柔らかな布の感触が頭に降ってくる。別に要らないと言い続けて3ヶ月程が過ぎて、既にこの状況に文句の一言も出ないことに、ユーシスは一瞬憮然とした表情を浮かべた。浮かべても、己の背後で己の髪を、乱暴に掻き回すでも壊れ物を扱うように殊更丁寧に扱うでもなく慣れたように水気を拭き取る男には、見えないから意味がない。その男は、…ガイウスは、己の自尊心に触れない程度の位置に、手を伸ばしてくるのが非常にうまかった。そういうところは少し兄に、ルーファスに似ているとユーシスは考える。だがどれだけ頭の中で二人を並べても、印象自体は全く重ならないからやはり全然似ていないのかもしれない。
思考が薄い紙切れのようだった。疲れもあったのだと思う。瞼が重く、手元には読みかけの本があったが、一文字も頭に入りそうになくて開くことすら億劫だった。…兄と言えば、つい先日リムジンを学院前に乗りつけていて驚くどころか肝が冷えたことを思い出す。授業も終わって部活もなくて、図書館に居座る気も起らなくて寮まで一直線に帰ろうとしていた矢先だったからだ。
その時、ふと髪を撫でつけてくる感触がなくなったことに気付いて、ユーシスは怪訝そうに首を捻って後ろを振り向いた。それがいけなかった。丁度己の額、重たい瞼の上あたりにガイウスの顔が迫っていて、反射的に身を引いてしまった。
僅かに沈黙の時が流れる。
「…何をしている」
奇しくも、先に口を開いたのはユーシスの方だった。
「いや、少し思い出したことがあってな。確かめようとしただけなんだが」
「何だそれは」
それは、己の額に顔を寄せなければ確認できないようなことなのか。あまり深く突っ込みたくない内容に思われて、ユーシスは益々顔を顰めた。
「……それで、確かめられたのか?」
「そうだな、…わからなかったからもう一回確認しても構わないか?」
「………」
今許諾を取るなら先にも許諾を取れと、言いたい気がしなくもないが、きっと突然に思い出したからそんな風に考える間もなかったのだろう。それにガイウスに限って、妙な他意はないことを嫌という程ユーシスは理解している。それでもわずかな抵抗を示すように、固い表情を保ったまま至極ゆっくりと頷いて見せた。ガイウスはいつもと変わらず穏やかに微笑んでいた。
憂
鬱
な
セ
ラ
ピ
ス
ト
その愛が普遍であるということを証明できなければ、私にきっとあの子を導く資格は、ない。
その部屋からはいつも甘い菓子のにおいがした。日替わりで出されるそれには、御用達の店から取り寄せたものもあれば、屋敷付のメイドやコックが用意することもある。真白の皿に盛られた焼き菓子と未だ湯気のたつ紅茶とを前にして、ひとつも笑顔を見せない小さな子供がその部屋には居て、扉をノックすれば少し困ったようにしながらルーファスを招き入れていた。
食べないのかと尋ね、少々不作法だと思いつつもその子供の警戒心を解くためにそれをひとつ摘んで口にする。懐かしい味がした。昔は自分もよくこの菓子を振舞われていたという事をようやく思い出した。
「…お口に合うのでしたら、残りも兄上がどうぞ」
「それでは意味がないだろう。ユーシス、口を開けなさい」
少々食わず嫌いの気があることは見抜いている。つい最近まで庶民として暮らしていたわりには貴族に引けを取らない程に舌も肥えていて、特ににおいのきついものを忌避しているようだった。しかし屋敷に連れてこられてから出された食事を無駄にするようなことは一度もしたことがない。苦手な食材があるなら、言づければ次からは出されたりしないような環境であるというのに、そんなことはまだひとつも知らないまま与えられるものを大人しく享受している。いや、大人しくというのは少々語弊があった。抵抗はある、しかしそれをはっきりと主張することができないのだ。
「お、…御手を煩わせるわけには」
「誰の面前でも無い。今は、軽い兄弟間のやり取りとして受け取っておくといい」
もうひとつを摘んで口元まで運んでゆく。そこまですれば、食べます自分で食べますからと言ってぎこちなく手を避けてくるようになる。…そんな風に反応を引き出すまでにも時間がかかった。簡単な話だ。自分だって、こんな風に相手と接するのは初めて以外の何物でもなかったのだから。
ぎこちない接触も、慣れれば何という事はなくなった。程度さえわかれば相手の様子を見て判断できる。どこまで押して、どこに手を伸ばしてはいけないか。
自分達は兄弟なのではあるが、兄弟として生まれてきたのではなく兄弟になったのだということは、ルーファスもよく理解していたことだし、恐らくユーシスも同じだろう。だからこそ慣れるということは始まりの一歩だった。自分達についても、貴族であることについても。
テーブルマナー、ペンの持ち方、佇まいひとつを整えるにつけてもとにかく手を出してやらなければならない間は、物理的に距離が縮まることは致し方なかったが、己と同じ色をしたその髪に顔を寄せる度に、あの菓子の香りがした。聞けば、あの時ルーファスが手ずから食べさせて皿を空にした所為で、それから頻繁にその時と同じ菓子が出てくるのだという。一頻り笑わせてもらった。食事は一度も残したことがないのに、部屋に置かれる菓子については一切手を出してこなかったことを、そんな風に解釈されているということが単純に愉快だった。ユーシスは釈然としない様子で眉を寄せていた。
相手に気に入られないよう努力しているというのもおかしな話だ。歪なのは、きっともともと持っていたはずの一本筋が、今まさにこの環境の中で折られようとしているからだろう。かわいそうに。他人事のように考えた。実際にそれは他人事に過ぎなかった。
何に関しても意欲的とは言えなかったユーシスだが、努力だけは人一倍で、逆にそれが少し仇にもなっている。剣を握らせ始めた頃には背丈も伸びて、顔つきも少年から青年に変わりつつあった。成長という言葉をおもう。ともすれば相手を存分に傷つける利用価値のあるものを、半端に教えるわけにもいかずに厳しい態度を貫いた。そうされた方が気楽そうな弟に、心を痛めるほど善人ぶった考えは持てず、しかし代わりのように修練を終えた後には菓子を用意させた。
飾り気のないシンプルなバウンドケーキにフォークを突き刺し、口元まで運んで咀嚼する。流石に毎回違うものが出されるようになったものの、甘い匂いとその懐かしい感覚はすこしも変わることがないのが不思議だった。
弟が屋敷からいなくなって数か月が過ぎた。
否、春から士官学院に進学しただけだ。たいそうなことではない。屋敷の中の様子も、ただひとり世話をしなければならない相手が減ったというだけでそこまで大きく変わらない。そもそもこの大きな屋敷の当主は父だから、やはり父の動向や機嫌が支配しているのが常なのだ。望まなかったし喜ばないし突き返されるのが目に見えているし、その態度に父が何も関わらなかったから、ユーシスには世話係の人間すらついていない。手紙は寄越すがあまり筆まめな方でもないのが事実だ。文面だけは常に丁寧なのが妙におかしかった。
施しをされるのは不本意だろうが、それなりに頑張っているらしい弟に向けて何かを贈ってやろうと思いついて、数か月前に空になった部屋へと足を踏み入れた。最低限の物しか持ち出さなかった上に毎日掃除をさせているから、未だそこで弟が生活しているかのような雰囲気がある。だがルーファスは、ああ本当に今はここに居ないのだなとようやく確信を持った。空気の入れ替えのために開かれた窓から風が吹き込んでいる。カーテンが床に映った影ごと揺らめいた。清潔で、少し夏場の緑の、爽やかなにおいがする。
部屋の棚に置かれた古いティーセットが気にかかった。1年前に新しいものを一式揃えて、寮にはそれを持って行っていたはずだ。なのに大事そうに棚にしまってあることを、ルーファスは以前から知っていて何も言わずに好きにさせていた。定期的に払われてはいるが、しっかり埃も被ってアンティークと化している。
そこで唐突に思い立ち、幾枚か真白の皿を選んで執事に箱へと詰めさせた。同時に、屋敷に常備されている茶葉と保存のきく菓子を用意させてそこに添える。アルバレアの名前を翳せば厳重に取り扱われて、箱に傷一つもつけないままトリスタまで運んでくれるだろう。想像して少し頬を緩めた。
訪れたのは理事としての仕事の一環として、である。大概は代理のものを寄越して処理してしまうのだが、時間ができたのでたまにはと直接赴くことにした。勿論、勉学に励む弟の姿を少し覗かせてもらおうかという気持ちがなかったわけではない。漸く身に着けた武具を剥がされることをひどく嫌がる弟を、友人たちの目の前で剥き出しにしていくのはなかなかに楽しかった。そうして裸になったユーシスをどうしたいのかは、自分でもよくわからないが。
すれ違う学院の生徒の視線を受けつつ訪れた学院長室で、必要な書類の確認等を直接行う。時間があれば弟君の様子を見てきては如何ですかと学院長が笑った。それはいいですねと笑い返して、しかしどこにいるのか皆目見当がつかないのでと口にする。なあに、それなら尋ねてみればよいでしょう、ほら、赤い制服の生徒たちに。なるほど名案だと思った。
廊下を歩きだして見つけた赤い制服は、片脇に大きなカンバスを抱えた長身の青年だった。肌の色もそうだが、腰に巻き付けた布の独特の紋様と色も見て、あのクラスには確か留学生が居たなということを思い出す。
「君、特科クラスZ組の子かな?」
訊かずともわかってはいたものの、声を掛けて確認をする。青年は真っ直ぐにこちらを見据えて、ええ、と低く落ち着いた声で頷いた。
「ならば我が弟のクラスメイトということだな。はじめまして。ユーシスの兄、ルーファス・アルバレアだ。見知りおきを願おうか」
名乗りあげると青年は驚いたように瞬きをして、しかしすぐになるほどユーシスの兄上殿でしたかと穏やかに返す。
「つかぬことを訊くが、我が弟が今どこに居るかはご存じないかな?せっかく学院まで足を運んだので、少々顔が見たいと思ったのだが」
「今日は部活がないと言っていたから、もう寮へ帰ったかもしれません」
「ふむ、そうか。…なら今回はあきらめるか」
「あ、いえ少し待っていてください…」
青年はカンバスを少し持ち上げて、制服の内ポケットから戦術オーブメントを取り出した。そう言えばそんな便利なものがあったのだったなと思う傍ら、青年はユーシスに連絡をつけてくれたようだった。ああユーシス休んでいたのならすまないがお前の兄上殿が今。告げられた言葉への反応で、通信越しに弟が慌てているらしい様子がよく伝わってくる。しかし目の前の青年はそれをからかうこともせず、終始落ち着いた様子で会話をしていた。
「こちらまで直ぐに来るそうです」
「ふふ、わざわざ済まなかったね。ええと君は…」
「ガイウスです。ガイウス・ウォーゼル」
「感謝するよガイウス君。弟が世話になっているようだし、言葉を交わせて何よりだ」
「いえ、俺の方こそお会いできて光栄です」
「弟とは、仲が良いのだろうか」
「帝国のことをよく教わっています。最近は、本もよく」
「本?」
「はい。帝国の古い伝承を集めた本など、彼が詳しいので」
確かに、屋敷に居たときも暇なときは本と向かい合っていた気がする。意欲的でないのはいつものことだったが、一度傾き始めたことに対してしっかり神経を注いでしまうのは最早性分なのだろう。それがまだ読書という方向にむかうだけなら可愛らしいものだが、ともすれば意固地になりやすいのがユーシスの大きな欠点でもあった。
「勉学でも実習でも頼りになります。どちらかと言うと、俺が世話になっている方です」
「そうか。取りつき難い子だからと心配していたが、君がそのように言うのなら私も安心だな」
戯れに言葉を交わし始めて、不思議な子だ、とルーファスは思った。相手が貴族…それもアルバレア公爵家のもの…という緊張感が皆無であるのは、恐らく異国人だからであろうが、それを差し引いてもこうして対峙している分に少しも動じることがない。一定の間隔で凪ぐ穏やかな風のようだった。
そんな大人びた青年は、しかし子供のようにその目に好奇心の色を湛えて、ルーファスを見ていた。
「よく似ておられます、ユーシスと」
「ふふ。…血は半分しか分けていないが、領民達にもよく言われた。尤も、私たち自身にはよくわからないのだが」
実際そうだった。ユーシスがどう思っているかまで断定することはできないが、少なくともルーファスは自分とユーシスが似ているなどと思ったことは一度もない。髪と瞳は奇しくも同じ色を携えてはいるが、見た目の印象も、中身も、…根本的に違うのだと感じていた。
けれどもこのガイウスという青年は、何か確信を持っているかのように強く肯定してくる。その頷きに何処までも迷いも裏もないから、呆けているとこちらがそれに呑まれてしまいそうだった。やはり不思議な子だと思う。相手のちからを、自身のところでうまく捻じ曲げてしまうような、否、そのような圧迫感ではない、…うまく抱え込んでしまうような、受け入れて、離してゆくような。
「ユーシスから、お話はよく伺いますが」
「ほう、あの恥ずかしがり屋が、一体私のどんな話をしてくれているのかな」
「立派な兄上だと。尊敬もしているし、感謝もしている、けれども」
「けれども?」
「いつも寂しそうだと、言っていました」
思わず、くぐもった笑いが出た。あの弟の口から、この青年に向けて、そんな言葉が出てきたということは、驚きと共に冷えた気持ちをも己に呼び込む。
寂しかったのは、果たしてどちらだ、我が弟よ。
こころのなかの呟きは、形にならないまま奥底へ沈んでいった。
「何か、おかしかったでしょうか」
「いいや、弟がそんなことを言うとはおもっていなくて。どうやらこの兄が居なくて余程寂しい想いをしていたらしいな。…此処にやってきたときには、何よりも先ず抱き締めてやらないといけないようだ」
「是非そうしてやってください」
社交辞令でもなんでもなく、本気で言っているのだろう。家族なのだからそれはおかしなことではないと思っているのかもしれない。心地の良い感覚だった。同時に、この青年はきっとただの付き合いでもなんでもなく、真摯に弟と友人で居てくれているに違いないとも思った。…それが吉となるかどうかまで今は推察すまい。ただ、このガイウスという不思議な青年の隣にユーシスが立っている、その画は今の己には想像もできなくて、相変わらず弟は私に新しい世界を呼び込んでくるものだとやはり笑った。
今一度、脳裏でたったひとりの弟の、ユーシスの姿を思い描く。思い出して真っ先に自身の中を漂ってきたのは、あの甘い香りだった。しばらく思い出せずに居た懐かしいそれが、まるで空腹を刺激するかのように鼻につく。まだ弟は居ないのに。
思い当ったのは、目の前の青年だった。
「ガイウス君」
「はい」
「ユーシスは、」
……甘い匂いがするだろう?
廊下の角から、見慣れたかたちが姿を現す。あにうえ、とその唇が動くのを遠目に確認して、和やかに微笑んでみせた。彼はその遠目から、己のそばに友人が居ることを認めたらしく、僅かに顎を引いて少し顔を顰めたので、その友人たる青年と僅かに目を細めて微笑みあった。
今この一瞬なら全てを許せるような、その心を、私はただ共有したかったのだとその時はじめて気が付いた。
憂鬱なセラピスト
眠れない夜と目覚めない朝を迎えて、月と太陽がステップを踏む。
シーンと内容からネタに入ってしまったために、実は内容の深いところは書きながら探ってしまったのでコメントしづらい。アルバレア兄弟に夢見てる気がしてならないです。