嵐が来る前の日のことだ。
凶暴化した樹木の魔物の縄張りとなっていた暗い森を抜け、次の街まであと少しと行った頃合いだった。空は厚い雲に覆われ、森を抜けても周囲はどことなく薄暗い。これは一荒れくるかなぁ、それまでに街に辿り着けるかなぁなんて、先を歩くシェゾを追いかけながらもそのどんよりとした空を見上げて考えていると、突然視界を大きな影が遮ったのだ。
「うわっ」
思わず声を上げてしまった。過ぎた影を目で追うと、それは大きな黒い鷲だった。俺たちの頭上を悠然と滑空するその体躯は、混じり気のない美しい黒色をしていて、曇り空と重なっても一切存在を霞ませる事はない。俺は見惚れ、そして声を上げた。
「シェゾ、凄く綺麗な鷲が居るぞ」
前方を行く背中はそれを聞いて一瞬、足を止めた。するとそれに合わせるかのように黒い鷲も、近くの木の上へと降り立ち、短く啼いた。声すらも美しかった。しかし奇妙でもあった。
鷲の鋭く紅い眼は、木の上から真っ直ぐにシェゾを見据えていた。まるで存在を認識しているかのように。一方シェゾも木の上へと視線を投げ寄越して、睨むように鷲を見ている。やがて再び足を街の方へ動かし始めると、鷲の方も再び翼を広げて飛び立ち、今度は俺たちの頭上を旋回しはじめた。そしてまた、美しい声で啼く。
慌ててシェゾの隣へ駆け寄った俺は、忌々しげに放たれた彼の舌打ちを聞いた。
「もしかして、知り合いなのか?」
問いかけに答えは返らない。しかし、その沈黙こそが肯定を意味しても居た。黒い鷲は、そのまま俺たちの進行方向……次の街へ向かう道の上を先に飛び始める。まるで導くように、誘うように踊るその姿は、とても美しくて、美しいと思うからこそ、限りなく不気味だった。
嵐が来る前の日のことだった。
深淵の入口
街の入り口で検閲を受け、大通りに差し掛かった辺りだったろうか。とうとう空から細かな水の粒が降ってきてしまった。俺は慌てて道具袋を胸の前で抱えて、はやく宿を見つけないとな、と、シェゾに声を掛けたのだが、対するシェゾは歩きながらも何処か上の空で、俺の声がちっとも聞こえていないようだった。そしてあろうことか、入り口で検閲の兵に教えてもらった宿の位置とは逆の方へ足を向け始める。
「シェゾ、宿はそっちじゃないぞ?」
ぎょっとして隣から声を上げるが、やはり知らん顔だ。俺の事がどうでもいいというよりは、他のことに気を取られていると言った方が正しいかもしれない。もう一度、シェゾ、と呼びかけてようやくちらりと俺の方を見た。そして、いよいよ本降りになりだした雨の音が響く中、辛うじて聞き取れるくらいの声で、いいからついてこいと、俺の濡れた頭をぐしゃぐしゃと掻き撫でたのである。
最近よく見るようになったシェゾの癖だ。一応の正当な理由はあるが、何かしらの説明の手間を惜しむとき、とりあえずいう事を聞けという代わりにシェゾは俺の頭を小突いたり撫でたり押さえつけたりする。こういう時は、話してくれる状況になるまで待つのが吉だというのも既に学習済みだ。俺はぐっと唇を引き結び、道具袋が濡れないように、シェゾに置いて行かれないようにだけ気を付けることにした。
やがて街の中心を外れ、寂れた裏路地へと入って行き、人の気配もまばらなその一角にぽつんと建っている教会の前まで来た。他の建物よりも僅かに突き出た天窓の先端と、重々しい雰囲気を持った扉の装飾を見る限り、こんな場所にあるわりには立派なものだと思うが、外壁にはコケと蔦が蔓延っていて、長い間手入れがなされていないことは明白だった。それもそうだ、教会なんて珍しい。今まで通ってきた街の中で、こんなものを見たことは一度もなかった。
……一度もないのに、どうして俺はそれを『教会』だと認識したのかもよくわからない。
シェゾはその建物を一瞥し、入り口であろう扉の蝶番に絡む蔦に対して小さな火の玉を放った。それは丁度、其処ら一帯を埋め尽くしていた植物から植物へと燃え移り、やがて勢いを潜める。難なく開くようになった扉を内側に向かって押し開き、暗い建物内へと足を踏み入れた。
蔦のせいか、人の出入りがなかったのだろう。放置はされていたが中を荒らされたような形跡はなく、妙に整った空間がそこにはあった。木でできた長椅子は数も少なく、一部は腐り果てて朽ちているものもある。正面の礼拝所の真上に、外からも確認できた高い天窓があり、其処から僅かに外界の光が漏れていた。と云っても、今は外も厚い雲に覆われ、おまけに大粒の雨にも降られているから、視界の暗さは依然と変わらない。シェゾがライトの呪文を唱えてようやく周囲が明瞭になった。壁面には絵や文字が並べられている。どれもよく意味のつかめないモチーフで、読めない文字だった。異様な空間だと思っていると、シェゾが小さな光源を僅かに前方へと動かし、正面脇の柱の方を照らし出した。思わず俺もその動きを視線で追う。柱には、人ひとりが上れる階段と、人ひとりが立てる空間設けてられており、丁度そこから建物内全体を見下ろせる形になっているようだった。その空間の柵にあたる狭い縁に、何かが居た。俺はじっと目を凝らした。それは、道中で出会ったあの黒い鷲だった。
「あ、あいつ」
どこから入ったんだ?と、疑問をぶつけるより先にシェゾがずいと前へ歩み出る。そして徐に、今までじっと保ち続けていた沈黙を破いた。
「なんのつもりだ?金輪際、俺の人生に関わるなと言っておいたはずだが」
その言葉は疑いなく、黒い鷲に向けて発せられている。呼応して鷲が鳴いた。その場で羽ばたいたかと思うと一瞬、彼を中心に嵐のような風が起こり、周囲を舞った黒い羽根がその身を覆い尽くした。
「相変わらず無礼なやつだな。この私が直接出向いてやってきているというのに」
それは、まるで夢のような光景だった。
黒い羽根が床にまき散らされていく。風の収まったその中心に、羽毛とは似ても似つかない……硬質そうな、否、しかし軟質にも見える……この暗い空間にあっても光沢を放つ異様な翼があった。音すらたてずに広げられたなかには、鷲ではなく、人型をした何かが居た。一目で人間だ、と言えなかったのは、勿論その異様な翼に、とがった耳と、その耳の少し後ろから空へ向かって突き出た2本の異形な角の存在を認めてしまったからだった。
同時に、背筋を冷たい気配がなぞる。シェゾほど魔的な感知力はないが、俺も危険に対する勘の鋭さにはそれなりに自信があった。そいつが、これ以上に無い程目の前の存在を危険視している。思わず身を強張らせたが、斜め前に立っているシェゾは特に何の反応もしていない。
いや、反応はしている。如何にも迷惑そうに、厄介ものを見るような目で、そいつに冷たい視線を送っていた。
「どうせロクな用向きじゃないんだろうが」
「貴様にも悪くない案件かもしれんぞ?話だけは聞いてみようという気はないのか、愚か者だな」
「それを言うなら我が身振り返れってんだよ。お前がまともな案件を俺に寄越してきたことがあったか?」
「うん」
「ふざけんな」
「どこがふざけているんだ?私は何時でも大マジメだぞ」
何故か妙に息の合ったやり取りだった。しかし、どうにも機嫌の悪そうなシェゾ……なんとなくいつもこんな感じのような気もするが……とは対照的に、異形の男は口元に笑みすら浮かべて剣呑としている。危険な気配から察するに、魔族……それも相当の実力者の類には違いない。此処まで来たら、流石に顔見知りなのだろうということは確信するが、いったいどういう知り合いなのか。シェゾは魔物や魔族と対話を持つことも珍しくないので、旅の途中で何等かの縁故を持った存在なのだろうか。
ぐるぐると思考を回していると、シェゾの左手がぴくりと動いたのを認めてしまった。目を鼻の先で僅かに空間が歪み、ゆらりと現れた剣の柄をその手は強く握りしめる。俺はぎょっとして慌てて声を上げた。
「あ、ちょ、ま、まて」
だがそれも間に合わなかった。瞬間、シェゾは身体を翻して右手を突き出した。閃光と共に強烈な雷撃が、真っ直ぐに柱の異形の男へと迸る。やばい、あれは本気だ。生身の人間がまともに喰らったなら致命傷は免れない。そして何よりまずあの柱の上の台が、と、頭を巡らすまでもなく、男が腰掛けていた台は粉微塵に破壊された。派手な音と共に崩れ、床に破片を撒き散らす。
「………」
だがシェゾの視線は既に、其処から礼拝所の奥へと移っていた。中央の何段分か高くなった空間の上、恐らく神に仕えるものが立つ教壇の上へと足を下ろしたのは、異形の魔族だ。移動したのが目視できなかった……ついでに、傷一つ見当たらない。粉微塵になったあの柱つきの台に、積もっていた埃も破片のひとつも身に纏わず、薄暗い礼拝所の中に姿を浮かび上がらせている。
「やれやれ、相変わらず短気なやつだな」
「お前には言われたくない」
「なんだと?私のどこが短気なんだ」
シェゾの右手が再び閃いた。それを見て男は更に笑みを深くする。
「ま、待てって!」
俺は咄嗟に、強い力でシェゾのマントを引っ張った。僅かに首でも締まったのか眉根を寄せて呻いたシェゾがちらりと俺を横目で睨む。続けて口を開けて文句が出る前に、建物内で響く程度にははっきりと大きな声で、教壇の上の魔族へ話しかけた。
「悪いけど、俺だけこの状況にまったくついていけてないんだ。教えてくれ、まずあんたは誰なんだ?俺たち……じゃないか、シェゾに何か用があるってことでいいのか?」
このまま放っておくと、訳がわからないままに建物が倒壊して最悪瓦礫の下敷きだ。シェゾが俺のことを考慮してやり合うとは考えにくいし、何よりこの、目の前の魔族の実力が完全に未知数だった。相手を刺激しないように、と言葉は選んだはずだが、魔族の男はその血だまりのように赤い眼を不機嫌そうに細めて俺を見た。
「口の利き方がなっていないようだな、小僧。サタンさまだ」
「は?」
「貴様も保護者ならきちんと躾けておけ」
続けて、シェゾに目を向けて呆れたようにため息を吐く。
「誰が保護者だよ、誰が」
「ああ、まぁ貴様にそれを求めても詮無いか。まったく、礼儀がなっていないところまで似る必要はないと思うがなぁ」
「だから、保護者じゃねえっつってんだろーが!」
シェゾが叫んだと同時に、俺は腹を蹴られて近くの長椅子に背中から突っ込んだ。なんとか直ぐに身体を起こして顔をあげると、シェゾが剣を教壇の上に叩きおろし、そのまま壇を破壊しているのが目に入る。目の前の長椅子の背凭れを掴み、シェゾにやめろと声を上げようとしたのだが。
「……ッ!!??」
首根を掴まれて身体がぐいと上に持ち上げられた。足が床を離れて宙吊りになり、同時に明確な意思を持った指先が顎にかかってそのまま下がり、思い切り喉を締め上げる。
「がっ、がっは……ッ!!」
息のできない状況で、意識が朦朧とする中認めたのは、己を首元から持ち上げる異形の魔族の姿だった。そのままの状態で、そいつは俺から視線を外し、教壇の近くに居るであろうシェゾの方へ首を傾げて笑んで見せる。
「あまり荒事は好まないのだが、貴様がそういうつもりなら応えてやらねばならんようだな、闇の魔導師よ」
「……てめえ」
シェゾの低く押し殺した声が、意識の底にも届く。
「そいつが俺に対して人質になるとでも思ってんのか?」
うん、まあ、ならないと思います。それは俺が一番よく知ってます。
なんて、律儀に返答してふざけている場合でもない。確かにシェゾに俺は人質にもならないだろうが、シェゾはどうやら魔族……サタンさま、だったか……の出方を窺っているらしい。そこから少し、膠着状態が続いて、俺は意識を保つのに精一杯で、そのあたりのことはよく覚えていない。
だから、どちらが先に動いたのかは正直わからなかった。だが俺の身体は浮いたまま、ぶんと空中で翻り、そのまま喉元を解放されて宙に放り出された。間髪入れずにやはり背中から何かにぶつかって、ぶつかったままそれと一緒に建物内を数歩分吹き飛んだ。そして床を転がる。何度か咳をして突然開いた気道に焦った後、明瞭になり始めた感覚が、鈍い殴打音を捉えてようやく、はっ、と顔を上げて音の方向を見た。
「……!!」
焼け爛れた床の上に、シェゾが蹲っている。俺が顔を上げた時点では、辛うじて意識もあったらしいが、続けて放たれたサタンの、蹴りが、蟀谷に入ったのか。そのまま横倒しになる形でシェゾは倒れた。シェゾ、と叫んで俺は、何も考えずにふらふらと駆け寄り、敵意と不信感を隠さず異形の魔族を見上げた。
「ああ、投げてすまなかったな?」
「ちがう、そうじゃない」
全く悪びれない様子のそいつから視線を逸らさないまま、それとシェゾの間に入る。
「……あんた、俺たちに何の用なんだ」
「ああ。そういえば、挨拶はまだだったな」
異様に浮かぶ赤い眼が、何かを懐かしむような、愛おしむような色を湛え、しかし不信を煽る笑みを濃くさせたまま俺を見る。
「まずはこの世界に生きる魔の眷属のひとりとして、貴様に歓迎の辞を述べさせてもらおう。異世界の勇者よ」
俺は、動かなかった。動けなかった。ただ、驚きと困惑に目を見開き、ただ目の前の存在を見上げる他無かった。
「まぁそう硬くなるな。ちょっと頼みたいことがあるだけだ。……こんな嵐で出歩くのも難しかろう?私の城に招待してやる。何、腹も減っただろうし、遠慮をすることはない」
礼拝所の上部に備えられた小さな小窓が、一瞬、鋭く光って薄暗い内部を青白く照らした。同時に、激しく雷鳴が轟いているのを俺は聞く。
どうやら嵐が来てしまったらしい。
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