君はいつも変わらない、何に頭を殴られても、何に心臓を潰されても、君は何だかいつも、変わらない姿のままで其処にいる。それは君の強さだろうか、それとも誰にも想像がつかない程、君が頑固なだけなのだろうか。
ひどく曖昧な夢を見た。身体が熱かった所為か、からからと廻る車輪の音がして、不可思議さが、如何にも止まらず加速して熱を持ったと言わんばかりに己を責め立ててくる。
それは弱さなのか、それとも、それとも。
替えになる言葉が耳を通り過ぎていったとしても答えにはならないものだ。詰られても動かない心しかない。では何にずっと動かされてきたのかと訊かれても、ひどく曖昧な夢だった。緩やかに地面に擦りつけられた其処から火花は走って、簡単に燃え上がることだってあるのに、うまくいかないところは一向にその気配すら見せないのだから、本当に、不可思議で。
ハンプティー・ダンプティー、塀の上
急激に重力のなかへ戻される感覚がして、目が覚めた。見慣れない天井の下だった。真っ先に耳へと飛び込んできた、陶器のかちかちとぶつかり合う音の方へ視線を動かして、此処がどこであるのかを悟る。
「あ、目が覚めた?」
視線に気付き、机の上に置いてあったカップを静かに持ち上げ、眼前に突き出してきた男の手は、珍しく手袋をしていない。袖を大きく肘のところまで捲り上げていて、指先は少し、濡れているようにも見えた。
「これ、お薬だって貰ったんだけど」
「……卵酒」
「やっぱり?ちょっとそんなにおいがしたんだ」
飲める?と、首を傾げて律儀に尋ねてくるから、寝転がっていたソファーに手をかけて上半身を起こす。空いていた片方の手を伸ばしてカップを受け取った。染みひとつ付いていない白磁のカップから漂っているにしては不似合な、鼻につく僅かなアルコールと、卵の独特の臭みも気にせず一気に飲み干す。そういえば、プリンプに来てからは一度も口にしていなかった。そもそも、これをきちんと作れる人間も限られているというもので。
「……ウィッチか」
「そうだよ。こっちの風邪薬でいいものか迷ったから」
何故か妙なところには気が回るらしい。久しい味に郷愁の念が湧くほど感傷的な性質はしていないが、嫌いではなかったことをようやく思い出したようで複雑な気分になる。飲み干したカップは再び差し出された手に収めて、男が部屋から出ていくのを見送った。扉が開け放たれた瞬間に漂ってきた甘い香りが、奴とカップの行き先を告げている。部屋を出て更に奥の方にあるという厨房には、未だ一度も足を踏み入れたことはなかった。
立ち上がる。気怠さはあるがこの程度なら問題はないだろう、そんなことよりも腹が減っていた。
「……菓子しかないのかよ」
「いやだって、お菓子作るための場所だしね?」
「材料くらいは」
「僕、お菓子以外はあんまり作れなくって」
「……使えねえ」
「ひどい言いぐさだなぁ」
においだけで胸やけしそうな厨房へと足を踏み入れて、不躾に食糧庫を開いて、呆れられながら自分も呆れた。菓子で腹を満たせるような舌は持っていないし、鍋もあるのに、こういうときカレーがないという文化は不便だとかどうでもいい八つ当たりも頭の中だけで行う。魔導技術が使われているのだろう、ひんやりとした食糧庫の中にはまさにケーキやらクッキーやらを作るためのもの、もしくはそれそのものしか入っておらず、この空間に居るだけで毒されそうだとうんざりとした気分になった。
「もうすぐケーキ、焼き上がるけど」
「要らん」
「だよね」
それなら、と出してこられた案は、表で店をやっている店主の下から食材を借りてくること。代わりに店で何か買っていけばいいよとまで付け加えるあたり、成程やはり妙なところには気が回るらしい。
「ところで、何を作るのかな」
店主のわりに適当な返事を聞いて、別の食糧庫を漁っている後ろから男が問う。興味でもあるのか、此方が引き出した諸々を見比べて珍しく素直に首を捻っている。菓子作り以外に頓着はなくとも、当然としての料理知識くらいは舌で知っているのだろう、それなら疑問に思う体もわからなくはなかった。はやめに駄目になりそうなものばかりを選んで、少しだけ贅沢さを含んだ肉なんかを引っ張り出して、何の抑揚もなくそれに返事をする。
「ぜんぶ鍋にぶち込む」
「えっ?」
「火通して塩でも振れば大抵のものは食えるんだよ」
「……塩」
「塩」
砂糖に慣れた舌には、天敵とでもいうべき名前か。なのに、じゃあ僕も一口頂いていいかなぁと、義務のようにおどけた調子で掛けられた声に顔を顰めた。別にどうでもよかった。ただ、男の態度だけがひどく気に食わなかった。
厨房の開いた窓から外の様子を窺った。今日は妙に人が多いなと思っていたら、イースターだからね、と軽い調子で返された。……一応、此処の蔵書で読んで存在自体を知ってはいる。
「僕の町とは開催時期が違うんだよね。今年はプリンプの方がはやいんだ」
訊いてもいないことを答えられた。風と共に入ってくる声の類は、子供のものが殆どだ。遠目に姿自体は大人も見かけるが、子供の声はよく耳に刺さる。
「タマゴ料理も食べてみる?」
「鍋に突っ込むってか?」
「それはちょっと……せっかくだし、僕が作るよ。そっちで火を使わせてもらえるなら」
鍋を煮立てる隣を指し示し、首を傾げる男の意図は相変わらずよくわからない。
「菓子以外は作れないんじゃなかったのか」
「イースターで作るものは毎年作ってるから。ああお菓子もね、お祭りのぶんは君が起きるまでに作ってたんだ。僕はプリンプの人じゃないけど」
ならば祭りに託けたいのかと、底の深い鍋に食材を無造作に放り込みながら尋ねてみる。湯を張ったもうひとつの小さな鍋へ形の整った卵を丁寧にひとつずつ落としながら、男は曖昧に微笑むだけだ。
「たくさんの同じ形のクッキーの中にね」
しかし訊いていないことは幾つも舌の上を滑らかに動く。
「ひとつだけ、形の違うものが入っていたとするよね?それが例えば、他が星で、それだけハートとかなら、ちょっと特別」
「話は読めたぞ。……それが何かの形とみなされないものなら」
「それは異端」
「フン、くだらないたとえ話だな」
「もっと具体的な方がよかった?」
「お前の意地の悪さはサタン並みだ、よかったな」
隣の鍋から引き上げられていく卵を横目に、嘲りを含めて言葉を返す。滑らかに舌の上を動くのは此方とて同じだ。今更そのやり取りの中に、少なくとも自分は、何かを守る必要などない。
「俺はそういう奴が大嫌いだ」
大仰に肩を竦めて困ったように眉を顰める奴の手には、ひとつだけ、形が崩れて中身の漏れ出た卵があった。何も言われず、何も訊かず、当たり前のように戸棚から引き出された別の皿の上に隔離されていく。
味気のない飯はいつものことだった。誰かに食わせる気も無ければ、自分が満足することにも希薄で、望むことが増えれば増える程自分の首を絞めていくことになるということも、よく知っている。カレーがあればなぁと、此方に来てから口癖のように言い続けているアルルの事を思い出した。塩で茹でた鍋のなかのそれらを深めの皿に移しながら、今更ながら同意できると思った。
ふたつめの皿にも少しだけ入れる。
「……これは」
部屋に戻り、奴が作った色とりどりのゆで卵と並べてスプーンを扱う。ひと口、入れた瞬間に苦笑いと共に吐き出された言葉にロクな感慨も湧かない。
「マズいんだろ。はっきり言え」
「いや、食べられないわけじゃないよ」
「前にも同じことを言われた。今更気を遣われた方が腹立つ」
味気のない深皿に反して、ゆで卵に添えられている各種の調味料は、甘みのあるものに偏ってはいるがどれをつけてもそれなりに旨かった。殻を剥いて中身に齧り付きながら特に何を話すにも思いつかずに窓の外を見遣る。木の葉と、クラッカーの中身のような四角く切り取られた色紙やビニールの糸くずが、風と共に部屋へと舞いこんできていた。
「食べ終わったら外に出てみる?」
提案は、いつも部屋の主からだ。此方から何かを持ちかけたことはいつもない。なのにいつも自分の身振りを確認させられるかのようにそこに映る。
「どうせ此処を出るときに嫌でも目に入るだろ」
外ではひとりの子供が、別の子供とぶつかりあって転んでいるのが見えた。手にした赤色の卵を落として、慌てて拾い上げて、泣いている。割れでもしたのだろう、しかしすぐに隣にいた誰かが自分の持っていたそれと交換をして、頭を撫でながら子供を慰める。
よくある光景だ。
「きっと、いっしょに廻った方が楽しいのに」
本当に惜しいと言わんばかりの声音だ。それが演技なのか、大袈裟なのか、それとも本心なのかの区別はつかない。そうやって促すだけ促して、奴が何をさせたいのかも結局わからなかった。わからなかったから削り取った己の表面が癒えるまでは、あとしばらく時間もかかるだろう。
「君はできると思うよ」
「お前はできないとでも言うつもりか?」
「いいや。云ったよね、特別になるんだ」
「異端から」
「そう」
「それで良いのか」
「悪くはないよ。少なくともこの易しい世界では」
「違う、お前はそれで良いのかと訊いている」
石畳の上で、車輪が回る。がらがらと擦れる音が前へ、前へと人を動かす。
何に動かされてる?何に転がされてる?ハンプティー・ダンプティー
キミを壊すものはなに?
キミの背中を押したものはなに?
どんっ!!!!!!!
その次の瞬間、わぁっ、と起こった歓声と共に何かが弾ける音がした。危機感を煽るような爆発音だった。思わず身を竦めて窓の外を見遣る。
「な、なんだ?」
「ああ、そろそろ花火の時間なんじゃないかな」
「……そんなものもやるのか」
「お祭りだからね」
あと数日は、この喧騒が町の中ならどこでも続く。断続的に聞こえてくる多種多様な音という音に嫌気が差して、窓を閉めた。それでも閉じた部屋の中に微かな雑音は流れてきて、どこへ行っても静寂のないことを思い知らされる。
キミの背中を押したのは
息を吐けば、眩暈がした。そういえば体調の芳しくないことを思い出した。あと一眠りすればきっと元にも戻るだろうが、忘れていたのが不可思議だ。ああでもこれは、曖昧な夢の続きだったのではないかと納得もする。
「よくはないかなぁ」
男が笑っている。否、笑うことしかできずにいる。自分は知っている、もともと其処には何もなくて、ただ自分達だけが居た。引き摺った跡が後ろには残っていた。たったそれだけであらゆる言葉を履き違えて、全てを嘘に変えたところで今更な程、互いの身は削れている。
それでも動けない、譲れないものとは一体何だったのだろう。
「だから、お祭りが過ぎるまで此処に居てもいいよ」
「……それで、お前に利は?」
「僕も此処に居る理由ができる」
「俺に利は」
「少なくともその間は、ゆっくり眠っていられると思う」
それが優良な交換材料になるのかどうかなど、明白な筈なのに。掲げては傷付いているのが不可思議で仕方がなかった。
知りたいことは今も一つだ。お前にとって俺とは一体何だったのか。
勿論、擦り減らした分だけわかったこともある。だがそれをお前に確認して、お前が頷いたことはひとつもない。肯定も否定も貰えない。曖昧な返事だけが地面に落ちたら、それはまるで死んだもののようにして土を被せてなかった事にしていく。
俺は、お前が嘘を吐いていたことはわかっている。けれども何故嘘を吐いてまで、この不可侵の世界に俺が足を踏み入れることを許したのかは、知らない。わからないのだ。
奴の手に握られたフォークが深々と、最後の卵を突き刺してふたつに割る。中身はいつでも黄色であることを知らないはずはなかった。
ハンプティー・ダンプティー
「コースター」「オアシス」からのいちおう続きものです。
先二作を書き終ってしばらくしてから、「ああこれはシェゾ視点書かないと駄目だな」と思い、これを書き終えたあとは「レムレス視点かかなきゃダメだな」って思っているから本当にややこしい話です。でもあと一作で一応は区切りがつくと思います。