理由を考えている。必然と、それははじまりを想起することにつながるのだろうか、それなら、はじめは一冊の本だった。奴が持っていた古くてボロくて分厚い魔導書だった、俺はそれに惹かれた。問うまでもなく奴の私物で、確かめるまでもなく貴重なものだとわかったから、俺は歩いて、声を上げて、奴の名前を呼んだ。

「レムレス!」

彗星の魔導師。学生の身分ながら既に一人前として認められ、活動をしている、この世界に於いては天才……と評される魔導師。確かに、実力なら俺もそれなりに認めるところで、ついでに魔力の質も悪くない。だがどこか呑気でつかみどころのない、飄々とした態度はどうにも苛立ちが勝る。それがレムレス、彗星の魔導師。初対面の時から俺の中での奴の印象は今もそのままだ。

声に気付き、顔を上げ、俺の方へと向き直った奴の表情は多少の驚きを含みつつも、直ぐにいつもの緩い笑みにかわった。何か御用かな、闇の魔導師さん。出方を探るような声音を無視して、俺は奴の抱えていた一冊の本を、魔導書を指差した。
「それ、」


何と言ったのだっただろうか。それ、は、お前の物か、は、問う前から。それ、は、魔導書か、は、確かめる前から。知っていた、だから訊くまでもなかった筈だ、実際にそのような問いかけをした覚えはないし、だとしたら、中身を見せろと言ったのだろうか、それともそいつを貸せとでも言ったのだろうか。


「それ、」
あ、いや、……たぶん、違う。
「お前の家にあるのか?」

靄のかかった記憶の中から、脳に直接響く己の声を暴き出す。そう、俺はあの時確かにそう訊いた。何故なら俺の興味は、その一冊の魔導書から見出した、その背後にある更に大量の蔵書物の姿へと向かっていたはずだったのだから。






























コースター































壁に備え付けられたその本棚の中身は、端の方に見られる幾つかの隙間を除いて上から下までぎっしりと詰め込まれている。それなりに系統も整えられて一体感のあるその一方で、部屋の中は簡素だった。とにかく、物が少ない。机の上に文房具、申し訳程度に置かれた戸棚に時計やよくわからない置物が飾ってある以外は、小さなソファーの上に上着を引っかけて散らかす以外の事もやりようがない程にすっきりしていた。レムレス曰く、「あまり部屋に居ないからねえ」とのことだったが、それはなるほど一理ある、と安易にシェゾも頷く。旅をしていた時間の長かったシェゾにとっては別段珍しいと思うものでもなく、初めに訪れたときに物が少ないなと一瞬思ったぐらいで、それから部屋が気に掛かることは一度もなかった。

「もし気になる本があったら、持って行っても構わないよ」
本棚に張り付き、引っ張り出してページを捲り、そのまま床に座り込んで何時間もその状態になるシェゾを気遣ってのことだろう。勿論くれてやるというわけではなく、貸出を許可するという旨の発言である。しかし、文字を追う目をゆらりとレムレスに向け、シェゾは少し眉根を寄せた。
「どうしたの?」
「……いいのか?」
「うん。クルークやフェーリにもよく貸してるしね」
特に期限も定めず、読み終わったら返してくれればいい。2人の名前を例に出し、彼らもそうしてやっているのだと言ってみたが、やはりシェゾはあまり面白くなさそうな顔をするばかりだった。何か不満が?レムレスが首を傾げて様子を窺っていると、ようやくシェゾは口を開いた。

「お前に施される理由がないんだが」
「理由?」
「端的に言えば、対価がない」
「別に気にしなくてもいいよ。見返りが欲しくて貴方に貸すわけじゃないんだし」

彼にしては、それなりに考えて出す言葉を選んだ方なのだろう。妙なところで律儀な人だと思いつつも、レムレスはやんわりとその言葉を躱す。それでも納得がいかないのか、シェゾが居心地悪そうに表情を歪めているのを見て、レムレスも少し考える。ぱらぱらと紙が繰られる音だけが耳に届くその間を経て、あ、とようやくレムレスが声を上げた。
「じゃあ本を借りに来るときは、お菓子食べて行ってくれると嬉しいな」
「……はぁ?」
「いっぱい作るんだけど、食べてくれる人があまり居ないからいつも余っちゃうんだ。此処に来たときだけでいいから、本の吟味しながらでも摘んでいってくれないかな?」
然も名案だというように表情を綻ばせたレムレスに、シェゾは先までの苦々しい表情ではなく明らかな困惑を示し、そして何かを払い落とすように首を横に振った。おかしい、それはおかしいだろう。今度は、思わず、といった呈で言葉を零した。

「それ、結局俺が貰ってばかりじゃないのか」
「でも僕は助かるよ」
































部屋に行けば、何時も菓子が待ち構えている。質素で殺風景な部屋の真ん中、決して広くない机の上に、クロスを広げて所狭しと皿を並べてついには茶まで用意し出した。俺は何をしに此処へ来たんだっけか、と、額を押えて目的を見失いそうになりつつも、シェゾは胡乱げに目を細め、睨むようにして部屋の主を……レムレスを見た。何処か楽しげに机の上をアフタヌーンティー状態に変えていた彼は、振り返ったところでようやくシェゾが部屋に入ってきていたことに気付いたらしい。いつも以上に表情を緩めながらいらっしゃいと一言、流れるように椅子まで引いて完全に歓待の態勢だ。これも、日を追うごとに段階が上がっていた。

それでも笑みを見せないだけ、機嫌の悪そうな顔をするだけで、レムレスの引いた椅子に座り、以前借りた本を返し、机上の菓子を摘みつつまた新しいページを繰り始める。並べられる菓子もどんどん種類が増え、手間のかかるものが並ぶようになっていて、クッキーやマシュマロといった細かく摘みやすいものから、パイやケーキ、タルトやゼリー、プリン、アイスなど、スプーンやフォークを使うものまでとにかく豪華になっていく。毎回違う組み合わせで出してくるのだからそれも驚きだ。

……こいつ、菓子のことになると妥協できないのか。

出されたものに外れはなかった。食べすぎると胸やけしそうな程度にはどれも甘いという特徴はあるが、幸いなのかそれともこれは不幸だったのか、シェゾは甘いものが嫌いではなかった。中でも、外側の生地から自分で焼いて作ったとレムレスが得意げに語ったシュークリームは、本当に本来の目的を忘れかねない程シェゾの舌によく馴染み、それを看過されて後日もう一度作って貰った挙句、持ち帰り分まで与えられてしまった。



借りた本を寝台に置き、戻った塒でもそれをひとつ頬張った。どこで食べても美味さは変わらない。流石にクリームが重たいので数は食べられそうにないが、あの部屋に行く頻度で食べるのなら毎回貰っても文句などないレベルだ、と、ひとりで納得しひとりで完食して、シェゾは複雑な気分になった。

いや、いやおかしい。これは何かがおかしいだろう。まるで餌付けされているみたいだ。いや、断じてそんなことは、ないのだが。














重ねるごとに重くなる足取りは、当然と言えば当然だった。明日行く、次はいつ行くなんて特にレムレスに伝えたことはなかったが、本を読む速度と日数の間隔を覚えられてしまったのだろう、最近では赴いた時には既に部屋が整えられていることが殆どで、シェゾはやはりどうしようもなくて苦い表情を浮かべるしかない。おとなしくいつも通りの作業を行ってはいるものの、シェゾが明らかに居心地の悪さを感じていることは流石にレムレスもわかっていたらしく、互いに顔を見合わせると大仰に肩を竦めてみせる。しかし同時に、少し控えめながらもきちんと飲み物……最近はこれもシェゾに合わせてカフェオレが定番になりつつあった……を勧めてくる辺り、結局のところ彼も引っ込みがつかなくなっているのだということは容易に理解ができた。



疑問なら、最初に自分から口にした。理由、そう理由だ。理由がないのだ。レムレスにそこまでされる理由。逆に言えば理由が、引いては楽に対価さえあればこの浮遊感から脱することはできるはずなのだ。俺は対価を探さねばならない。



既に読み終わった二冊の本を、わざと塒に置き去りにしてシェゾはゆらりと当てもなく外に出た。いや、当てはある、対価を探している。本を借りて、菓子を食べて、歓待を受けられるだけのもの。自分でも何かがおかしいと、滑稽だと思っていながら考えることはやめられなかった。


















町の一角で既知の存在と出会った。アルルと、あれはあんどうりんごだろうか。店先でふたりして何かに悩んでいるところだったようだが、ふと顔を上げたりんごに目敏く姿を捉えられた。
「おや、ヘンタイとウワサの魔導師さんではないですか」
「あ、ほんとだシェゾだ。やっほー」
りんごの言葉にアルルも顔を上げ、シェゾに向かって大きく手を振る。何がやっほーか、そんな仲じゃないだろ、という心中を端に追いやりつつシェゾもふたりの姿を認めたが、気分も気分だった為にそのまま無視しようとした。が、直ぐにアルルに腕を掴まれ引きとめられる。
「ねえねえシェゾ、ちょっと訊きたいことが」
「何だ」
「これなんだけどね」

アルルは、逆側の手でりんごの手の中にあるひとつのペンを指差した。見たところ少し古い万年筆のようなものだ。面倒くさそうにしていたシェゾの表情がふっと真剣なものになる。魔力を感じたのだ……ぼんやりしていたら見逃してしまいそうな程微弱なものであったが、どうやら魔導具の一種らしい。そのことはアルルも勿論了解済みだった。
「ただ使い方がわからないんだ。シェゾ、わかる?」
見れば、同じようなのが他にも幾つか揃えられている。店の主人に鑑定でも依頼されたのだろう、アルルから先に試してみたことを訊き出し、りんごからペンを受け取ってそれ自体を調べた。仕組みは単純だった。店からインクを持ってこさせ、紙の上で滑らせる。しかし魔力の気配は動かない。やはりな、とシェゾはひとつため息を吐いた。

「対になる媒介物がないと無理だな」
「これに合うインクがあるってこと?」
「そういう事だ」
「そうですか、だったら今はとりあえず、貴重品として保管しておいてくださいという他ありませんね」

ありがとうシェゾ、と軽くのたまうアルルに、礼なら魔力で寄越せと返して拒否されると、そのやり取りを不思議そうに見ていたあんどうりんごがシェゾの手のひらに何かを落とした。魔力、こもっているかもしれませんよ、なんて冗談めかして渡されたのは、見たこともない文字が書かれた護符だった。
「謎をひとつ解明してくれたということで、私からのひとつお礼です」
「……媒介するインクが今もあるかどうかは、彗星の魔導師あたりに訊けよ。俺はこの世界の住人じゃないからな」
「わかってるよ。ほら魔力はあげられないけどこれ」
りんごの護符と重なるようにしてアルルが置いたのは、幾枚かの硬貨だ。
「もともとお仕事だったしね」
あっけらかんと言って、笑うアルルの顔を見ながら、そうだ、それが普通だよな、と。シェゾは、先ほど自分で口にしてしまった事も相俟って、レムレスとの奇妙なやり取りのことを思った。そもそも今自分がこんな風に外に出てきたのはそのことを考えるためではなかったろうか。……読み終わった本をわざわざ置き去りにして。











歩けば、これもまたあまりにも安易に、あの部屋まで足が届く。

理由を考えていた。受け取る理由、拒否をする理由。どうしてそれがなければならなかったのかは、本当のところを言えばよくわからないのかもしれなかった。だがもうこのままあの空間で、全てを受け取って普通の顔をしていられる自信はない。

歩けば、安易にあの部屋まで足が。

借りた本を取りに行く程の手間と思考の余裕はなかった。地面を蹴りつけるような早足で、彼は一直線に町を駆け抜けていく。




































来訪を報せる喧しい足音はレムレスにも聞こえていただろう。そもそも何時頃シェゾが部屋に現れるかは殆ど把握されているのだから、彼が部屋で待っていた可能性についてはもう考えるまでもない。蹴破るようにして扉を開いた。レムレスが少し驚いたようにして此方を見ていた。しかしやはりというかいつも通り、直ぐにゆるりと表情を和らげてシェゾに向かって笑むのである。
「ごきげんよう、闇の魔導師さん」
全力で走り抜けた所為で息が荒い。扉に手をつき俯いたまま呼吸を整えているシェゾを、レムレスは椅子に座るよう促したが、それには応じなかった。代わりに虚空からずるりと……闇の剣を引き摺り出し、その切っ先を彼に向ける。そして、何かしらの反応をされる前に口を開いた。


「俺と戦え、彗星の魔導師」
「え?」
「俺が勝ったら、本も借りるし菓子も食ってやる」
「……うん?」


鋭い刃物の切っ先を向けられて、多少なりとも緊張の走った様子だったレムレスの表情が、その言葉で一気に困惑したものへと変わる。
言われたことが理解できなかったというわけではない。
「そんなことしなくってもいつも通り本は貸すし、お菓子も出すよ?」
「駄目だ」

それはもう無理だ。ぼろりと滑り落ちた呟きを、しんとする部屋の中で拾い上げるのは容易かった。剣を握る手は震えてもいない、迷いなく真っ直ぐレムレスに向けられているが、シェゾは特別に殺気立っているわけでも闘志を燃やしているわけでもないように思われた。だが苛立っていた。しかし剣を向けた相手に対して苛立ちを覚えているわけでもないようであった。

「じゃあ降参だ。僕には、君とこんなところで戦う意思はないから」
「……なら今日はこれで終いだ」
「食べて行かない?」
「…………」
「本はいつ返しても構わないんだから、せっかく準備したんだし」
「……だから!」

一瞬大きく響いたシェゾの声と、彼が殴りつけた壁の振動とが言葉を遮る。しかしその先は続かなかった。理由が、理由が、と、唇は形を作るが、どうしてもただ息を吐くだけにしかならない。これじゃあまるで子供だ。分別のない子供だ。理屈を理屈で固めて、更にそれを正当化するための理屈を探しているだけの子供。対価なんて、本当は何だってよかったはずだった。



「……お前から、」
「受け取る理由がないって?」
「……そうだ」
「貴方は不思議な人だなぁ」

何かを引き裂くように、レムレスが少し笑う。
「そんな風にしか、貰える理由を思い当れなかったんだね」



くだらない意地張りだと馬鹿にされても仕方がない。自分の中で引いた一線を守ろうとして、結果全部空回りなんてよくあることだ、俺は頭が硬いのかもしれないし、しかしそれを認めるわけにもいかないし、かと言って自分を、やめるわけにもいかない。

切っ先は床を指し、既に目の前の相手に対する意を失っていた。穏やかに笑うレムレスを睨みつけながら、シェゾは剣を持たない方の拳をぎりぎりと、爪が手のひらに食い込むまで握りしめる。レムレスの手がその手を掴んだ。食い込む爪をひとつひとつ引き剥がすように指を撫でて、徐に、机に並べていた菓子をその手のひらの上に乗せる。いつも仏頂面で、特に何の感想を口にするでもなく菓子を頬張るシェゾが、たった一度だけこれは美味いと言外にレムレスに伝えてしまった、あのシュークリームだった。

まるで詫びるように渡されたそれと、レムレスの顔を交互に見比べるようにして視線を泳がせる。そのまま動けないのはなにもシェゾだけではなかった……理由を考えて、まずはじまりを想起するのは、致し方のないことだっただろうか。其処には興味があった、己の利を見出した、なのに得た利ばかりが身を蝕んでいるのは、何故だったのだろうか。





レムレスは、シェゾの手を掴んだまま困ったように笑っている。
そうだ、知っていた。お前もそんな風にしか理由を思い当れないんだ。当然だろう、何故なら何も思い当れずに、まず此処に飛び込んで踏み散らしたのは、まぎれもなく俺だった。それに引き摺られても尚、お前が笑っているというのなら。

「だったら、」
「……?」
「だったら理由を作ろうか、闇の魔導師さん」
「作る?」
「うん」

もう片方の手が、剣を握る指を引き剥がした。からんと音を立てて床に落ちた剣は、再び虚空の中へと舞い戻る。そのまま指ごと拳全体を包むように手は動き、そのままシェゾの両手は、きっちりとレムレスの両手の中に収まった。レムレスはおどけたように首を傾ける。










「僕は貴方の事が好き、じゃダメかなぁ?」

まるで、子供のような仕種だった。






コースター


君は歯牙ない世界に必要な

最近いろいろ考えて、シェゾがレムレス先輩にあげられるものなんて攻撃性くらいのものなのではないかなぁ、逆にレムレス先輩はシェゾにそれを向ける事がないってのは皮肉なもんだなぁ、と思ったところから殆ど殴り書き。