三日三晩降り続けた雨は、近くの川を氾濫させたという。あのままの勢いが続けば堤防を破って街まで水が押し寄せていたかもしれないねぇ、と、危機感を感じさせない調子でのたまうから。此方も感じる暇はなくただその呑気な様子に、ちいさくため息を吐くばかりである。街のあちこちに大きな水たまりができていた。濡れた石畳の道は歩きにくいことこの上なかった。
雨季の後には乾季がくるものだ。少なくとも、自分が生まれた土地ではそうだった。続く雨は乾いた平原を湿潤にするが、生き物のすることはいつだって同じで、皆、次に来る乾季に備えて水を蓄える。
「君は大丈夫だった?」
雨が降っている間は、ずっと此処に居たらしい。反面自分は、ずっと洞窟の中に居た。天候がよめないほど勘を鈍らせたつもりはないが、そういえば丁度、雨が降りはじめた日の昼間、古道具屋の前でアルルと言い合いをしていた最中だったか、雲がじわりじわりと太陽を覆い隠し始めたのは。ふと口論を止めて空を見上げたアルルが、残念そうな顔で呟いていた。雨が降るよ、シェゾ。これはきっと長くなるね、嫌だなぁ。両腕に抱えた荷物をしっかりと持ち直し、彼女は自分に手を振った。君は何処に行くの?雨で暗くなるのに、やっぱりあの洞窟の中?お前には関係ないだろうと返せば、そうだね、でも君が雨風にやられて体調悪くしたりなんて、あったらやっぱりちょっとは心配だよと。
少しも思った事をとどめておくという事ができない奴だった。何を言い争っていたのかも忘れて、さっさと立ち去って行く背中を忌々しげに見つめながら、改めて空模様を確認した。先よりも分厚い雲が其処を埋め尽くしていた。遠くで雷の気配もする。成程、確かに一荒れ来るようだ。
「まぁ、結界張ってたしな」
「入り口に?」
「いや、全体に」
手間ではあったが、本格的に降り出すまでには十分な時間もあった。……実際は、一日目の昼間に暇を持て余して、入り口に張っていたものをわざわざ解いてまで雨足も緩やかな間に全体に張り直したのであるが。
街道をしばらく歩いて目的の場所に着く。奴が指差す先には、ぼろぼろになった観測台があった。足下が水に晒されたのだろう、木材が浸食され、そのまま倒壊したらしい。そこを中心に他にもいろんなものの残骸が、押し流されて残されたものが確認できた。なかなかに大惨事だ、それはもう、魔導師の手も借りたいというのは理解できなくもない。
「で、後片付けか。彗星の魔導師もとんだ使いっ走りだな」
「正直否定できないけど……君だって引き受けたんだから同じ穴の貉だよね?」
「勘違いするなよ。気になるものがあるんだ」
壊れた観測台の近くから眼下を見渡した。其処には、水嵩の増した川がある。幾分引いたとはいえ、数日前に見たときよりもずっと水の量が多い。観測台は、この川を山際の上流から下流までを眺めるためのものだったらしいが、最近は殆ど使われていなかったとも先に説明される。今は足下を崩され大きく傾いているが、元々十分な高さを持っていた、倒れても尚自分の背丈よりは高い。だが。
「ちっ、流石にもう向こう側まで視認できそうにはないか」
崩れた足の部分を軽く手の甲で叩き、舌打ちをする。登ってみてもいいが、結果は見えたものだろう。
「何か探してる?」
「雷が落ちただろう」
「ああ、うん。らしいね」
「場所を確認したい」
できれば高いところがいい。理由をロクに説明しなくても、奴は聡明だった。直ぐに納得して、じゃあ空、飛ぼうか?と何処からともなく箒を取り出してみせる。
「後ろに乗れってか?冗談じゃない」
「うーん、確かに集中したいならあんまりおすすめできないかな」
そういう問題ではないのだが、否定する気にもなれず押し黙ると、直ぐに申し訳なさそうに笑って再び、じゃあ、と切り出した。
「とっておきの場所があるよ」
「とっておきの場所?」
「うん」
ちょっと子供っぽい言い方になるけどね、秘密基地ってやつだね。自分達以外は誰も居ないのに、なぜかほんの少し声を潜めて、まるで内緒話でもするかのように奴が口にするから呆れたように鼻で笑ってやった。小僧だからいいんじゃないのか?その切り返しは意外だったのか、此方を見て数度瞬きをする。その様子が小気味よくて、調子をつけたまま言葉を続けた。
「高いところなんだろう」
「そうだね」
「バカと何とかは高いところが好きらしいぞ」
そいつがバカなのか、それともその、何とか、というヤツなのかは知らない。
街から幾分も離れた丘の上に、一本の木が立っていた。……いや一本、とも、木、とも形容するのを憚られる、それは巨木だった。のどかで穏やかな昼下がり、雨上がりの晴れやかな空には何処か不似合の、不気味な容姿をしている。横に広がった枝葉は生い茂り、元々大きな姿を更に異様なまでに大きく見せているのだが、感じた違和の要因はそれではなかった。周囲に、それ以外の植物がひとつも見当たらない。それに寄りつく生き物の気配もない。そしてそれそのものから、うねるような魔力の流れを感じた。思わず唾を飲んだ。
これ、やばいヤツじゃないのか。
ちらりと、隣の男を横目で窺ったがいつものようににこにこと笑みを浮かべているだけで、特に変わった様子はない。僅かに息を吐いて、もう一度、巨木を目視の範囲で確認してみる。魔力のうねりは感じるが、それは身体が肥大しすぎているからだろう、枝葉に行き届かせるために器官が歪んでしまったような印象を受けた。流れている魔力自体は、変わったところもない、別段親和性もなく、かといって嫌悪感も抱かない。
「此処、子供はきちゃダメって言われてるんだけどね」
もっと近くに寄って確かめようと足を踏み出すと、同じように歩き出しながら奴がとんでもないことを言い出した。
「木の姿をしたお化けに食べられちゃうよって」
「……そういう脅しか?」
「半分はそう、でも半分は事実かなぁ」
そのまま先に木の側まで歩み寄り、迷う事なく幹に手をかけ足をかけ、軽やかに近くの太い枝へと飛び上がる。ああそういえば、秘密基地だと言っていた。思い至るまでに少し時間をかけすぎて、呆けた顔のまま奴の姿を見上げていたら、すいと手が差し伸べられた。
「慣れてないと難しいかも」
そっちに足をかけて、こっちを掴んでほしいな。
逡巡はした。だが特に断る理由も思いつけなかった。木の幹を駆けあがり、勢いよくがしりと、その手に己の手を重ねる。間髪入れずに引き上げられて、何とか片足が奴と同じところに辿り着く。が、踏み込む距離が甘かったのか、……件の雨で、枝が濡れたままだったのも災いしたのか、爪先が滑って体が傾いた。
「っ!?」
「うわっ!?………ととっ」
重力に従って落ちる体が、左手の先を中心に止まって引っ掛かる。思わず空いていた右手を枝側へ伸ばしたことに、奴が目敏く気付いたらしい。右手もしっかりと掴まれて、よいしょ、と少し大儀そうな声と共に枝の上へと少しずつ引き上げられた。
「ああびっくりしたぁ」
大の男が二人乗っても、僅かに葉を揺らすだけでびくともしない丈夫な枝だ。ついでに奴の後方は、競うように繁った枝と葉に覆われてクッションのようになっている。だが狭い。当然だが大の男が二人居るにはどうしても狭い。奴の両手で引き上げられた体は、そのまま奴と密着してしまう。
「怪我はないかな?」
耳元で聞こえる声がむず痒く、眉根を顰めて首を縦に振るしかできなかった。そのままゆっくりと体を後ろに下げ、向き合う形にまで体が離れてようやく安堵の息を吐く。
「あともうちょっと上ったら、周りが見渡せるよ」
小首を傾げてさぁ行こうかと促されながら、未だ握られたままの左手の先に、少しだけ力が籠められたことに気付いた。僅かに指先が、剥き出しの皮膚を撫でる。何気なく視線を落とすと、引き上げられるときに枝で傷付けたらしい、そこは擦り?けて赤くなっていた。
「……それで」
「うん?」
「こいつは何なんだ?」
繁る枝葉をかき分け、外に向けて顔を出す。確かに、この場所にこの大きさの木だ、観測台からとは角度が大きく変わってしまうが、周囲の地形が驚くほどよく見渡せた。しばらく特定の魔力を探知することに時間をかけ、目的の場所の確認を取って、ようやく振り返る。
「なにって、木だよ。霊木だけどね」
「そんなことはわかっている」
「不審な目で見ないであげてね、かわいそうな子だったんだよ」
大体の予想はついていたが、奴の話はこうだった。とある霊木が死した後、それが残した苗木をこの丘に植えた、が、そいつは元々欠陥があった所為か、もしくは植えられてからの数年間、地域全体が大規模な干ばつに見舞われた所為か、とにかく要因をひとつに特定するのも難しい程の不運の重なりの結果、生き延びるために周囲の動植物の魔力を見境なく奪っていったらしい。それはやがて此処に湿潤さが戻り、他から奪う必要がなくなっても続き、街の人間は子供が近づくことを禁止した。……魔導に精通し、それなりの対処を心得、かつ精神的に確立された大人であればともかく、未熟な子供は霊木の魔力に惑わされ、近づいた瞬間根こそぎ持っていかれてしまうのだとか。
「でもそれはもうずっと昔の話だよ。僕が生まれた頃にはもう一種の怪談話みたいになっていたらしくてね」
何が奴の好奇心を刺激したのか、噂を聞いて、直ぐに此処へ来てみたのだと奴は言う。近づくにつれて、荒れた地面に小鳥一匹囀らない状況に噂の確証を得つつも、木の側まで足を進め、はじめましてと挨拶をしたというのだから、本当に呑気な男である。
「何ともなかったのか?」
「君は今、この木から何かの危険を感じてる?」
「……いや」
己の勘は鈍っていない。殊、魔力に関する洞察はあのサタンにすら引けを取らない自信がある。それが警鐘を鳴らさないという事は、過去はともかく、今は無害なのだろう。
「もしかして、もうくたばってるのかこいつ」
「まだ息はあるよ。もう一度、昔のやり方を思い出させてあげたら元気になる」
「…………」
長い年月をかけて蓄えすぎた魔力だけで、今は僅かに呼吸をしている。……らしい。何時になるかはわからないが、そのうちに魔力が枯渇すれば、それが最期だ。他に生き物ひとつ側にないまま、ゆっくりと枯れていくに違いない。
幹の天辺に触れてみた。恐ろしいほどに凪いだ魔力だった。ただひたすら、根から枝葉へと駆け巡らせては体を支えるだけを繰り返している。不幸なやつめ、と小さく呟きながらも、自分の中に沸き立つ興味も幾らかあった。あまり美味い水ではないかもしれないが、触れたところから己の魔力の弁を外側に向ける。空気の振動を自分でも感じられるようになる同時に、ぱしりと手首を掴まれてそれを阻まれた。
「もうこのまま、休ませてあげてほしいな」
ゆるゆると首を横に振っている。穏やかな調子は変わらないが、何処か泣きそうな声にも、聞こえた。
「かわいそうな子だったんだよ」
念を押すように再び告げられる。何が其処まで、奴を動かしたのかはわからない、わからないが。自分ではかわいそうだと口にしながらそれを他人には認めさせない、奇妙な慢心を其処に見た。
掴む指を次第に放しながら、解放されたその手で奴の額を小突く。少し崩れた表情の奥から読み取ることを他にはしなかった。どうせ慢心と同じだ、気付いたところで自分ができることなど何もない。きっとよくわかっているだろう事をわざわざ指摘するのも癇に障る。だったらもう、見ないふりをして蓋をしてしまえばいい。
幸い、人は忘れることだけは多分に得意な生き物だ。
慎重に下りたった地面の上は、強い日差しでまた元の乾いた姿を取り戻しつつあった。思った以上に時間を喰ったと文句を言えば、夕方までには終わらせられるよきっとなんて根拠もない言葉を紡ぐ。
まるで親しい友人が其処に居るかのように、奇怪な木をしきりに見上げている奴を認めながら、振り払うように踵を返した。足取りは緩やかではあるが、きちんと後を追ってきている。だから、一瞬だけ足を止めて、振り返らず、出来る限りあっけらかんとした声を出した。
「雨季が終わったらな、乾季が来るんだよ」
「え?」
「俺の生まれたところではそうだった」
だからいつだって生き物のすることは同じだ。次の乾季に備えて、水を蓄える。そうやっていつも満たされない。でも満たされないことがどれほどのものだろう。そしていつか全て満たされたときが来たとして、本当にそんな日を待ち望んでいたと心から言えるのだろうか。
お前はどうだよ、彗星の魔導師。
尋ねてみたいと思ったのは、恐らく答えに悩む姿を見て、笑ってやりたかったからだった。
慈雨の下で喉を開く
お題頂いてかいたものでした。なのにかすりもしてなくて私がびっくりしている。
雨季が終わったら乾季が来るんです。みんな賢い生き物なんです。
レムシェはわりと二人とも、知識的なところには無駄に造詣が深そうなところがなんかもえます。魔導知識談義してほしい。カミュ先輩もどうですか。