帝国のとある地域に伝わる祭りごとのひとつらしい。もともとは、悪霊や魔女を退けるための宗教行事だったとかなんとか。カボチャをくりぬいてランタンを作ったり、悪魔に扮した子供たちが村の家々を渡り歩いてお菓子を強請ったり。
へえ、と感嘆の声をあげながら、リィンの口の中でクッキーが砕けた。殊更ゆっくりと咀嚼して呑み込む。シャロンが脳の休憩にと焼いてくれたものだった。どうやら女性陣の味覚に合わせて少々甘くなっているらしい。が、それを抜かずとも流石というべきか、素直に美味しいと思える一品だ。
「詳しいんだなユーシス」
「この間読んだ本に書いてあっただけだ」
ユーシスは紅茶を片手に、今は別の本を開いている。何てことはない、導力学の参考書だ。勉学は実質校内三本指で、どの分野も卒がないユーシスだが、やはり馴染みのない分野はそれなりに時間をかけているらしいということは、最近こうして時間のある時に共に勉強するようになって初めて知った。
「比較的帝国でも北側に位置する地域では、今でもよく行われているらしい。街区ごとに子供を集めて街を練り歩くのだそうだ。最近は専ら七曜教会の先導で行っているようだが」
「へえ、なんだか楽しそうだな」
まるで内容が目の前にあるかのように澱みなく説明するユーシスだが、目線は一切上げずに別の文字を追っている。組んだ足の上に置かれた参考書のページを、カップを持たない方の指が捲った。リィンは手を伸ばして皿の上のクッキーをもう一枚取った。
「それ、お菓子を用意してないとどうなるんだ?」
「いたずらに遭う」
「いたずら?」
「まぁ子供の遊びの延長のようなものだ。菓子が貰えなければそうしても良い、ということらしいな」
「へえ」
「それよりもさっきからひとつも捗っていないようだが」
「あ、ごめん。シャロンさんのクッキーが美味しくて」
ユーシスも食べろよ、と反対側の手で皿の上から一枚取り上げる。すい、と口元まで差し出すと、ユーシスは怪訝そうな顔をしてから渋々といった体でカップをソーサーに戻した。
戻した手がそのまま、リィンの指先のクッキーに伸びる。
「美味しいだろ?」
「…ふむ」
つまんで、口に運んで、かみ砕いて喉を通すその過程まで。しっかりと見届けて満足げにリィンは微笑んで見せた。俺ばっかり食べてたら申し訳ないし、と皿をユーシスの方へついと動かしたら、逆についと押し返される。
「自分で美味いと言ったのだろう」
「そうだけど」
「だったら、お前が食べていい」
欲しければ自分で取るからと、手は、指は、再び紅茶のカップへと伸びていく。覗き込んで、中身が殆どなくなっていることを確かめて、席を立とうとするユーシスを慌てて留めた。俺がいれるから座っていてくれと言えば、ここしばらくのやり取りでそれなりに紅茶を淹れる腕は信用してくれるようになったか、大人しく腰を戻してくれた。
「そういえば、その行事っていつ行われるんだ?」
買い置きの茶葉を選びながら尋ねてみる。ユーシスの歯がクッキーをやんわりと砕いた。
「10月31日だ」
「そんな時期なのか…あ、じゃあさ」
街の雑貨屋で買った、お気に入りの茶葉を見つけて迷いなく手に取る。そのまま振り返るとユーシスと目があった。丁度参考書の文字から目を離した隙だった。
「その日になったら、一緒に菓子でも買いに行くか」
「……どうしてそうなる」
「ほら、そしたら街の子供たちとかに強請られてもあげられるし」
いや、強請られるのかは知らないが。もし用意していなくていたずらなんてされてしまっては大変だから。
「意外に祭り好きだったか」
「意外にって…まぁ、賑やかなのは嫌いじゃないぞ?」
「俺は好かんがな」
「だったらやっぱり」
なんなら、大きなカボチャを買ってきてくり抜く作業をやってもいい。部屋の入口に飾って置こう。使っていない椅子かなにかを、引っ張り出してそこに置いておこう。
ポットからはできあがった紅茶の湯気がふきだしている。さあどうぞと注ぎ口を差し出してカップを満たした、それを持ち上げて少し細められる綺麗な目を、その先に隠しておきたいからとは言わずに、リィンはやはり満足そうに微笑んだ。
おまつりのこと
ハロウィン用にかいたリィユシさん。
10月31日は迎えられないのでしょうがないから苦肉でこんな話になりました。
何度なぞっても駆動する気配はない。どうやら完全にエネルギー切れらしい。舌打ちをしたユーシスの隣ではリィンが、止血用の布を座り込むガイウスの肩に宛がっている。
「痛みは…あるよな、ごめん」
「いや構わない。血が止まっただけでもよしとしよう」
「動けるか?」
「ああ」
力強くそう頷きはしたものの、動きは鈍い。リィンが支えながら立ち上がらせた。足に傷はないから歩くのに支障はないだろうが、それでも重たそうに体を起こす。そのままリィンが手を貸したまま歩き出そうとしたのを見て、ユーシスが待てと声をあげた。
「俺がやる」
「え、でも」
「身長が釣り合っていない。何よりお前も先の戦闘でかなり消耗しているだろう、おとなしく代われ」
強い語調で言われて、リィンはガイウスの体に負担にならないようにユーシスと入れ替わる。ガイウスはそれに大人しく従いながら、丁寧に体を支え直してくれたユーシスに笑みかけた。
「すまない。よろしく頼む、ユーシス」
珍しく、尊大な返事はなかった。
「ユーシスさん、紅茶いりませんか?」
エマが差し出してきたのは、トリスタの雑貨屋で売っている茶葉のひとつだった。ユーシスは飲んだことがない銘柄だ。
「文芸部の差し入れにといろいろ買って試してみたのが、少し余ってしまって」
よろしければ私がお淹れしますよとまで進言されたが、それは断って茶葉だけを受け取る。受け取って、寮に戻ったあと少し淹れて飲んでみた。…果実類の独特のにおいと味がする。どちらかというと女性好みのものという印象だ。そういえば、たまに覗く店の中でいろんな種類の茶葉を見かけはするが、どれも一度も試そうと思ったことがないことに気が付いた。
「すまない、紅茶を常飲しないものだから」
コーヒーしかないが構わないか?と申し訳なさそうに尋ねてきたマキアスに、勿論構わないと頷いてガイウスは本を広げた。マキアスの持っている本は実用書や政経分野のものが多い。中身を理解するのはなかなかに難しいが、ノルドに居るときには触れてこなかった類であるのはガイウスの興味をそそるのに十分な理由だ。
「砂糖とミルクの分量は…」
「うん、よくわからないから任せてもいいだろうか」
「そうか、なら適量にしておこう。もう少し欲しかったらあとは自分で足してくれ」
そう言われたもののマキアスの几帳面な配分は完璧で、ガイウスはそのままカップ一杯を空けた。あまり馴染みのない味だったが、それはそれで新鮮で、美味しくて、たまにはこれを買ってきてみようかとも考えてみる。淹れ方を尋ねてみたら、マキアスは少し嬉しそうに説明してくれた。
そういえば2つ年下の少女は人気の少ない中庭や屋上のベンチでよく眠っているのを見かける。風邪を引いたりはしないのだろうか、と思うことも多々あるが、特に体調を患っているところを見たことがないので、それも彼女曰くの「慣れている」ことなのだろう。代わりというと何だが、あまりベッドでゆっくり眠れるタイプではないらしい。だとしたら、そっちは「慣れていない」ということになるのだろうか。
部活を終えて帰ろうとしたとき、ようやく忘れ物に気付いて教室へ向かった。すっかり茜色に染まった部屋のなか、もう誰もいないだろうと思っていたら、机に突っ伏している人物を見つけた。白金の髪を短く切り揃えたその頭は間違いなくユーシスだ。少し近づいてみるが反応はなく、静かな教室にはわずかな寝息が響いていたことからああ眠っているのかと納得はしたが、彼がこんな風に眠っているのは珍しいと思った。自分に貴族というものは未だよくわからないが、優雅な立ち振る舞いをする男だった。常に余裕を持って何事にも接することを望む男だった。しかし一方で、腕の中に顔を埋めて整った寝息を立てているその姿も実にらしいとは思った。
死角と穴だらけだ。
自分の机から忘れ物を抜き取って、立ち去る前に肩を揺すった。もう下校時刻だぞと一声かけると、緩慢に頭が持ち上がり、未だ少し眠そうな目がこちらを見る。何度か瞬きをしたあとで、右手の甲で思い切りそれを擦っていた。その一連の所作がひどく子供じみて見えて、気付かれないように少し笑んだ。
ペンの持ち方の話をされた。ユーシスの持ち方は、マキアスやラウラ、リィンのものとも同じだなと言われて、あれが正しい持ち方だとされているのだと答えた。そういう奴は独特の持ち方で丁寧な字を書いた。少々癖はあるが、何となくらしくてわかりやすい字だ。そんな持ち方でよく書けるなと口にしてから、自分も今の状態が常になるまで時間がかかったことを思い出す。兄に上から手を握られて何度も矯正されたことはそれなりに古い記憶だが、慣れたやり方を封じられるというのはここまで苦痛なものなのかと、たった一本のペンごときに募った恨み言はなかなか忘れられない。
「そんなものか?」
不思議そうにペンを持ち上げて首を傾げる男に、まぁ書けるのなら問題はないなと相変わらずそんなことしか口にはできなかった。
些細と仔細
ガイユシについて考えていたんですけど没になって途中できっちゃったネタ。
でもひとつひとつの材料的には気に入っていたりします
投げて寄越されたのは、手のひらに容易く収まる大きさの菓子。紙に包まれているが中身を推測するのは容易だった。貴族の自分にはあまり縁がなかったが、確か帝都の方ではわりと有名な菓子店の銘入り。焼き菓子の類だろう、形が崩れる可能性もあるのに、投げて寄越すのは実に感心しない。
「何のつもりだ」
「いやちょっとしたおすそ分けってやつだよ。おとなしくもらっとけって」
「お前からのものは大体が曰付きだろうが。要らん」
「なんだよよくわかってんじゃねーか…と言いたいところだが、今回はマジでなんもねーし突っ返されても困るから」
両手を上げて降参の姿勢を取りながらもやはりへらへらと笑ったままなので、一概に信用はできない。できないが、とりあえず今はこれ以上の問答をするだけ無駄だろう。特に礼も言わずくるりと踵を返して教室に入った。
教室に入ると、まず真っ先に飛び込んできたのは緑色だった。目に、とか視界に、とかいう注釈はない。文字通り、『緑色が飛び込んできた』のだった。
「おわあああっ!?」
「ぶっ……!?」
後ろ向きにつんのめったのか、背中からこちらに向けて思い切り倒れ込んできたのを急に避けることもできずそのまま一緒に廊下へ倒れ込む。肘をついたため後頭部をぶつけたりはしなかったのが幸いだった。しかし重い。腹の上に緑色が乗っかっている。
「ま、マキアス大丈夫!?」
「あ、ユーシスだおはよう」
「お二人とも大丈夫ですか?」
次々と上から降りかかってくる声に顔を上げる。不機嫌さを隠せなかったのは当然だろう、そのくらいはさせてほしい。おいさっさとどけ、と足を動かしながら言えば、腹の上に乗っかっていた緑色は、否、眼鏡の副委員長殿は、慌てて飛び起き自分から距離を取った。謝罪の言葉もなく「なんで君がこんなところに居たんだ!」などという理不尽な言葉をふっかけられる。それはこっちの台詞だろう、なんでお前がこんなところで倒れ込んでくるんだ。
「すまないユーシス、私たちがこんなところでマキアスに迫ったのが悪かったな」
「せま……?」
「ラウラ、その言い方は多分ものすごく勘違いされると思うわ……」
「む、だとしてどう言えば語弊を招かないだろうか?」
「う、うーん……」
「まぁ実際迫ってたしね」
ようやく立ち上がって状況を確認する。教室の出入り口付近にアリサ、ラウラ、エマ、フィーの女子4人が半円を描くように並んでいる。その向こう側にエリオット、その近くでガイウス、ミリアム、リィンがひとつの机を囲むようにして立っているのが見えた。自分の上から飛び退いた副委員長殿は素早く退散して、今はエリオットの隣に居る。
「あっれー?ユーシスおっはよー!」
「おはようユーシス」
起き上がったことでようやく認識されたらしい、ミリアムとガイウスに立て続けて空気を読まない挨拶をされた。
「お前ら何を……」
「もうユーシスも来ちゃったしいいんじゃない?」
「それもそうだなぁ。ユーシスおはよう、ちょっとこっち来てくれないか?」
「は?」
「いいからいいから」
フィーに腕を引かれエリオットに背を押され、促されるままに件の机の前まで行くとそこには1ホールサイズのケーキが乗っかっていた。白い生クリームにスポンジ生地、ストロベリーを惜しみなく使ったスタンダードなケーキだ。意図が掴めず首を傾げる。
「この間、お兄さんからユーシスの誕生日を訊いてさ」
「……え?」
「どうしようかなと思ったんだが、みんなでケーキでも作ろうかってなって。ミリアムに頼んで調理室で作ってみたんだ」
「一人一工程を担当するというやり方で、立ち代り入れ替わりすればユーシスにもばれないだろうとクロウが提案してくれてな」
「……おかげさまでとんでもない爆弾ができたけどな……」
「えー!だからダイジョーブだって!別に砂糖と塩間違えたりしたわけじゃないしー!」
「で、でも何かしらは間違えたんだよね……?」
あちらこちらで飛び交う話を頭の中でまとめて分析し、ああ、もしかして先ほど眼鏡の副委員長殿が教室の出入り口で迫られていたのは、味見のことだったのかと納得した。……見た目は悪くない。少々形が拉げているが、生地も生焼けだということはなさそうだし、生クリームの塗りと添え方は雑だが、おかしなところは見受けられない。
「……おいリィン」
「なんだ?」
「そこのガキが担当した工程は何だ」
「えっと、……どこだっけ委員長」
「き、生地を作る段階だったんですが……」
「い、一応ニコラス部長についててくれるようには頼んだわよ?」
「私にバトンタッチする前に調理室で爆発音聞こえたけど」
「お、おいこらフィー!余計なことを言って煽るんじゃない!」
「……」
心は、一瞬で決まった。
「失礼する」
「わー!?待って待って待ってとりあえず待って!」
「何を待つ必要がある。俺は食わんぞ」
「い、一応貴方のためにみんなで作ったものなのよ!一口でいいから!」
「味見もできないようなものを都合よく押し付けるな!」
「それには不本意ながら同意するが、かといって処理のしようもないだろう!」
「大丈夫だ!私も生地を焼く段階で少々時間を過ぎてしまったりしたが部長殿が大丈夫だと言っていた!だから大丈夫だ!」
「どこが大丈夫だ!」
「ユーシス、ボクの作ったものが食べられないっていうのー!?」
「その台詞は一度くらいまともな料理を作ってから言え阿呆が!」
くるりと踵を返して教室から出て行こうとすると、四方八方から全力で止めにかかられる。圧倒的な人数差でぐいぐいと中へ戻されていくが、正直食べたくない、ここまで振られて大人しく口にする気にはなれない。
「あと俺は生クリームが好きじゃない!だから食わん!」
「食べて見たら意外にいけるかもしれませんよ……!?」
「お前まで何故荷担しているんだ!」
「あ、あの、もうすぐ朝のホームルームの時間が……」
言葉が終わらないうちに、少し離れた教室の扉がばたんと開いた。
「おはよう君たち!さあめんどくさいけど今日も元気に授業始めるわよ〜」
「あ」
「あ?」
「あっ」
「ふぇ?」
「あら、何これケーキ?美味しそうじゃない。どーれひと口もーらい」
「あっ!」
「あ」
「ふむ」
「……」
突然の乱入者に、先まで騒がしかった面子も視線を集中させる。そんなことも気にせず乱入者は、そえられていたフォークを遠慮なく使ってケーキにぶすりと刺し、ひと欠片切り崩して躊躇いもせず口元へ運んだ。その様子を全員で見守る。
「……あ、あの、サラ教官……?」
「た、た、た、たべ……っ」
「マキアス、静かに」
再びざわめき始める面々を差し置いて、もごもごとしばらく口を動かしたかと思えば乱入者はぱっと笑顔を咲かせた。
「あら結構いいじゃないこれ。でも感心しないわね〜リキュールなんて君たちにはまだ早いとお姉さん思うけど〜〜?」
「えっ?」
「へ……」
「り、リキュール、ですか?」
「この生地に入ってるヤツそうでしょ?お酒なだけに洒落てんじゃないの〜」
「サラ、別にうまくないよ」
「なんですってぇ?」
それぞれがそれぞれ、お互いに顔を見合わせつつ一気に胸をなでおろした。生地に忍び込んだ謎の物の正体がわかっただけで上々だ。そしてやはり、安易に口にしなくてよかったと思うと同時に、そもそもリィンの奴に自分の誕生日を軽々しく教えてしまった兄を少しだけ恨んだ。……今度会ったときに問い質したいことがひとつ増えた。
バースデー小事件
ふぉろわーさんお誕生日にささげた話。
俯いて歩いた学院までの道は、今日も健やかに綺麗だった。石畳の上は街の人たちが、時に学院の生徒である自分達も掃除をするものだが、季節ごとに色を変えた木の葉を片付けていくのは、毎度何となくさびしい気分になる。ああしたいこうしたいと思うことに反して容赦なく過ぎる時間は、何も為せないままの自分を追い立てているようだ。
ひとりで登校するのは極めて珍しい。そんな珍しい日は、時折故郷のことを思い出す。雪深い田舎の温泉町。リィンはそこに、血の繋がらない優しい両親と、気の利く可愛い妹を持っている。いや違う、そこに居た3人の下に、リィンは引き入れてもらえたというのが言葉の上では正しいような気がした。不満を感じたことは一度もない。男爵家と言えども貴族は貴族、しかし帝国社交界からは縁遠く、様々な意味でらしくなく無骨で豪快な父と、しっかりしているようで茶目っ気のある母と、そんな2人の間で気丈に育った妹に囲まれて、此処に連れてきてもらえた自分は疑いなく幸福ものなのだと思っていた。
父に持ち上げられて初めて馬の背に跨った日であっただろうか。いつもより遥かに高い目線に興奮して、父さんにはいつもこんな景色が見えているんだねと大きな声ではしゃいで大きな声で笑われた。いつの日かお前も同じような景色が見えるようになるさ、大きくなりなさいリィン。そういって頭を撫でてもらって、馬の操り方を教えてもらって、これから自分が成長するという可能性について疑いのなかった頃が懐かしい。とびきり寒い冬の時期に、体調を崩して母が看病をしてくれた日があった。熱が出て、体中が痛くて、このままもしかして死ぬんじゃないかなんてうわごとのように言っていたら、母は優しく笑って額に手のひらを当てた。大丈夫、負けそうになったら私を呼びなさい、貴方をそのまま病気にやらせたりするものですか。この人はこの世できっと一番強い生き物なのではないかと誇らしく思った日が懐かしい。
自分には誕生日というものがなかった。だから拾われた日をそれと定めて、その日には母と妹がふたりでケーキを拵えてくれた。目の前に置かれた一切れのケーキにフォークを突き刺して、口に運ぶまでを緊張した面持ちで見ている妹のことをよく覚えている。美味しいよエリゼ、ありがとう。その言葉でようやく落ち着いたようにほっと胸をなでおろすして、勿論ですお兄様、お誕生日おめでとうございますと、妹の謳うような声が耳に心地よかった。何と言われようが自分はこの妹が可愛くて仕方ないのだと思う心も、懐かしい。
そのどれもを忘れた訳ではなく、ただひたすら思い返して抱え直して、そしてそのどれもに自分が見合う存在であるのかを、常に問いかけている。果たして己はリィン・シュヴァルツァーであることを、許されて然るべき存在なのか、否か。
「くだらないな」
それを一言で一蹴したユーシスは、不機嫌そうでもしかし愉快そうでもなかった。リィンはすこし首を傾げてそうか?と尋ね返す。自分のことをくだらないと言われたのにも関わらず、ひどく他人事のように思った。
「御両親や妹御の温情を疑うようなものだろう、それは」
咎められているのかもしれない。そう感じたけれども、ユーシスの声はどことなく柔らかい。疑っているつもりはないと言おうとすると、つもりはなくとも結果的にそうなるんだと重ねて押し付けられた。
「大人しく受け取っていろ。血の繋がりはなくとも、家族なのだろうが」
「それは、勿論そう思っているけど」
「思っているというのもやめろ。お前がそれを疑っていないのなら、言い切れる筈だ。お前はリィン・シュヴァルツァーだとな」
「……」
「それで、返事の内容は決まったか?」
「……そ、そうだな……」
リィンは手元の、数枚の便箋に目を落とした。日付の迫った自身の誕生日について、今年は一緒に祝えない代わりに何かを贈ろう、そういった旨が連ねられている。今朝いちばんに郵便受けの中で見つけた、両親からの手紙だった。
ユーシスに見つかったのは、逆に幸いだったのかもしれないが。今年は要らない、学費を払ってもらっているだけで十分だと、そう答えようとペンを握ったところを咎められたのだった。わかっている、というのはきっと頭の中での話なのだろう。疑っていない、感謝している、自分も、彼らを愛している。けれどもたったひとつ、自分の存在だけがそこに大きな瘤になって思考を遮っているということに、多分ユーシスは気付いている。気付いていて、彼は配慮をしない。
「…お前は、」
徐に開いた口が、呟くように問いかけてくる。
「自分の楽しいと思ったことを誰かに教えるとき、相手の価値まで考えるのか」
「い、いいや」
「病気で弱り切った相手の面倒を見るときは」
「い……いいや」
「誕生日を祝おうと思うときは」
「……」
「無邪気に喜べなくなったことには、同情してやるがな」
思わず頭を掻いた。返事のしようにも迷って情けなく笑う。わかっているというのは、頭の中でのことだけだろうが、その心が俯いて歩いた道の上に、容易く転がっているようなものではないことを、自分はわかっていたに違いないのに。
「……欲しいっていうよ」
「そうか」
「中身、まだ決まってないけどな」
「いいんじゃないのか。もう少し余裕はあるだろう」
日付まで。
「そうだな。うん、そうだな……」
ぐしぐしと乱暴に目元の水を拭って頭を振った。少しあげた目線の先に、こちらを見てもいないユーシスが、優雅に腕を組んだまま少し意地悪そうに笑んだのが見えた。
「その間に、俺が他の奴らにも広めておいてやろう。あいつらなら間違いなく何か贈ろうとしてくるだろうからな」
「えっ?」
「使い道に困りそうなものでも貰って、嬉しい悲鳴でもあげるがいい」
「……そ、それはユーシスの温情だと受け取ってもいいのか?」
「いいや、くだらない話をされたことへの意趣返しだ」
何故か得意そうな表情に困った顔をするしかなかった。怒ってるのかと訊けば、別に、と返される。
「だがお前には受け取るだけの土壌があるのに、俺なら一発殴りたいと思うからな」
意味はよくわからなかったが、やはりそれは彼なりの温情だと思うことにした。家族がくれたような類のものとは、明らかに性質の違ったものではあるけれども、それもまたひとつの形だと言えるのなら、疑わないで受けて立つべきなのかもしれない。
まだ見えない存在の形と、反してあっという間に過ぎていく一瞬に、急き立てられながら少しずつ事を為そう。誰かに与えられてはじめて、それは自分のものになったのだから。
リーニエンスエントロピー
これもフォロワーさんの誕生日に捧げたもの。