割らせてしまったガラス瓶の行方が気になった。それが何かしら一瞬の躊躇いや、戸惑いや、そういった類のものを受けた事だけは理解して、閉口する。どうやっても巻き戻らない一瞬と、何度巻き戻しても同じ結末を辿るだろうそいつと。
自分のものではなかった。ただ近くにあったから目に留めて、特に華美な装飾もなければ目立った特徴もなく、他の調度品のなかに地味ったらしく隠れていたのでそいつならいいかと思っただけだった。たったそれだけで選んだそいつが、選ばれた瞬間に呆気ない音を立てて終わってしまったことに、特別な感慨を抱いたわけでもない。
だがそいつはもう二度と、その時と同じ姿で俺の目の前に現れることはないのだろう。
魔導学校で何故かルルーと会った。お前こんなところに縁があるのかと訊けば、生徒に護身術を教えるよう頼まれたのだという。頼まれたからと云って大人しく引き受けたというのが意外だった。見た目も態度も妙に上から押さえつけてくる感があるから子供ウケはよくなさそうだなと思っていたら、あんたも一応魔導師の端くれなんだったら慈善事業のひとつでもしてみたらどう?なんて、余計なお世話なことを言われた。
「お前は慈善事業をやっているとでも?」
「当然よ。依頼の引き受けに見返りは特に求めてないわ」
「それも意外だな。お前ならふんだくりそうなところを」
「理由を知りたいんじゃなくって?」
「別に?」
「あらそう」
集まる生徒たちに向かって口を開く。遠目から見てるだけでもいつも通りだ、高圧的で容赦がない。子供だからといって甘やかしたりもしない。特別扱いする相手も作らない。感情的で、恋をしている相手だというサタンを相手にすると直ぐに諸々の冷静な判断基準を失う癖に、どこにも矛盾を見出せないのは今でも奴の不思議なところだ。或いは、自身の中に客体をひとつも持たないが故のその身なのか。自分には一切の理解ができない存在なので、とことん話は合わないが、その一点だけは感心に値すると思っていた。
「そういえば、あんた暇なの?」
授業を始める前に、ふいと掛けられた言葉に視線だけを持ち上げる。
「まぁ、今日は特に」
「だったら」
岩すら砕けるとは思えない程滑らかで整った形をした指先が、たった今校舎から出てきたひとりの人物へと向けられる。その人物は、此方に気付くとにっこりと笑みを浮かべ、軽く会釈をしてきた。確か、アコールとか言う、この魔導学校の教師だ。此方に飛ばされてきたばかりの頃に一応、面識は持っている相手ではある。
「なんだよ?」
「優秀な魔導師のお手伝いが欲しいんですってよ」
優秀、お手伝い、の部分を無駄に厭味ったらしく強調しながらルルーが目を細めて笑みを浮かべる。直ぐに睨み返して返事をしてやったが、
「こんにちはシェゾさん、ルルーさん」
と、場の空気にそぐわない穏やかな口調で挨拶をしてきたその教師に、毒気を抜かれてしまった。
人に教えるという行為が得意とは言えない。好きだとも言えない。昔から、教師という生き物は自分と真逆のところにいる存在だと思っていた。片手で開いた教本を離せないままなら、価値のある存在でもなかった。
言葉は尽くすのも尽くされるのも面倒で、しかし口にしなければ伝わらないことばかりだ。どうしてこればっかりは解法がないのだろうなんて、当たり前のことに憤っては苦味を覚えるのもいい加減に飽きて、その時はじめてあの手離せない教本の普遍に気付いた。うまく頭を揃えることはできなくとも、如何にも均等で変わらない質を差し出す有用性を知った。あれは博愛でもなんでもない、もっと無機に動く部分があってはじめて価値のある存在だった。
「授業を任されたと聞いたぞ?」
その日は雨が降っていた。細かな水の粒がゆるやかに地面を濡らしているその間は、恐らくどこも人通りは少ないのだろう、日課らしい散歩をする気分にもなれなかったか傍迷惑な魔族の王は、雨宿りだとか言って洞窟の中まで踏み込んできた。追い返すのが面倒になったのは、別のことで手が離せなかったからだ。
「誰に聞いた?」
「ルルーにな」
「成程、あの学校にあいつを送り込んだのもお前だろ」
「無理に行けとは言っていないし、承諾したのは本人だ。私がけしかけたみたいに言われるのは心外だな」
「白々しい」
机の上には、幾つも紙が散っている。魔王の視線がそれらをじっくりと眺めて、愉快そうに細められた。公平は難しいな?と、まるで子供を慰めるように頭を上から撫でつけられて顔を顰める。咄嗟に振り払おうと持ち上げた腕は、案外容易くそれを弾いて距離を作った。魔王はまだ紙面を見つめている。黒のインクと赤のインクの踊るその表面は、如何にも幼稚に映ったであろう、しかし奴には覚えのある内容でもあったはずだった。どの紙面にも同じ文章と、何等かの植物の絵が描かれている。
「久々に私も試したくなってきたな」
大きな独り言は最終的に無視を決め込んだ。それでも特に不快になるでもない時は、相手の機嫌が良い証拠だ。雨はしばらく止みそうにはなく、雨宿りと称した気まぐれはまだ続きそうではあったが、今のところ己に害を為す気配もなく済みそうである。
種と植木鉢を渡して、一番はじめにその課題を自分に突きつけてきたのは奴だった。廻り巡って同じように、種と植木鉢をあの餓鬼共の前に突きつけた、今の自分は果たして無機の義務を果たせていたのか、否か。
「……闇の魔導師………」
何か、恨み言のような念の籠る声が背後から聞こえた。プリサイズの蔵書館内、というその状況下でそれが異質なものであることは疑いなく、手元の本から目を離して声の方へと視線を投げる。
「何の用だ、オカルト娘」
「べ、つ、に……」
此方の腰ほどにしか届かないその頭が揺れて、隣に並び立つ。どうやら自分ではなく、その向こう側の本棚に用事があったらしい。よろよろと抱えていた脚立をその場に下ろし、足を一段目に引っかけたところで、睨むように淀んだ目を向けられた。小さな声で一言、はなれなさい、と、追い払うように手を振られる。僅かに肩を竦めて二、三歩下がった。小さな身体は脚立を上り、慎重にバランスを取りながら本棚に接する。
「なんだ、その高さなら取ってやらんでもなかったぞ」
思わず口を挟んでしまったのは、恐らくあまりにも慣れない様を目の前で見せられたからだろう。
「結構よ。なんでアナタなんかに頼まなきゃならないの……」
「それもそうだな。要らんことを言った」
「……バカにしている、のね?」
「別に?」
「そうなんでしょう。アタシ、アナタみたいな人を知ってる……比較、差分、他人との区別を傲慢で測っていなければ……いつまでも迷子のままのカワイソウな大人たち」
「はあ」
「何れ破滅するワ、アナタ。結末くらいは、選ばせてもらえるといいわね……」
一冊の本を手に取り、それはするすると目の前に下りてくる。そのままもう一度、本を手にしたまま脚立を肩に担ごうとするのを見咎めて、次は自分が使うから其処に置いていけと言った。暗く淀んだ目が微かに笑う。
先に此方が其方を馬鹿にしたのだというなら、きっとその仕返しを受けたのだろうということは理解した。理解しつつ、残されたそいつの上に腰かける。床から離れた足をぶらつかせて再び手元に目を落とし、誤って本を閉じてしまっていたことに思い当った。
街の中を忙しなく駆け回っているアルルを横目に欠伸を洩らす。天気の良い日というのが妙に苦手だ。気分の問題ではなく、この世界は、この場所は、どうにも小煩い。腰かけたベンチの脇では先から飽きもせずカーバンクルが躍っており、それにつられて小さな餓鬼共が群がってきても居た。何とも言い難い状況だ。
「それにしても、今日は妙に騒がしいな」
昼休憩だとベンチに戻ってきたアルルから渡されたサンドウィッチを齧りながら、右から左、左から右へと視界を流れていく人通りを眺める。アルルが手持ちの分を全て口に放り込んで、きっちり二十回咀嚼し喉を通した後にけろりとした様子で答えた。
「なんかね、商店街のお祭りがあるんだって」
「祭り?」
「うん。だからボクもいろんなとこからお手伝いしてって言われてるんだけど」
成程、だから今朝方ウィッチの店に行った時も妙に慌ただしかったのか。自分が店を出ると一緒にあれも意気揚々とどこかへ出かけていったはずだ。何か、薬の材料になるものでも探しに行ったのかもしれない。
「まぁでもお客さんも普通に来るからねえ。お店が本格的に準備するのはたぶん夕方になってからだよ」
「別にそんなことは聞いてない」
「シェゾもたまにはお手伝いとかしたら?」
「余計なお世話だ。やらないとは前にも言ったはずだぞ」
「キミってへんなところで頑固だねえ」
「放っておけ」
「うん、放っておくよ。でもたまには良い気晴らしになるかもだよ?」
笑ってそう言いながら、今度はアルルが大きな欠伸をした。目を擦り、如何にも食事の後で眠そうにしつつも、広場に見える大きな時計の針が一巡りしそうになっているのを認めて慌てて立ち上がる。休憩時間が終わるらしい。それに合わせて自分もベンチを立った。いい加減そろそろ目当てのものも戻っているに違いない。カーバンクルを呼び寄せて此方に手を振るアルルを一瞥し、そのまま街を後にした。
すっかり常連になったプリサイズ博物館の入り口で、クマのあくまと言葉を交わす。と、言ってもいつも二、三言で終わるような会話だった。膨大な資料の中から自分で目ぼしいものを探すのも良いが、目的がはっきりとしている場合はこの館長たるあくまに訊く方が手間はない。効率は重要だろう、先人の知恵は可能な限り利用すべしとは、遥か昔に誰かから学んだような、気もするようなしないような。
昔の事などどうでもいい。
「また、そなたま」
「予約を入れた資料、今日が返却予定じゃなかったか」
「そのとおりま。ちょうど、そこによういしてあるま」
示されて、カウンターの脇を見る。今から棚に戻されていくのであろう、返却された本たちが几帳面に並べられている。背表紙が一斉に眺められるような状態のそれらから、目当てのものを見つけ出すのは容易かった。抜き取り、館長の前に突き出して貸出の約をする。小さなカードに自分の名前と本の題名を書きつけ、少し離れたところで順番を待っている角の生えた亜人の娘にカウンターを譲った。そう言えばそいつも、あの魔導学校の生徒なのだったか。校章らしい、白い羽根のモチーフを胸につけている。学校で学ぶ餓鬼に混じってご丁寧に列を作り、カードに名前を書いているなんてのは改めて考えると如何にも異様さを感じるが。既に枚数を重ねてつい最近、5枚目になったそのカードに並ぶ己の文字をじっと見つめて、僅かに目を細めた。自分は別に、悪党の真似事がしたいわけじゃない。
昔の事はどうでもいいと言った矢先に思い出した。人を騙すには潔白すぎるよと。真面目って、どういう人間のことを指すのか知ってるかと。困ったように告げられた日の事を。今みたいに少し日の傾いた、涼しい昼下がりのことだった。
「明日は晴れですよ」
後ろで控えめな声のあと、良いことくま、と、館長の相槌を打つ声が聞こえる。思わず足を止めて、建物の入り口から空を見上げた。少し白んだ青が広がっている。そのまま視線を下ろして一歩踏み出すと、腰の辺りに何かがぶつかってきた。相手側の力が抜けている証拠だろう、それなりの衝撃に少しよろけて睨むような視線を送ると、のんびりと眠たそうな青い瞳と、赤い瞳に出会う。不可解なほど真っ赤で大きなそいつの左手の指先には、真っ赤で大きなトンボが止まっていた。
ぶつかった衝撃に驚いたか、トンボは羽根を震わせて指先から離れて行く。あーーと緩慢な声を上げた左右非対称のその子供は、追いかけるように足を二、三歩進めてしかし、直ぐに歩調を弱めていって立ち止まる。そのまま飛び去るトンボを見送った。姿が小さくなってようやく見えなくなったところでくるりと振り返ってくる。相変わらずの無表情で感情は読み取れない。
「な、なんだよ」
責任を問われると咄嗟に脳が判断してしまい、表情が険しくなった。だが全く意にも介していないのかあっさりと視線は逸らされ、子供は己の脇をすり抜けて行く。
「おい待てっ」
何故呼び止めようと思ったのか自分でもわからず、まさに逃げ去る者への条件反射のごとく声を上げた自分に半ば驚きつつ、小走りで過ぎ去ろうとするそれの姿を確かめた。ぴたり、と、不自然な程急に立ち止まったそいつは、しかしやはり緩慢に振り返って首を傾げてみせる。
「おにーさんも、トンボ、つかまえる?」
「はぁ?」
間の抜けた声と的外れな内容に、此方も気の抜けた返事しか返せず、同じように首を傾げた。
「たのしい?かも」
「……別にヒマしてるわけじゃない」
「そうかー?そうなのかー」
なんとも調子の狂う餓鬼である。どうにも自律的な発言ができていないというか、そもそも自律を行う程の中身をごっそりと失くしているというか、とにかく奇妙だという感想が付き纏う。ばたばたと駆けていった先で、トンボではない別の虫を木の幹に見つけ、そちらに気を取られている様子をため息と共に送りながら、本を抱えて帰路に着いた。
気付けば夜中だった。陽の光も殆ど射さない洞窟の奥だから、明かりも灯していなくて真っ暗、ということはなかったが、ひどい空腹だった。のろのろと椅子から立ち上がり、何か飲み物を、と、小さな棚の中から茶葉とカップを取り出したときだった。横着してコースターごと挟み込もうとしていたのがそもそも間違いだったのだろうが、覚束ない指先がカップをつかみ損ねて、するり、と、音も無くすり抜けていこうとした。
感慨はなかったのだ。割らせてしまったという妙な感覚が頭の片隅に引っ掛かっていても、それは義務のような罪悪だった。落ちたら二度とは元に戻れない、それを幾らも知っている。知っているから俺は落ちない、落ちられない、その事を誰かと共有することもきっとできない。
ぽっかりと空いた戸棚のあの位置には、次に何が入れられるのだろう。そいつは、二度と元には戻らないあいつと同じだなんて、誰が云うだろう。
あとは殆ど無意識だった。もう片方の手で持っていた茶葉の缶を床に投げ捨て、身を滑り込ませるようにして落下しようとするカップを掴んだ。片膝をついて、なんとか事なきを得たそれをまじまじと見つめて、そろそろと机の上に置く。放った缶が椅子の下に転がっていた。瓶に詰めてなくて良かったと息を吐いたところで、腹の虫が戦慄いた。
ああ後悔している。それが一番正しい表現だと思う。乾いた喉と一緒に唇を開けても栓はない、空っぽになっても居場所だけは守っていた、きっと、俺も、あいつも。
落ちられないグライダー
スターマンのシェゾ視点とでもいうべきなのかなんなのか。
一度もレムレス先輩の事をはっきりと表記しないシェゾは多分レムレス先輩のことが掴めてないんだろうなと思いつつ、はっきりシェゾの事表記しないレムレス先輩は敢えてそうしてるんだろうなと思いつつ。