教えてください、貴方が何を見ているのか。貴方の世界がどんな色なのか。もし私にそれを見ることが叶わないのであれば、せめて瞼の裏で思い描けるように。
珍しいものを見た。男はいつも自分より目覚めるのが早くて、いつも自分より眠るのも遅くて、だから何故か、こうして瞼をおろして眠る生き物なのだという事が実感できていなくて、しばらくそのまま呆けた顔をしてしまった。それでも相変わらず男は、目を閉じて静かに規則正しく寝息をたてていたから、いつも不機嫌そうに寄せられる眉根が幼子のようにひらいたところは誰にも見られてはいない。
それにしても凄まじい失態だった。眠りにつく前は何をしていたのだったかということを思い出そうとしたがどうにも頭が痛い、寒気がする、最悪だ。……たぶん、本の話を男としていた。それは間違いない、今自分が横たわっている寝台のあしもとには綺麗に積まれた本が見えたから。自分のものと、図書館で借りたものと、男のものが混じっている。
きちんと寝台の上に戻ってきた記憶が全くといっていいほどない。しかし恰好こそ制服のままだが、靴は脱いであるしネクタイも外してある。数回瞬きをして、真横にある男の寝顔へ目を向けた。といってもここからだと、殆ど頭の頂点ばかりが目につく角度だ。男は寝台に頭を預けて眠っているだけの状態だった。自分よりも幾らか体格は良いが、それでも劇的な差はない。しかし現状から導かれる結論はひとつしかなかった。凄まじい失態だ。
頭痛はひどいがこのままというわけにもいかず、ゆっくり上半身を起こして、男の寝顔を上から見下ろした。
「おい」
反応はない。寝起きで声が擦れていたから、聞こえなかったのかもしれないが。隣で人の気配が動けばすぐに気付きそうなものなのに、この男だったら。
「おい、ガイウス」
起きろ、と口にしながらその頭に向けて手をやった。ひとつふたつ叩けば流石に目覚めるだろうと軽い気持ちで伸ばしたそれは、辿りつく前にやんわりと何かに絡め取られる。ぱちりと開いて覗いた目がこちらを見て、柔らかく笑んできた。
「おはよう、ユーシス」
まだおはようの時間には程遠かったのだが、訂正を求める前に声が届けられる。
「身体は大丈夫か?」
「……頭が痛い」
「寝る前もずっとそう言っていたな」
「面倒を掛けた」
「いいや、それよりまだ寝ていた方がいい。顔色がよくないぞ」
こちらの手を絡め取っていた男の指が、不意に起き上がった頭の方まで伸びてきて枕の上へ誘われた。何も動かせそうにないくらい弱い力だったのに、抗い難くてそのままおとなしくふたたび横になる。収まるところを探して首を捻ると、まだ身体を折り曲げたまま寝台の上に頭を預ける男と目が合った。
「部屋に戻れ。うつるかもしれん」
「そうなのか?」
尋ねながら、男が動く気配はない。
「そうでなくても、その恰好は寝苦しいだろう」
指摘されてはじめて気付いた、という顔をする。そして指摘の仕方を間違えたことにこちらが気付く。そもそも此処に居る必要性がないといってやるべきだったのだ。しくじった。この数か月の付き合いで、この男の扱いについてはそれなりに慣れてきたつもりだが、わかっているだけでは何ともならない事を改めて思い知る。
「いいから戻れ、借りたい本があるなら勝手に持って行って構わん」
「大丈夫か?」
「一晩も寝れば治る」
「そうじゃない」
「は?」
「ここだ」
指先が示したのは己の喉元だった。
こういう時に、その内容を察することが容易いのは果たして得なことなのだろうか。鈍感という言葉が痛烈に似合うあの同級の友人が、八つ当たり的に恨めしいと思う気持ちと一緒に、以前あった些細な出来事を思い出した。覚えていたのが奇跡だった。そして目の前の男が覚えていたことが意外だった。
士官学院に入学してからしばらく、授業も部活もこなして実習も挟んで、常に忙しなくはあったが身体はむしろ調子が良かった。故にその出来事は自分にとっても久しく、且つ唐突なことだった。何が引き金だったかは曖昧だ、ただ突然やってきた感覚に驚いたのと、その時周囲には、この男と、鈍感だと責めた同級の友人が居たことが相俟って、咄嗟に取り繕おうとしてしまったのが悪かった。浅く、短くなった呼吸が頭痛と手足の痺れを引き起こし、蹲りそうになる身体を無理やり動かそうとして、倒れた。
床に倒れ込んだ後のことはよく覚えていない。だが己に呼びかける友人の声だけは鮮明に聞こえており、そのおかげで何とか対処法を思い出すこともできた。何もはじめてではない、屋敷に居た頃は頻繁に起こしていた。ただ此処数年はそれなりに形を潜めていたから、すっかり頭の内から実感としては離れつつあるところだったのに。
「……今はただの風邪だ、何も問題はない」
「そうか。つらくなったらいつでも呼んでくれ」
「…………」
そうなったら声を出すどころの問題ではなくなるのだが。大真面目な顔で告げてくる男にどうしてやったらいいのかわからず、ひたすら眉根を寄せて苦い表情を作る。暫し逡巡したのち、怠さを感じる腕をゆるゆると持ち上げて、男の頭まで指先を届かせた。そのまま幼子にするように撫でつければ、ずっとやわらかく笑む形を整えていた男の目が、不思議そうに開かれる。ぱちぱちと繰り返される瞬きは珍しく男を年相応に見せていた。
「呼ぶから、さっさと戻れ」
「…………」
「どうした?」
「いや。こんな風に頭を撫でられるのは、子供の頃以来だな」
続けてにっこりと微笑んだその表情も、言葉どおり子供のようだった。面食らったのはむしろ自分の方だ。慌てて引っ込めた手の行き場がなくて、仕方がないから身体ごと男から背けて目を閉じた。やがて緩やかな睡魔が襲ってきても、背後の気配が動くことはなかった。
教えてください、私の知るべきことを全部。貴方が教えられることを全部。全てを噛み砕いて、全てを理解して、そうすることで変わる私の世界の可能性を、貴方も信じてくれるなら私も信じましょう。
貴方は本当に丈夫に生まれてきたわね、と母に言われた事を思い出す。弟が熱を出したときだっただろうか、弟だって十分に丈夫に生まれてきたと自分は思うが、どうもそのときは悪質な気にあてられてしまったらしい。
昔、一度崖から落ちたことがあった。確か魔物と対峙していたのだ、うっかり足を滑らせてそのまま落ちた。しかし底なしにも見えたそこは、下に少しだけ突き出した足場があって、したたかに背中を打ち付けはしたものの、他に何事もなく、魔物も目標を見失ってどこかへ去っていった。やがて自分を探しに来た父がその崖の上で立ち往生している馬を見つけ、ロープを使って引き上げてくれた。怪我も擦り傷以外には殆ど何もなく、心配してくれていた集落の大人たちは皆一様に女神の加護と風の導きへの感謝と共に、己の無事を喜んだ。
貴方はきっと、風と女神に守られているわ、安心しなさい。母の声が今も耳に残っている。だから自分があの愛おしき故郷を離れると言い出しても、快く承諾してくれたのだろう。大丈夫だと言ってくれたのだろう。
昼ごろからあまり機嫌がよくなさそうだった。いつも感心するような発話の仕方でマキアスとやり取りをしているのに、それもどこか面倒そうで、リィンが心配そうに声を掛けてもあまりちゃんと聞いていないことがわかった。本の話を切り出して、寮まで戻り部屋で話し始めたあたりで、しきりに頭を押さえているからそこが痛いのかと尋ねたら至極億劫そうに頷いた。幸い、寝台に腰かけた状態だったから、そのまま身体を横にするよう促し、両足に嵌っていた靴を丁寧に引き剥がすと、呼吸が少し荒かった。だから少し勘違いをした。首元を締めているネクタイを解いて抜き取り、身を乗り出して背をさすった。苦しいのかと今度は訊こうとして、瞼が下りていることに気付いた。呼吸の変化にすぐ気付けるようにと思って、眼前に頭を預けたら、いつの間にか自分も眠りの淵に落ちていた。
少し前に、彼が呼吸困難で倒れたことがある。その時一緒に居たリィンの話によると、いわゆる過呼吸だったらしい。それはそんなに唐突に、且つ容易く引き起こされるものなのかと訊けば、物理的な要因以外にも、精神的な作用で引き起こされることは有り得ることだと言われた。その時は、リィンが適切に対処をして30分もしたところで治まった。
「老師との修業時代に、俺もなったことがあるんだ。それは別にストレスとかじゃなかったけど」
本当に苦しくって、その時ばかりは本気で死ぬんじゃないかと思ったと、困ったように笑うリィンはしかし、心配そうに倒れた彼を見ていた。精神的な作用と言われて思いついたのは、少し前にあった揉め事だった。貴族生徒と平民生徒の言論抗争のようなものが飛び火したようなことだったが、マキアス曰く、それは丁度帝国内の貴族と平民の間にある軋轢の縮図とも言えるらしい。つまり、実際に相手「個人」としては関係のない話題を、その集団に属しているということで引き合いに出し、指摘し合って争っているのだという。結果、望んでもいないのに貴族側だと認識され、抗争の話題をしきりに振られて、うんざりしたように撥ね付けてはその集団とも折り合いが悪くなる。結局あの揉め事はどこに決着を見たのか、自分は知らない。彼は何かを知っているかもしれなかったが、しばらくその手の話題はしない方がいいとラウラに言われて口を噤んだ。彼女も相当厄介な目に遭ったらしい。同じように苛立ちや憤りを感じて、大丈夫かと尋ねると、彼女は気丈に笑って部屋で素振りをしたらどうでもよくなったと答えた。そう、結局はそのくらいに『形のない』話だったと、終始傍観の立場にあったフィーが言っていた。
「リィン、処置の仕方を教えてくれないか?」
落ち着いたところで大事をとり、医務室まで連れて行ったあとにそう切り出した。リィンは驚いた顔をしたが、直ぐに首を縦に振って承諾してくれた。
「前にちょっと聞いたことがあるけど、ユーシスは元々そういう体質らしいから。もしかしたらこれからもあるかもしれないしな」
丁度折よくベアトリクス教官もその話を聞いていたため、結局はリィンからというよりリィンと共に学ぶ状況になったが、専門の人間による手解きは目的以上にためになるものだった。
自分は、本当のところをいうと彼について何も心配事はないと思っている。不意に見つめることになった彼の背中を前にして確信する。仲間として認識している、仲間として信頼している、例え再び、呼吸の仕方も忘れるくらい心が軋んでも、きっと誰の手も取らずに起き上がるだろうと思っている。
先ほど己の頭部に触れた手は温かかった。それがどうしたということでもない。ひたすらに優しい手つきだったと思うばかりだった。でも彼は、やさしくはないのだということも、己は知っている。知っているだけではどうにもならないのだとは、此処しばらくの内に曰く実感したことでもある。目を閉じた。
誰もが弱さを許せないのだ、だからこそ他人の弱さを認めてやりなさい。お前も己の弱さを許せないとき、きっと誰かがそれを認めてくれる。不毛に思えるかもしれないが、それはとても大切なことだ。相手を知る以上に相手を受け入れなさい、わからなくてもいい。
それが遠い昔のものだったか、つい最近耳にしたものだったか、傾いた思考ではどうにも思い出せない。低い男性の声で記憶しているのだけが確かだ。なぞるように口を開いて、まだまだその域に自分は居ないことを思って。
今まで自分を生かしてくれた多くの言葉のように、また、目覚めて教えて欲しいのだ。それまできっと此処に居る。
眠りの淵を守る羊
ガイユシがかきたくてかきだしてよくわからないままよくわからないなりに投げました。一番見習ってはいけないかき方です。
支部にあげたものとはまたこっそり別バージョンになっています。探してみてね。