太陽の光に反射して白く眩いている湖面の上を、小さな舟が走っているのが遠目に見える。ガイウスは額に手をあてて少し目を細めた。釣竿が見えた。やがてゆっくりと湖面を漂うようになった舟で、竿が揺れ、水面に垂らした糸の先に魚影が映り、そのまま引き上げられる。まったく見事な腕前だった。

「ご隠居、さすがです」
「ガイウスか。ほほっ、よく来たな」

やがて桟橋に戻ってきた舟に向けて素直な賛辞を贈る。バケツの中に見える影の数は、決して多くない。しかしそれはそれ以上に必要ではないだけで、この老人の腕の巧拙を示すものではない。



幾らか持っていけと木箱の中に布を敷き、老人がそこに釣果を並べていくのを見る。やがて出来上がったそれを有り難く頂戴する前に、小屋の中で茶を振舞ってもらった。帝国の方の銘柄らしい。飲んだことのない味だった。美味しかった。

「ふむ、そういえばガイウス。此処に来る前にどこかへ寄ったかね?」
「?ええ、ゼンダー門の方に」
「やはりそうか」
「どうしてお解りになられたのですか?」
「大したことじゃあない。お前さんから鉄のにおいがしたのでな」
思わず、すん、と息を吸った。なるほど、確かに少し錆びたにおいがするかもしれない。先まで獲れたばかりの魚の生臭いにおいが勝っていて気付かなかった。それに、門から随分と馬で走ってきていたから、とっくにそんなもの風に飛ばされてなくなっているかと思っていた。
「随分と長い時間居たようじゃな。何かあったのかのう?」
「いえ、門に務めておられる軍の将校殿とお話があったので」
「例の推薦か?」
「はい」
来年度か、これも縁じゃなあと、老人は茶を啜りながらどこか感慨深そうに微笑んだ。ガイウスは首を傾げる。

「ガイウス、帝国に行くお前に一つ儂から助言をやろう」
「はい。何でしょうか」
「お前は、ノルドの民じゃな?」
「はい」
「この地で生まれ育った人間だと、疑いなくそう言えるな?」
「はい」
「ならそれでいい。ガイウス、帝国に行っても己が立ち位置を見失うな。目的を見誤るな。あの国は巨大じゃ、直ぐに足下を掬われてしまう」

いつもの軽妙な口振りは形を潜めて、老人は空になったカップの底を覗きながらそう言った。ガイウスは真っ直ぐ彼の人を見つめている。真意を言葉にはできなかったが、今から自分の飛び込もうとしている場所は、流れも読めない乱気流の渦中なのだということはよくわかった。




小屋の前につないでいた馬の背に、貰った木箱を括り付ける。老人は導力車の押し込められた車庫の扉を開いていた。もう陽は傾いてきているが、どうやら今から高原をドライブする気らしい。自由なひとだ、と思った瞬間、先に自分の身を纏っていたあの鉄錆のにおいが漂ってきた。
「おなじですね」
「うむ、どうした?」
「おなじにおいがします。…でもゼンダー門の方が、もう少し焦げ臭かったような」
老人が大きな声で笑い出した。そりゃそうじゃ、その気はなくともあちらは爆薬庫のようなものだから。言っても、駆動機関に同じ導力システムが使われている以上、こちらも或いはひとつの爆弾になる可能性だって、まぁあるんじゃがなあと。つらつら饒舌になる老人の後ろ姿に、ガイウスは少し顔を歪める。

「でも貴方はそのにおいを愛しておられるのでは?」
「……」
「俺が、このノルドの地のにおいを、愛しているように」
「…そうじゃのう。お前にとってこの地が故郷なら」
赤く照らされた湖面を魚が跳ねた。
「儂にとっての故郷は、あの鉄鋼のなかなんじゃよ」



































今は、早急に帝国そのものの知識、これから向かう士官学院のあるトリスタという街、そして己が通うことになる士官学院についての知識を詰め込んでいる。巡回神父が持ってきてくれた本はどれも面白いものばかりだったが、ゼンダー門に置いてある本はそれとはまた違ったものばかりでガイウスの興味をそそった。中身は仰々しくて難しい、専門用語も多くて辞書なしでは読みにくい。そんな中でも読みやすい本やわかりやすい内容のもの、それでいて今、ガイウスが必要としているものを丁寧に選んでくれた。ゼクスだけではない、ガイウスを好意的に見てくれる他の軍人のものたちもそうだった。

彼らは皆一様に真面目で厳しかったが、高圧的ではなかった。ゼクスに至ってはどんなときでも、相手とその片方の目をしっかりと合わせて話すことを忘れない。義理堅いものたちだ。そう感じたからこそ、軍人の養成が主たる学院への推薦と言われて、悪い印象を持たなかった。


自分達に配慮してのこともあるだろうが、この平穏なノルド高原に於いて帝国軍が軍事演習を行うことは殆どない。しかし兵たちの練度を下げぬため、また常時の緊張を保つためと訓練は頻繁に行われている。その日、ガイウスは来る来年度のための学習と、ついで集落からの裾分けを届けるために弟のトーマと馬を走らせていたところ、それに出くわした。
「ガイウスも参加してみるかい?」
ライエル少佐という軍人のひとりがそう冗談まじりで声をかけてきた。広大なノルド高原の南側半分を使い、4人でパーティーを組んだ兵士たちが魔獣を退けつつ幾つかの目標ポイントを目指すというものだ。少人数での訓練、しかし軍という一団としての意識を持続させるための組制。道中には指揮官の用意したトラップなども用意されていて、時間制限もついている。訓練を終えた幾つかのグループの者は皆、一様に門の前で息を荒げて座り込んでいた。相当に厳しかったことは容易にわかる。
「冗談だよ。そんなことしたら私が中将に叱られてしまう」
隣のトーマがほっとしたように息を吐いた。ライエルさん、あんちゃんにそういうことあんまり言わないでくださいね。困ったようにトーマが告げるのを聞いて、ライエルは楽しそうに笑う。兄想いのいい弟だなと言われて、ええとても助かっていますと返すと、トーマが恥ずかしそうに顔を赤らめた。



荷物を届けた後、トーマは食堂にいるシャルという少女の下へ赴き、ガイウスはそのままこの門を預かっているゼクス・ヴァンダールの部屋へと挨拶に行った。外で訓練を行っているため詰めている兵士の入れ替わりが激しく、門の中は慌ただしかったがゼクスは部屋で何らかの資料や書類を広げているようだった。そのどれを少し見てみても、ガイウスにはあまり理解できないものばかりだ。
「ガイウス、勉強は捗っているか」
「はい。中将のお蔭です。ありがとうございます」
「構わん。推薦した身で何もしないわけにはいかんだろう。それにお主は聡明だ、教え甲斐もある」
自分で自分が物分りの良い方なのだと思ったことはなかった。しかしそうゼクスに言ってもらえることは誉れ高いことだろう。ありがとうございます、という言葉は再び、素直に口をついて出た。
「春も近づき、お主がこの地を離れるときも近づいたか…」
感慨深げな言い方は、あの湖のそばの老人のものに、よく似ていた。



















4月になれば、ガイウスはここから列車に乗って、帝国へとはじめて足を踏み入れることになる。そう仕向けた…トールズ士官学院への推薦を申し出たのはゼクス本人だったが、未だ名残惜しい点が、ないわけではない。

お借りしていた本です、と箱のなかに装丁が痛まないよう丁寧に入れられたそれらを返してきた青年は聡明だ。逞しく強かな魂を持っている。数多くの部下たちを見て、彼らを指導してきたゼクスの目にも逸材である彼が、更に新たな見聞を広げ、新たな可能性に目覚めること、そして彼自身の内に秘めた決意を促すことに迷いはない。だがしかしあのめまぐるしく複雑で歪なあの国の姿が、この雄大な環境に包まれて育った青年にどんな影響を及ぼすのか、それはゼクスにも想像はつかなかった。

わからないものは恐ろしい。歳を取れば、猶更。

「ええ、楽しみです」
それに比べればガイウスは怖いもの知らずで、年相応の好奇心に溢れているように見えた。不安がない、とは言い切れないだろうにそんなものは微塵も感じさせず、時折急かすような目で4月に乗り込むことになる貨物列車を見つめているときもある。


「楽しみ、か」
「はい」
「…ガイウス、帝国は広い。そしてそれゆえに様々な地域があって、様々な人々が住んでいる。ただ広いのではなく入り組んでいる」
「はい」

それを告げるべきかどうかは、結局最後まで逡巡した。ガイウスは真っ直ぐにゼクスを見て、続く言葉を待っている。それが助言であろうと苦言であろうと、彼なら聞き入れるだろう、聞き入れて、噛み砕いて、きっと糧とするだろう。

「…迷子に」
脳裏に浮かんだのは、自分の教え子でもあったあのひとりの皇子の姿だった。彼が皇居に招かれてから自分はずっと彼を見てきた。やはり強かで聡明だった彼の人が、一体あの国の中で何を見つけて何を知って、何を求めたのか、
ゼクスは生粋の軍人だった。それを正しく知ることはどうしたってできないだろう。けれども感じることはできるはずだ。こういった気の回しは苦手で、皇子の軽やかな冗談にもついていけなかったが、それでも皇子はにこやかに笑っていた。先生と呼び慕ってくれていた。
「迷子に、なるでないぞ。すれ違う人間が、正しい道を示してくれるとは限らんのだから」
「…はい」









見張りのものたちに今日の別れの挨拶を済ませ、ガイウスは馬に跨った。すぐ後ろではトーマが既に控えている。見送ろうとゼクスも門から外へ出ており、それではまた、とガイウスが馬の手綱を少し引っ張ったときだった。ふと思い出したように口を開いた。

「中将の、故郷はどこですか?」
「私の故郷?」
「はい」
後ろ髪を引かれるような場所のことを言っているのか。それとも自分が生まれ育った場所のことを言っているのか。どう答えたものかとゼクスが顎に手をやり考えていると、ガイウスは夕日の沈みゆく高原を見渡して深く頷いた。

「俺の故郷は此処です」
「………」
「もし迷うようなことがあったら、また此処から向かいましょう」
「…そうか」
「お返事は、次のときにでも」
「ああ、気を付けて戻るがいい」
「はい」



赤く染まった高原の海を、2頭の馬が駆け抜けて行く。何ひとつ気負いせずに此処を故郷だと言ってのけたことに、別段驚いたわけではない、そういう子だと、出会ったときから認識していたではないか。何を今更。





…故郷なら、其処にある。険しい山々を越えた先の、あの巨大な国で育った。戻ってくるところはいつだって、鈍く鉄錆のにおいの漂うこの場所だ。






故郷のにおい


突発ガイウスさんとその周辺。2週目でノルドいっててふと思いついたもの。なにげにグエン爺さんすきです。