋敷に仕えているのであろう幾人かの者たちは、皆一様に主と同じく人型ではあるが、魔の眷属であることは間違いなかった。町から離れた森の中、古ぼけた屋敷に異形の住人達。
ひとり故郷を後にしてからこの方、魔物や魔族など見馴れたと思っていたのだが。流石にこんな風に生活をしている姿を見せられたのは初めてだった。案外人間と変わりないもんなんだなと妙に呑気に考えていると、柱の影からあの小悪魔どもがケタケタニタニタと嫌な笑みを浮かべながら此方の様子を窺っていて、やはり油断は禁物だと首を振る。
しかしそんな悪戯小僧のような奴らに向かって、階段を掃除していた女が言うのだ。
「サタンさまから禁令が出ているでしょう。もどりなさい」
文句を垂らしつつ解散していくそいつらを眺めながら、どうやらこの屋敷の中では一応の身の安全は守られているらしい、と息を吐く。吐いたが、やはり不可解な話だ。
部屋に戻ると、悪魔が居た。椅子に座ってなにかを見ていた。此方が部屋に入ってくると同時に顔を上げ、見ていたなにかを寄越してきた。地図だった。
「印はつけておいてやったぞ。いつでも勝手に出ていくがいい」
確認すると、意外にも己が倒れた場所から其処まで離れていなかった。こんなに近くにこんな場所があったのかとは疑問に思ったが、直ぐにどうでもよくなる。目の前で偉そうにふんぞりかえっている悪魔を睨んで、たったひとつだけを尋ねた。
「お前、何で俺を拾ったんだ?」
悪魔はその血溜りのように赤い眼を楽しそうに細めて、たった一言だけを返した。
「人間にとっては、今日が奇跡の日なのだろう?」
そういえば、あの頃は首を傾けて見上げなければ顔も見られなかった。今なら、並んでも大体同じ高さに目線がある。いや、ほんの少しだけ、あっちの方が高いんだっけ。
頭でもぶっ叩けばちょっとは縮まらないだろうか。
巡り巡った今日は、また月の明るい夜だった。生誕を祝う光なのかもしれない。今日がまたとなく雲ひとつない空模様なのは、ただの偶然なのかもしれないが、満月の日にあたるのはきっと何かしら関係もあるのだろう。時と共に知識は深くなる。同じだけ謎も増える。
マントを赤く染め上げ、重く濡らしていたのは返り血だった。これはもう、次の町で新しいものに替えてしまった方がいいだろう。町に入るときもこのままで入ると少々厄介かもしれないが、闇夜に紛れていけば幾らか目は誤魔化せる。だが、先日手に入れた魔導具を使って試したいこともあるし、そろそろ何処かに一時的な拠点を持つのもいいかもしれない。町との往復は面倒だが、転位の魔法陣を作ってしまえば気にする程でもない。だったら次の場所を支点に何処か都合のよさそうな場所を探してみるべきか。
考えて、血濡れたマントから手を離した途端、何処からか音を拾った。木々がざわめく音にも似ない、四足の踵の音でもない、つまり何か生き物が動く音ではない。不穏さは一切感じなかったが、その音がする方向には何かしらの気配を感じた。思わず、足を向ける。気配は逃げる様子もなく、ただじっとその場から動かずに音を発しているようだ。ゆっくりと近づいていくと、マントの端と同じ鉄錆の臭いが鼻をつく。そして、まるで幻聴のように聞こえていた音が鮮明になった。それは泣き声だった。赤ん坊の。
臭いと声を頼りに茂みを掻き分ける。枯れた草木の上に、幾人かの死骸が重なっていた。ひどい血臭で既にある程度察してはいたが、散々な有様だった。顔を顰めて歩みを進め、折り重なるそれをひとつひとつと退かして地面に並べて行く。どれも四肢や臓器の損壊が著しく、骨だけを残して肉が剥がされているものもあった事から、死した後に屍肉漁りを受けたのだろう。中には頭蓋が破壊され、脳髄が引き摺り出されているのもあった。
(食うならもっと綺麗に食っていけよ)
そう、このまま自然と地面に埋もれていくくらいに。
背中の骨を剥き出しにした、恐らく女であろう身体を起こしたときだった。ずっと聞こえていた声がようやく直接耳に届き、探し物を見つけたことを悟る。死体の下敷きにされていたわりに、包まれている白い布は少し赤と茶色に染まっているだけで、己のマントの惨事よりも幾分かマシに見える。呼吸がしづらかったのは間違いないようだが、奇跡的に重みで潰されない死体の隙間に入り込んでいたらしい。傷ひとつ見当たらないそれは、実に多くの運に恵まれた存在だった。ふと、身体を包んでいる布に縫い付けられた、護符の紋様が目に入る。
なるほど、神のご加護か。いや、どうだろうな。
両手を伸ばして、そいつを死体の隙間から抱き上げる。泣いて、声をあげてはいるが、随分と衰弱しているようだ、明朝までは決して保つまい。自分があの声を拾わなかったら、……この赤ん坊が出す微弱な魔力の気配に、興味を持たなかったら、恐らくこのまま此処に転がる奴らと同じ肉塊になっていた。
「…………」
不可思議な縁もあるもので。
「……………」
町へ連れて行っても、親を亡くした孤児か。そう思うと此処でくたばっていた方が良かったのかもしれない。何も知らぬまま、何もわからぬまま、この世に生まれ出でて幾日も経たない間に。痛みを痛みだと理解することもなく、死を恐怖とすら感じることなく。ただ存在を主張する泣き声だけを上げて。
「………………」
胸の前まで下ろしてきたそれは、想像していた以上に重たく、またあたたかかった。この気温ですっかり身体も冷えているかと思えば、なかなかどうして頑丈なやつだ。それもそうか、まだ泣き喚く体力があるのだ。額に手を翳し、僅かながら治癒の呪文を唱える。
そして、町の方角へと踵を返した。
- 萎(しぼ)める心の 花を咲かせ
- 恵みの露(つゆ)置く 主は来ませり
- 主は来ませり 主は、主は来ませり
- 平和の君なる 御子を迎え
- 救いの主とぞ 誉め称えよ
- 誉め称えよ 誉め、誉め称えよ
「お前も不運なやつだな」
泣き疲れて船を漕ぎ始めた腕の中のそれに話しかける。相手に言葉は通じない、だから会話を求めているわけではない、ロクに反応も返らない状況で、月明かりばかりが眩しい夜道を歩く。
「信心深さが足りないって言うなら、俺にもお前にもどうしようもない話だけどな」
どうせ子守唄代わりにでも聞いていたのだろう、そんな声でも何処かには届くらしい。神様が居るところでは、少し遠すぎるみたいだが。
そこらへんを飛んでいる、退屈で性質のわるい悪魔の耳くらいには。
廻る聖歌隊
一応、クリスマスネタでした。いや言わなくてもわかりやすくクリスマスですね。
毎回似たようなネタかいてるような気がしないでもないんですが、限りなく黒に近いグレーな彼らがなかなかに好きです。