あたたかい風が吹いたからだろうか。両腕で抱き締めるようにして持った荷物を抱え直したときにふと、ラグナスの目に入ったのは、道端に一輪だけ開いた花だった。つられるようにその方を向いたまま顔をあげて、人の気配にも気付く。道の脇の小さな小屋の前で男性が、木と、石と、布と、頑丈そうな紐を持って、ひとりでせっせと何かを作っていた。
「雨季の準備ですか?」
顔を上げて少しの間、黙ってその作業の様子を見ていたラグナスだったが、観察している事に何かしらの気まずさでも感じたのだろうか。思わず、といった体で声を掛けた後にしまったという表情を一瞬過らせる。しかし声を掛けられたその男性は、畑仕事で培われたのだろうか、意外にも立派なその体躯をのっそりと動かしてラグナスの方を向いて、彼の姿を認めて、にっこりと微笑んだ。
「ああそうだよ。坊や、よくわかったね」
男性と並ぶと、彼の腰あたりまでにしか背丈は届かない。その小さな身体に荷物を抱える姿は、御使いに行っていた子供に見えたに違いない。中身は、口の締まらない布袋の上から少し覗けるとは言えども、どうやら人が好いらしい、不躾にじろじろと眺めるような真似もせず、目の前の小さな子供を容易に自分の方へと手招きした。ラグナスも容易にその手に招かれて近くまで寄る。
「飲み水は勿論だが、畑に使う分や家畜たちにやる分も必要だから」
「お手伝い、要らない?」
「いいよ。毎年やってるから、ひとりでするにも慣れたものさ」
そう言って男性は朗らかに笑った。実際、ラグナスと会話を交わしている間も、木の杭を地面に刺し、その上に布を張り、紐で固定していく一連の作業は澱みなく進み、手元は一切の狂いもない。
「うーんでも」
しかし誰かが何かを行っている隣で自分は見ているだけ、という状況を、ラグナスは、うまく飲み込めない人種でもあった。つい先ほど買い出しを済ませたあと、酒場での情報収集でも連れであるところの銀髪の青年……シェゾに、厄介払いをされたばかりだ。お前が居ると余計なことをしたがるからと、邪魔になるから先に宿へ戻れと言われ、軽く口論になったが結局は此方が折れてしまった……そんな話を思わず男性に漏らすと、なるほど、そのひとが君の保護者かい、そうかいそうかい、なんて、ひどく楽しそうに頷かれて首を傾げる。
確かに自分はこんな見た目だから、『連れ』、と言ってもそう思われるのは仕方のないことではあるけれど。シェゾは保護者と言われることを大層嫌っているから、もしあいつがこの場に居たとして、怒りはせずとも機嫌は損ねていただろうな。考えながらラグナスもつられて笑みを零した。そういう奴だから、いつもそんな感じです。戦力に数えられていないことは尤もなことであったとしても。
俺は、いつも足を引っ張るだけの存在です。
「坊やのことを心配してくれているのさ」
「いや、きっとめんどくさいだけなんだよ」
「でも一緒に此処まで来たんだろう」
「そりゃあもう、うんざりしてくるくらい」
そもそも一緒じゃなかったら悩まないことだろう、役に立つとか、立たないとか。そう言って笑うラグナスの小さな肩を、雨季備えの作業を滞りなく終わらせた男性が叩く。少し歪で凸凹の多い、立派な手だった。その手の先で彼は、周囲をきょろきょろと見渡し、近くで作業をしていた彼の妻であろう女性に声を掛けた。女性は大きな桶を抱えたまま、話声が聞こえる距離までやってくる。
「お前、あれを持ってきてくれ。とびきり美味いやつを」
男性に言われて女性が民家の中へと消える。そのまま促されるようにして、ラグナスは彼と道を歩いた。宿までの道を共にした。途中で何人もの人に出会った。さして大きな町ではなく、旅の人間も酒場の周りに集まるようで、出会う人は皆町の人だった。中には、共に歩いた男性のように、雨の恩恵を受ける準備を行っている人も少なくはなかった。
「今日は旅の坊やの生誕日らしいよ」
男性が皆に嘯くその言葉に、目を丸くさせたのはラグナスの方だ。思わず、いや違うと口にしてしまっても尚、町の人はそうなのかと明るく笑った後に、口の締まらない袋の上へ上へと物を積んで、おめでとうを口にするだけ。増えに増えたものは、途中から男性も一緒に持つようになり、宿の部屋まで運び込んだ。最後に彼の妻がやってきて、此処の米で作ったという祝いの菓子を渡した。
律儀にふたりぶんあったそれは、本来この乾季の終わりに雨季を尊ぶため用意される神事用の菓子で、普段なら神様以外のものは口にしてはならないらしい。しかし年に一度だけ、口にすることが許される日があった。それが生誕日だったという。一連の話をラグナスが知ったのは、シェゾが宿に戻ってきたときだった。大きな葉で包まれた菓子の片方を差し出すと、怪訝そうな顔をされてそのまま押し戻されてしまったのだ。理由を訊けばそんな話をされた。自分は生誕日じゃないから食えないと言った。
「でも俺だって別に」
今日が生まれた日かどうかなんて。
何を思っていきなり、あの男性がそんなことを言い出したのか、ラグナスには全く見当がつかなかった。シェゾが戻ってくるまでに整理した、町の人たちから貰った多くのものも、わけがわからないまま受け取って行ってしまっていた。申し訳なく思うなら返してくればいいとシェゾは簡単に言い放つが、そうは言ってももう誰から何を貰ったのかすらわからなくなっていたのだ。
俯くラグナスを見かねたシェゾが、ため息と共にもうひとつ話をした。
「嘘の日って知ってるか」
「……嘘の日?」
「いつからどこではじまったかもわからないよーな、嘘を吐いてもいい、とか言うくだらない行事だ。この町にもあったのかは知らんが」
丁度、雨季と乾季の境目らしい。場所によっては、雪が溶け、花の咲き始める季節の頭とも。気分も気候と共に不思議と上向きになるそんな季節だからなのか、それとも発祥の地に於いて、何かしら嘘を容認するような出来事が存在したのか。この手の知識には割と詳しいシェゾでも起源は知らないと云う。
「嘘だと思って有り難く受け取っておけよ」
「……なんかそれ、へんな感じだなぁ」
「善意には善意で応えるんだろ」
シェゾの手がラグナスの肩をばしりと叩いた。背中を押すような勢いのそれは、ラグナスの足をその場から一歩、前へと踏み出させる。優しさで満ちた嘘を容認しろという、その言い様はシェゾらしくない、とラグナスは思ったが、そもそも何を以てして彼をらしいというのかは曖昧な話だった。それは、己に関しても言えることだろう。
盛大な嘘吐きになることからはじまる身もあったのだ。
さらりと前髪をさらう風は、丁度心地よい温度で肌を撫ぜていく。芳醇な甘い香りは花の蜜のにおいだ。草木の瑞々しいそれと混ざり合って、あたたかな季節の到来を、ラグナスに教えてくれていた。それを彼も全身で感じている。背中を預けた柔らかな地面の上には、所狭しと花々が生え伸び、彼の身体をまるで包み込むようにして陽の光を目指していて、それに釣られるようにして彼も瞼を押し上げた。
珍しく、青く澄み渡る空と、淀んだところのない白い雲が見えた。
「嘘って、本当になるんだな」
今日があの日、不思議な人々に囲まれてささやかに祝われた嘘吐きの日。
幼少期の事をすべて思い出せるかと訊かれたら、首を横に振らねばなるまい。失くした過去を著しく取り戻しても、同じくらい忘れたことがたくさんあることを思い知らされては、同時に、これからも等しく忘れていくことを予想する。悲観はしていない、と、ラグナスは思っていた。
生まれた日なんて、覚えているわけがない。でも誰かが自分にこう言ったのだ、勇者さま、勇者さま、貴方様はこの日、この世に生まれ出でて、我らを巨大な悪からお救いになられる。
自分が生まれた瞬間を誰かが見ていたなら、それが全てでしかない。
「たまたま吐いた嘘が、本当のことだったんだろ」
「そうだけど」
「だったら大した話じゃない」
「凄い偶然だ!って、運命感じたりはしない?」
「生憎とそういうのは間に合ってるんでな」
「……それもそうか」
開いた眼の先、真隣、というには少し離れた花々の毛布の上。シェゾはあの時と同じままの姿で、ラグナスには目もくれないまま手元を動かしていた。周囲に咲いている花々の細長い茎を摘んで、また違うそれと絡ませて編み上げる。徐々に、円形の輪のようなものができあがっていく様子を、ラグナスは薄く微笑んだまま見守った。
「待ち望んでた季節がくるだろ?」
虫の羽音が耳元を僅かに掠める。それとは別に、地面から黒く小さな蟻が、彼の指先へと上り何かを待つようにしてぴたりと動きを止めた。その手を天高く持ち上げて明るい陽に翳してやってみたりもする。黒々とした身体は輝いて見えたりもする。
「そんな時に生まれてきたんだってさ」
「くだらん」
「お前もそうだって言われてもか?」
「だから、それがくだらないんだよ。周りから押し付けられてるだけで」
何一つ自分が望んでそうなったものじゃないなんて、今更すぎて口にする気にもなれないようなことだったと。しかしお互いに思うようには、どうしてそうやって手に入れたものばかり、こんなに、こんなに必死にしがみついているのかは、わからなくて蓋をし続けてきた。
そしてこれからもきっと開くことはない。
「ほら」
シェゾが手を止めて、ようやくラグナスの方へ振り返る。白と黄色の花びらと、緑の茎草で彩られた花の輪が、その胸の上に置かれた。綺麗な円形の輪が作られている。シェゾは意外と器用だ、ラグナスがそう言えば、意外とは余計なんだよと額を叩かれた。そのまま、のそりと腰を浮かして、シェゾは立ち上がる、身長の高い彼の影が少し、ラグナスの方にも伸びて視界が暗くなる。
「まぁ、好きにしろよ。俺には関係のないことだからな」
「もう行くのか?」
「ああ」
「また来てくれよ」
「嘘吐きの季節にか?」
「そうだな」
「……気が向いたらな」
軽く手を振って歩き出したシェゾの背中を見送る。胸の上の花輪を片手で握りしめ、もう片方の手を掲げて、ラグナスも手を振った。振り返らない彼の目には届かなくてもよかった。いつだって自分が捧げる善意に、善意で返してもらうことを望んできたわけではなかったのだから。これだけの時間をかけてようやく、そんな簡単な事にも気付いたのだから。
次があったとしても今が良いと、答える嘘は本当になってくれたと思っている。
嘘吐きの季節
2015年勇者誕としてかいたもの。
内容がわかりづらくて支部向きではなかった。今は反省している。