固く閉ざされた門を前にして、両足は辛うじて震えもせず気丈に振舞っている。それで有り難かった、私の心、今は全校生徒を代表する生徒会長という『役割』を持つ存在。それがわかっていれば私はいつでも背筋を伸ばせるのだと信じている。
「トワ、泣いているのかい?」
上から覗き込むようにして、ジョルジュが小さな声で囁いた。門を飛び越えた先をじっと見つめていたトワはようやくはっとして彼に向き直り、どうして?私泣いてないよと慌てて返事をする。
「泣いているように見えたよ」
「泣かないよ、みんなが泣かないから」
ひとり、またひとりと居なくなっていく学院の中。氾濫する情報と、理解を超えた状況と、それら全てを目の当たりにしても、トワはまだ冷静だった。彼女にはこの、広い帝国と比べれば明らかにちいさな建物と組織のなかで、果たすべき義務があった。それで誰かに褒めてもらえることを期待してきたわけではない。尊敬され、頼りにされることは純粋に喜ばしいことだと思えても、彼女にとってそれは本義ではない。…そして周りの人間がそのように自分を持ち上げる程に、自分は立派な人間ではないと、思っている。
「クロウ君は、……」
「クロウの奴が、どうしたんだい」
「……自分の居るべきところに、戻ったのかなあ」
この1年と半年、思い返しても思い返してもあのへらりとした笑顔が浮かんでくる。ひとつも真面目なところなんてなくて、授業は眠る、単位は落とす、学生だからギャンブルは駄目だといっても平気で他人に持ちかける。上げればキリのない問題の数々に比例するかのように、彼は不誠実で、約束もよく破った。昨日は悪かったと両手を合わせて謝ってくる彼を、何度許してきたかはわからない。個人的な約束事ならいくら破られても構わなかった。多くの他人が関わるときだけは、絶対に許さないで言いつけなければならないと思っていたが、事が大きくなればなるほど、予想に反してクロウは誠実になった。与えられた役目は必ず果たした。あまりの手際の良さに、本当は勉強だって真面目にやればできそうなのにと言えば、そうだぜ俺様は天才だからなと茶化された。まるで決まりきった文句だった。その時初めてトワは、彼が『クロウ・アームブラスト』という役割を持った存在なのだと気付いた。
「どうしてそう思う?」
ジョルジュの声も、冷静だった。彼は滅多なことでは動じないが、それでもひどく、感情を押しとどめるような尋ね方だった。その理由はトワにも何となくわかる。
「…帰っていく、みたいだったから?」
「なんだいそれは」
「私ね、知ってるよ。ううん、何にも知らなかったけど、でも知ってるよ」
かつて、出会ったばかりの頃のアンゼリカが、クロウに向けて言い放った言葉を思い出す。軽薄な顔つきだね、私にはわかるよ、君は嘘吐きだ。一度彼らが本気で喧嘩して、本気で殴り合いになったときのことも、思い出す。その状況になった途端に真剣な表情を止めて面白そうに笑い出したアンゼリカに反して、いつもの緩い笑顔を潜めて本気の殺意を彼女に向けたクロウの目は、静かだった。氾濫する直前の水のようだった。慌ててジョルジュと止めに入って、何とか宥めて、そこでアンゼリカがやはり言った。ほら、きっとそっちが本物だ。野郎と心を通わすなんて私の趣味じゃないが、それでもそんなお前と向き合っている方がずっと良いよ。歯に衣着せぬ彼女の言葉は、どんな物理的な攻撃よりも深く、クロウの鳩尾に食い込んだらしかった。
「…クロウ君がうそつきだって、知ってるよ」
ある日生徒会室に飛び込んできた、羽根の傷付いた小鳥のことを思い出す。飛べるようになるまで面倒を見たいと言ったトワに、アンゼリカは優しげに笑って協力してくれたが、クロウはあまり良く思っていないようだった。甲斐甲斐しく世話をするトワを横目に、あんまり居心地のいい場所を作ってやろうと思うなよと釘を刺された。でも面倒を見るって決めたからにはしっかり見てあげたいよと答えると、そういう温情はその時にはいいかもしれないが、後になって響いてくるんだ。よく考えろトワ、そいつは飛べるようになったらここから飛んで行かなきゃならないんだぜ、と。いつになく真剣だった彼にトワは口を噤むしかなく、餌を突く小鳥のちいさな声だけが僅かに耳へと届く静寂のなか、瞼を制服の裾でぐしゃりと擦った。
それでもこの一瞬、ここに居てよかったと思えるならそれがいいよ。涙声で放った言葉にクロウはぎょっとした顔をして、お前何で泣いてるんだと珍しく狼狽した様子を見せた。泣いてない、泣いてんじゃねえか、泣いてないもんクロウ君のばか!そこまで言ってしまったのは、今思えば偏に己の未熟さの所為だった。
明くる日、小鳥の様子を見に行くと、クロウが居た。水を与えていた。盛大に欠伸をしながら、小鳥が水を飲み終えるのを待っていた。その後、羽根が完治して再び飛べるようになったそれを、4人で一緒に見送ったときのこともトワは忘れていない。
「そうだね、あいつは嘘吐きだったね」
淡々と答えるジョルジュの声に、非難の色はない。了承していたことだったからだ。
「でも、みんなきっと嘘は吐くよ。アンちゃんみたいに隠さないひともいるけど」
「アンは隠せないからね」
「嘘はね、悪いことじゃないと思うんだ。…でもきっと、あとに響くよ。だってずるいことだから」
「ずるい?」
「うん」
言って、握りしめた自分の手のひらに汗が滲む。
「わたし、わたしね、たぶん、どこかで、きっと、ずっと」
ずるいことを、許し続けてきた。
それを今更悔やんでも、もう何も元には戻らないのかもしれない。いや、『元に戻る』ものなどはじめから何もないのだから、この仮定は無意味だ。トワ・ハーシェルという役割を以て、ジョルジュとも、アンゼリカとも、…そしてクロウとも接してきた。求められるところを欲して、求められたところを与えて、時々ふとひとりになって改めて思い出すのは、何処にも居ないまま、ずっと此処に居て離れない、トワという小さな人間のこと。
『クロウ・アームブラスト』に気付いたまま気付かないフリをして、許し続けた自分はきっと、『トワ・ハーシェル』であることを許して欲しかったのだ、彼に。嘘吐きを殴り飛ばしたアンゼリカはもう此処にはいない。
「だったら、僕も同罪か」
「ううん、ジョルジュ君は、なにも」
「いいや違うよ、トワ。君とそれを分け合おうなんてことは思っていない。だってできないからね。僕には本当の意味でトワの気持ちはわからないし、それはトワだって一緒のはずだ」
「…そうだね」
「わかっていてトワは、今その立場にたっているんだろう?」
固く閉ざされた門をもう一度見上げる。私の後ろには、ひとつの学舎と、多くの人たちと。
足は震えない。曲がらない背筋が例え誰に誇れるものではなくても、私は『役割』に準じなければならない。誰もがそうしているように、誰もがそうしていくように、そしていなくなった誰しもが、そうしたように。
これですべてが、元通りになるように。
歯車の音
先輩組について考えてたらこうなった。
次回作でどこまで補完されるかわかりませんが、相当な妄想なのであまり気にしないでください…