庭先では、薔薇のにおいがした。ついと振り向いて目を走らせたのは、そこに何かを期待していたからでは決してない。
望むことは多くなく、清く正しく美しくなんて柄でもなく、むしろどろどろと汚いものに想いを馳せてみる。洗面台を流れる水のような感情。どこへ行くかなんて考えもしない、どこかでうまく浄化されてしまったかもしれない。だけどそれがどうしたっていうのだろう。これは酷く甘ったるしくて、胃の中のものもすべて戻してしまいそうな胸やけの症状しか呼び起さないのだから、流してしまって正解なんだと、少なくとも自分はそう思っている。

あの綺麗な指先が奏でる音を子守唄に過ごした。性格はともかく、あの音だけは確かに評価されてしかるべきなんだと、瞼を閉じてレクターは船を漕ぐ。夢のなかで自分は部屋の端に居た。誰にも認識されずにただ、そこで起こる顛末を眺めていた。蛇口をひねる手を持った。このまま水浸しになって溺れて、あのしなやかな体が自分のところに堕ちてこないかな、なんて考えるのはこれがきっと夢だからだ。

でもこちら側に幸福があるなら、現実ってやつは常に残酷なもので。しかしだからこそすべては事実、この体はいつでもこちら側のものであるに違いないのだろう。


半分予想していて、半分偶然に、部屋の主自らが窓を開けて歓迎してくださった。片手をかざしてこんばんは皇子殿下ご機嫌麗しゅう、と口元に笑みを浮かべれば、部屋の主も微笑んでやあレクターこんばんは、どうしたんだい月見でもしていたのかいと首を傾げた。
いえいえ、残念ながら酒がないんですよ、明日の仕事に支障が出るから控えろと親父がうるさくって。おやおやそれはかわいそうに、でも君は強そうだから一杯くらいならばれないんじゃないかな?そんなにいいものではないけどワインがあるよ、どうだい?
自分とまともにやり取りをしたがる人間がいるなんて思いもしなかった。ほら、と何の打算もなくグラスを手渡す指は相変わらず綺麗で、近づいた先からはやはり薔薇のにおいがした。

このひとはよく回る舌で間を空けることなく喋る。いったいどこから仕入れたのやらわからない、需要があるかもわからない雑学の部類に属するようなことを話して聞かせる。どこまでが冗談でなにが本気かなんて考察は、実はまったく意味がない。人間の理性的判断なんて役に立たない、帰納法も演繹法も通用しない物事の捉え方。
だってこれ自身に、本気と冗談の区別がついていないのだ。それを他人が推し量れるはずもない。
この状況の異常さに気付いていながら、そこについては言及しない。すれば、きっと自分の勝ちになることがわかっているから。強かに伸びる二の足だ、ワインを飲むフリをしながらレクターはぼんやりとそう思う。

ああそうだ、レクター。なんでしょうか皇子殿下。今度来るときはちゃんと扉からノックして来るんだ、やましいことなんてないんだから当然だろう?

窓に足をかけたとき、後ろで片手をかざしながらそんな風に釘を刺された。考えておきますとだけ適当に返して庭先に降りる。月明かりが眩しすぎて庭木の影が壁に映っていた。


足下をするりと抜けていくのは、このまま下水に運ばれる水だろう。どんなに大きな器を用意しても、いつかは溢れて流れ出してしまうのだから、洪水が起こる前に自分で捨てに行く。
目も耳も鼻も、あの甘さにやられて使い物にならないのに。そんな自分に吐き気がして、今日も汚れを蛇口をひねって流すのに。また次に呑みもしないワインを催促する冗談みたいな自分が想像できる。いっそ洪水を起こすまで粘ってみるかとも思うが、そうなる前に溺死するだろうからバカなことはやめた。

呆れるくらい幼稚な願いだから叶わなくても全然かまわない。ただあのすべてに口づけをして、咀嚼して、自分のものにできるのならそれは素晴らしい夢だと思った。そして自分は誰からも異常と思われる唯一人としてそこに居て、あの薔薇のにおいさえ再現してみせるのだ。
月明かりの道を行く。



あまいかおり


レクオリではじめにかいたやつ。
レクオリで、レクターがオリビエのこと好きならそれは今まで過ごしてきた時間の中でとかそんなんじゃなくて、表面と内層を観察したなかでの逆恨みに近い何かではないかと思った。…だけなんですけど、どうしてこんな文章になったんだろう。









 お世辞にも綺麗とは言えない猫だった。短い毛並みは土埃に薄汚れて、一目見てわかるほどに痩せ細っている。それがどういうわけか、屋敷の庭に迷い込んできているのを見つけたときは、思わず周囲を見渡したのだ、自分以外の誰かがいないかと、確認しないではいられなかった。
 幸い、ミュラー以外の誰もその場には居らず、ミュラーは少し逡巡してから、それを優しく抱き上げた。

 あまりに哀れでみすぼらしい姿に、同情心がわいてしまったなどとは恥ずべきことだろう。しかし抱き上げたそれを今更降ろすわけにもいかず、迷いに迷って何故かミュラーはオリヴァルトの下を訪れた。まだ着慣れない士官学校の制服の上着にそれをくるんで、できるだけ人目を避けながら廊下を速足で駆け抜けた。猫は弱っているのか、その間ただの一度も鳴き声をあげることはなかった。

 底の浅い皿にたっぷりと注いだミルクを一心に舐めているそれと、同じ目線になるよう床にうつ伏せの体勢をとる。せっかくの上等物の服が汚れるぞと咎めても、オリヴァルトは知らん顔だ。目の前の生物に興味津々らしい。
「まだ子猫のようだね。親とはぐれてしまったのかな」
 そのまま扉付近に突っ立っていたミュラーに指示して、大きなクローゼットの中から真新しいタオルを引っ張り出させる。猫は湯浴みを嫌うから、せめてこれで表面上の汚れだけでも何とかしてやろうとのことだった。
 当たり前のようにミュラーからタオルを受け取ろうとするオリヴァルトの手を軽く払いのける。不思議そうに首を傾げられた。
「俺が拾ってきたから俺がやる」
「そうかい?」
 ならどうぞ、と、ようやく体を起こして今度はその場に座り込む。傍らに膝をついてミュラーが猫のからだを拭きはじめると、ゆっくり皿を床から持ち上げて、何がおかしいのかくすくすと笑い声をあげた。

「それで、どうするんだいこの子は。君が引き取るのかな?」
 ミュラーは顔をしかめる。さっ、と顔をあげて睨み付けてやると、オリヴァルトは困ったように肩を竦めて見せた。意地の悪い言い方になってしまったことには自覚があるようだ。しかしすでに決まっている返答をわざわざ待つような真似をするのはこの男の悪い癖だろう。ため息を共にそれを吐き出す。
「……引き取れない」
「そうだろうねえ」
 もしミュラーが見つけて居なければ、どこでどんな病気をもらってきているかわからないと、もしくは気位ばかりの貴族になんと名家に相応しくない畜生かと罵られ、憲兵に突き出されたのちに処分されてしまったに違いない。それほどまでに哀れな姿をしている猫だった。しかしだからといって、このままひそやかにミュラーの自室に住まわすには問題がありすぎる。そもそもミュラーは朝早くから日が落ちるまで自室に居ることはほとんどないと言っていい。とても面倒など見てられない状況であるし、屋敷のものが目ざとく見つけてしまったら、結末は一緒だ。
「やれやれ、ゼクス先生に聞かれたら叱り飛ばされていたところだよ」
 きっと後にも先にも責任の取れないことをするなと怒鳴られるだろう、それはミュラーにも容易に想像のつくことだった。叔父は話のわかる人だが、基本的には厳しいひとだ。そうなる前にこの生命力の薄い生き物を、自らの手でどこかに放り出してくるのが一番なのだと思う。

 少しだけ本来の色を取り戻したそれが小さく鳴いた。か細く、消え入りそうな声だった。
「だったら僕が引き取るよ」
 ひょいと汚れたタオルごとオリヴァルトがそれを抱き上げる。
「少なくとも君よりは面倒も見れるはずだしね」
 少々ぎこちなく、どこを支えればいいのかわかっていない手つきながら柔らかくそれを腕に収めて、オリヴァルトはにっこりと笑った。ミュラーはますます顔を険しいものにさせていく。オリヴァルトがそう言いだしてくれることを期待していなかったとは言い切れない。そうでなければ迷った末に、こんなところまで足を運んでなどいない。
「だが見つかれば俺以上に咎めが厳しいんじゃないか」
「見つからなければいいんだろう?……それにきっと、君が抱えているところを見つけられるよりはずっと、言い訳もしやすいと思うけど」
 人懐こい猫だ。急に抱え上げられたにも関わらず、特に臆せずオリヴァルトに擦り寄っている。指でそれの顎をくすぐってやりながら、オリヴァルトはミュラーを見た。ずっと眉間に皺を寄せて黙ったままの彼を見た。
「ふふ、気にしなくていいんだよミュラー。僕は君のそういうところが大好きさ」
 冗談めかした言葉にミュラーの眉間の皺はさらに増えたが、それでむしろ安心したようにオリヴァルトは再び笑って、抱えた猫の顔を覗き込んだ。まるで機嫌をはかるように、それの小さな手をとってみたり、頭を撫でてみたりしている。
「可愛い子だねえ、そうだ、名前は何にしようか」
「名前?」
「女の子だから、うん、エリーゼ、エリーゼにしよう」
 ひとりで納得してうんうんと頷いているオリヴァルトに、ミュラーは大仰にため息を吐いた。
「……どうしてメスとわかる」
「どうしてって、どっからどう見ても女の子じゃあないか」
 根拠もなく自信気に言い放つ、今までロクに小動物と戯れたこともないようなこの男に若干の不安を覚えつつも、ミュラーはとりあえずの肯定を意図して首を縦にふってみせた。それが自分の甘さだとはわかっていた。わかっていたから、きっとその後には後悔しか待っていないのだということも、なんとなく予測はついていたはずだった。


 あの庶子の皇子が薄汚い猫を抱えていた、などという噂は、ついぞ聞かなかった。猫は何年か越しでオリヴァルトの部屋に住み着いていたのは確かだが、ミュラーですら姿を見るのは稀だった。しかし時折ひょっこりと姿を現すそれは、見つけたときよりも立派な姿になりつつも懐こいのは変わらず、しっかりとした声で一鳴きし、ミュラーの足下にも擦り寄ってきた。
 後にそれが死んだときは、そのことをオリヴァルト自身の口からミュラーは聞いた。急に姿が見えなくなって、それからもう帰ってくることはなかったと。猫は自らの死期を悟ると飼い主のもとを離れるとは聞いたことがあったから、きっとその類かと、いやに淡々とそれを報告してくるオリヴァルトを見ながらミュラーは思った。オリヴァルトには特に嘆く様子も見られなかったが、少し残念そうに目を細めていた。

 それからのことは偶然に過ぎない。ひとりで勝手に離宮を飛び出すオリヴァルトを連れ戻しに帝都を歩き回って目にしただけだった。小さな路地の前で立ち止まって、近くの地面からその向こうまで視線を動かしていく。ふん掴まえるつもりで見つけた男が、いったい何を『探して』いるのかはすぐに推測がついた。そしてそれを知ったときに、ああやはり、と、落胆したことを隠せなかったのだ。

 引きずられながら鼻歌を歌っている。それも底抜けに明るい曲調のものだった。きっとミュラーが不可避だと知っていた後悔を、今重ねてたのだとわかっていてわざとそうしている。薄汚れた猫を、ミュラーの代わりに抱え上げて名前をつけ、愛したのはオリヴァルトだった。そして今、見つけられないものを求めて歩き回ることしかできないまま、男は笑っている。




 庭の植え込みの辺りだ。あの日、弱り切った猫と出会った場所は。今もそこにふと目を落とせば、砂埃にまみれた哀れな姿を映せる気がする。誰にも言えない、些事だと埋もれる感情のなかに、ミュラーは、誰にも言わない、後悔の上に積んだもののことを思い出す。

 もうそれとも呼べないような瞬間が、来ないことをそこに誓っていた。



灰色の腕



わりとオリビエはオリビエなりにミュラーさんを守ろうと考えてた時期があったのではないかという話でした。オリビエは今の形でもまだ完成形だとは言わないけれど、過渡期があるならもっといろいろもやもやしてたにちがいないとか勝手に妄想しているのはわたしです。
それにしてもなぜわたしの書く話はいつも何かが死んでいるんだ











街の明るい雰囲気が好きだった。家族連れが目の前を過ぎる、手を繋いだ若い男女が人混みに消える、年を取った老夫婦がベンチで語らう。平和と幸福を享受する人々の合間に、たったひとりで自分が居る。

 年が明けるまで猟兵としての仕事はなく、思いがけずランディは自由を貰った。武器を握り始めてまだそれほど経っていない幼い従妹は無邪気に喜び叔父を引っ張って街へ消える。元気な従妹を横目に、しばしの自由を言い渡した団長たる己の父親の様子を窺ってみるが、彼は特に何をするでもなく、いつもと何も変わらない調子でそこに君臨していた。
 今は祝節祭の最中だと、気を利かせた仲間に言われて出てきたのはいいが、用事もなければ当てもない、仕事で身を寄せただけの街だった。殆ど見知らぬ場所で、見知らぬ人に囲まれて、恐れはない、委縮もしない、だが素直な戸惑いを感じた。
 あの道の向こうに姿を消していく人々は、いったいこの騒がしい街で何をするのだろう。

 ぼんやりと歩いていたのが悪いのだが、いつの間にか大通りの中心に出ていたらしい。人の波に飲み込まれて右も左もわからなくなってしまった。未だ成長しきらず、周囲の大人たちには到底及ばない背丈しか持っていなかったランディは、流されるようにその波に従って歩くしかなく、少しずつ押され押し返して道の脇に抜け出たときには、思わず大きなため息を吐いてしまった。
 顔をあげてみたら、透明なガラスの向こうに、丸く形作られたスポンジ生地を白い生クリームと赤いイチゴで彩った、スタンダードケーキが目に飛び込んできた。思わずそのまま数秒、呆けた顔でそれを見つめてしまった。きっとそれで何か勘違いされたに違いない。とんとん、と小さく肩をつつかれて、振り向くと、ランディよりも幾分か年上だろうがそれでもまだ少女と呼べそうなくらい年若い女性が、こちらを見て微笑んでいた。
「おひとついかがです?」
 瞬きをひとつ、ふたつしてから、真っ先にしたことは上着のポケットの中を探ることだった。指先で触れて取り出したのはたった3枚のミラ硬貨。それを手のひらに乗せたまま固まってしまったランディに女性はくすくすとおかしそうに笑う。何となく申し訳なさが募って首の後ろを掻いた。まだ苦笑いして誤魔化すことも知らない頃だった。
 すると今度は女性の方が自身の上着のポケットを探り始める。取り出したのは女の子らしいベビーピンクの財布で、中からミラを数枚引き出したかと思うと、それをランディの手のひらに乗せた。目を見開くランディに、彼女は、おひとついかがですかと、再びにっこりと微笑んで見せて、ガラスの向こうにあるケーキの下まで案内したのだった。

 白くて四角い、それなりの大きさのその箱を抱えて戻る。大抵の者は出払ってまだ戻っていないようだった。きっとそのまま朝まで戻らない奴もいるだろう、だって街はあんなにも明るいのだから。
 しかし己の父親だけは、出てきたときと同じ、静かに部屋に居座ったままの状態だった。やはり何をするでもなくそこに居る。他に誰もいないのだから仕方ない、そんな言い訳をして彼の向かいの高い椅子に飛び乗った。抱えていた箱を机の上に置き、あまりよくない手際で蓋を開けて、中からケーキを引っ張り出す。何も言わずにその様子を見ているだけの父親に、食べるかどうかだけを一方的に尋ねて、棚から皿とフォークと、ナイフを取り出した。
「あ」
 刃物を握りしめたら、ひょいと横から取り上げられる。
「おいダメだ、返せよ」
 俺が切るんだと、足りない身長で腕を伸ばすもどうしたって届かない。そんなランディを無視してケーキを切り分け始めた男に、文句を垂らすもそのままおとなしく席に着く。まだ甘いものが好きな時期だった。皿に乗せられたひときれを前に、それを持たせてくれた人のことを思い出した。疎外と困惑のなかで流されるままだった自分を、不特定多数と数えてくれるやさしい手だった。
 あれはもしかしたら女神だったのかもしれないと、フォークでケーキを一刺し口に運びながらランディは思う。ちらりと向かいを窺えば、切り分けただけで食べる気はないようで、先ほどと変わらず父はそこに居た。それが何故だかおかしくて、ランディは少し笑っていた。



はぐれものの祝節祭



クリスマスリクエストでした。赤い星座なちびランディさん。
パパオルランドさんって無口でどっしりかまえてるイメージあるよね、体小さかったけど静かな迫力のあるひとだったそうだから。かっこよかったに違いない…