オリビエには、今でも鮮烈に思い出せる光景がある。見晴らしのいい高台に並べられた石、深い穴、閉じた蓋、悼む人々、祈りの声。黒い衣装に身を包んで、その渦中に自分も居た、ような気がする。その日から2日、3日ほどは食事も喉を通らないほどに酷い衝撃を受けていたのに、過ぎれば全て忘れた。胸に走った痛みを忘れた。気管を圧迫する何か、息が詰まりそうな感覚を忘れた。そうなってはじめて、人は忘れる生き物なのだと思った。

 失うことに皆、慣れていく。
 手に入れようと願うことに、皆、焦がれていく。
 いつしか、自分とは与えられた存在ではなくなって、二本の脚で地面を蹴る、確固たる存在として自覚されはじめる。

 それは、素晴らしいことなのだろうか。オリビエにはわからなかった。そうして生きていこうとする人々は美しいと称賛はできた。けれど、けれども、なんだろう?両腕を伸ばしたまま動けない気がする。平時は意識などしなくてもあれもこれもと出てくる無数の言葉は、このときになってはじめて全て討ち果てて、オリビエには歌う以外にそれらを救う術はない。

困り果ててピアノと向かい合った。今は足もとのペダルもしっかり踏める、『彼女』はオリビエにできた最初の仲間だった。
















 特別気に掛けられていたこともないが、下手な真似をすることは許されなかった。故に、庶出の不出来な身とはいえ、アルノール家の一員たるオリビエことオリヴァルト・ライゼ・アルノールに、ヴァンダールの者が教育兼守護役に就くのは当然のことだった。直接聞いたわけではないし裏を取ったということもないが、きっと彼はもともと監視役だったに違いない。彼とは、そのヴァンダールに名を連ねる者、オリヴァルトの年上の親友、ミュラー・ヴァンダールのことだ。

 利口でいなさいと言外に責められていた気がしたから、オリヴァルトは努めて大多数の前ではおとなしくしていたつもりだった。けれども黙って静かに環境を見つめれば見つめるほど、その眼が肥えていくのは避けられないことだということには終ぞ誰も気づかなかったのだろう。そこが愚かだと冷めた心でオリヴァルトは思うが、別にそんなことはどうでもよかった。


 ただの一度だけ、大多数の前で下手を打った。大事にはならなかったが、ひとりの高名な貴族の鼻っ柱を折ったと一時宮廷内ではひそかな騒ぎになった。その件に関してオリヴァルトをひどく叱ったのは、軍将校として忙しい身でありながら彼に教養を叩き込んだ、ゼクス・ヴァンダールであった。

「皇子、どんな相手にも礼儀を尽くさねば対等には見られませぬ。今回のような振る舞いは陛下もお嘆きになられるでしょう、二度とあってはなりませんぞ」
 『まだ子供だったから』、無知の範囲で済まされたのだと今ならわかる。そしてゼクスは最後にミュラーに向き合って、厳しい口調で言い放った。
「ミュラー、お前がしっかり皇子についていなさい。くれぐれも『危険』な真似はさせるんじゃないぞ」
 ミュラーは静かに頷き、返事をした。しかしオリヴァルトは知っている、あの時あの貴族の前で朗々と不正や矛盾、ついでに年若い娘との浮気を言い当てようとした自分に、彼が驚いた顔をしながら少し笑ったことを。まるで思いつきもしなかった遊びに気づいたとでもいうように。たったそれだけで、打った下手にも価値があった。





 ミュラー自身に監視役だという自覚はなかっただろう。そうでなければ、オリヴァルトの一行動に逐一怒ったり呆れたりはしなかったはずだ。そのある意味どこまでも正直で真っ直ぐなミュラーの純粋さを、オリヴァルトは幼い頃から尊んでいた。愛していたと言ってもいい。あの広い宮廷の中で、ミュラーだけはオリヴァルトの良心であり続けた。

 下手を打てば釘を刺されたが、特に何をするにも制限されていたわけではなかったオリヴァルトに比べて、ヴァンダールの一員として厳しく行動を躾けられてきたミュラーは、真面目で誠実だが子供のころから頭が固く、融通の利かない性格だった。生きるのに不器用だとそれをオリヴァルトは評する。実際にミュラーは難しい顔をしていることが殆どで、怒っているところは山ほど見たことがあるが、笑ったり照れたりしているのを見るのは稀なことで、子供ながら親心のようにオリヴァルトは心配した。ミュラーからしてみれば余計なお世話だったのだろうが。

「学校って、どんなところなんだい?」
ミュラーがまだ士官学校に籍を置いていた頃に、話のタネにと訊いてみたことがある。
「別に、どうということはないが」
 返ってきた言葉はそんな素っ気ないものだった。通っているにも関わらず、そこでのミュラーの生活について、オリヴァルトは驚くほど何も知らなかった。

(そういうのって、普通は誰かに話してみたくなるものじゃないのかなぁ)
 と、思いはするが、相手はあの頑固なミュラーだ。正直、宮廷内に居ればピアノを弾くかバイオリンを奏でるかリュートを引っ張り出してくるか、あるいは大人しく本を読むかくらいしかすることがなくて退屈しているオリヴァルトは、ミュラーと話をする時間が一番の楽しみでもあった。しかしこの幼馴染ときたら、本当に、自分と過ごす時間以外のことは一切口にしないのだ。この頃から人をからかうような物言いや皮肉の類、ひらひらと相手を空振りさせるような言動が身に付きつつあった自分に、下手なことを喋って言い包められることを危惧していたとも考えられた。否、あれが『今』であったならきっとそれで正解だったのだろうが、それは違った、融通の利かない不器用な友人のかわいそうな子供心だったと、後に知った。








 オリヴァルトが宮廷を出て、主な『生活空間』を帝都外れの離宮に移してから、彼はたびたび帝国内を出奔するようになった。部屋に居なくて声を荒げるのはミュラーくらいのものであったし、既に離宮に持ち込んだ本も読み尽くしてやることもない。相変わらず、ピアノやバイオリンは近くにあったが、特に聞いてくれる者も居ないのに演奏する意味も特になかった。

 決して、称賛されたくて弾き始めたのではないのだが。
純粋に音を奏でるのが好きだったから、今までずっと弾き続けてきたのであるが。

 手頃なリュートだけを抱えてするすると離宮を抜け出していく。公式の場に出ることも殆どない彼の顔を知っているものはほんの一握りだ。故に気楽な出奔であったが、それでもできるだけ場所は選んだ。宮廷側の耳に入るような場所は避けて、どちらかと言えば庶民街、それよりもっとひどいところを歩いた。そこはエレボニア帝国の暗部でもあり、現状でもあり、あの堅牢な城の中でただ飼い殺されているだけであったなら決して知ることのなかった世界でもあった。


 しかしオリヴァルトは、それを嘆けども落胆したり憔悴したりは決してしなかった。根が楽観的だったというのもあるが、何よりある程度想像のついていたことであったというのが一番大きな要因だろう。生まれた時から敷かれた道、特に個人を見られることもなく決めつけられる上下の階級、区別される市民。市民の上に、まるでこれが定位置だ、当然だという顔で座り込んで動かない者たち。下々の声は高い頂の上までは届かず、姿はその頂の上からは見えず、また見ようとも聞こうともせず。そんな世界に想像がついていた。ただその時はそれを、確かな現実として目の当たりにしたというだけのことだった。



 どこへ行っても歌を歌った。人に聞かせることもあった。それが祟って、ミュラーに見つかった。はじめて首根っこを掴まれ、そのまま引き摺られて帰った。

「いいじゃないか、誰もボクが皇子だなんて気付かないんだし」
 半分以上冗談の、言い訳や文句の応酬にも飽きて正直なところを口にした。上手く笑ったつもりだったのだが、それでミュラーの表情を見なかったのは失態だった。ミュラーはオリヴァルトの胸倉をつかみあげて、あげて、…そのまま何もせずに手を放した。
「…お前は身軽で結構だな」
 とっくに声変わりして低くなった声が苦々しげに響く。
「君は、重たいのかい?」
「………」
 そんな軽口を叩くつもりはなかったのだが、すっかり癖になった言い方がそのままになってしまった。
「俺にとっては義務なんだぞ」
「ボクの目付役が?」
「………」
「だったらそんなの、やめてしまえばいいよ」
「そんなこと、」
「できるさ。ゼクス先生から聞いたよ、成績優秀なんだって?凄いじゃないかミュラー」

 両腕を広げて、できるだけ大袈裟に声をあげた。笑顔だって忘れなかった。喜ばしいのは嘘じゃなかった。あの退屈な宮廷の中で、ミュラーだけは最初から今までずっと、自分の良心であったと、そう本気で思っているからこそ、ゼクスの口から称賛の言葉が聴けたことを純粋に喜んだ。
「君なら、こんなところでボクの相手ばかりする役目なんかよりも、もっと立派で輝かしい役に抜擢されるさ」
「……本当にそう思うか?」
「少なくとも、家柄がよくないといわれてなかなか昇進させてもらえない人たちよりはね」
「………」

 ミュラーはオリヴァルトから目を逸らして、窓の方へと目をやった。いつもの仏頂面がさらに険しいものになっている。彼が口を開くのをオリヴァルトは待った。

「…明らかに努力も実力も勝り、国家への忠節も篤いというのに、そういったものたちがどれだけ身を乗り出しても皇帝陛下の側には寄れない。それでもと出した頭は次々と悪辣に押し込められて、富や権力を保持し続けたい貴族たちの都合の良い様に組み上げられていく。…お前に親しい友が、同僚が、次々と目の前から姿を消していく日々が想像できるか?そうした苦渋を、ひたすら剣にしか懸けられない日々が」

 相槌すら打てなかった。返す言葉がなかったわけではない。ただ、愛していると思った相手に返す言葉としては、不適切で、軽薄だと判断した。

 同時に、やはりこの男は美しいのだと思った。正直だから、どこにも偽りを作ることがきっとできない。だから落胆もするし怒鳴りもするし、押し殺しもするのだ。圧迫された方向に、うまく折れ曲がって収まってしまう自分とは違って。
「………」
 優しい欺瞞で騙してやりたくなかった。この高潔さを守ってやりたかった。しかし同時にそれは無理なのだとオリヴァルトは確信していた。だってきっと、このままではミュラーは生きていけない。圧迫された方向に変形しなければ、そのまま骨を折ってしまうだろう。かつて、あの石の手前、あの土の下に埋めた大きな棺に、横たえられた人のように。








(ごめんね、ミュラー)
 部屋でおとなしくしていろと、ご丁寧に部屋の前に見張りまでつけて出て行った彼に、心の中で謝罪をした。残念ながら、離宮を抜け出すためのルートは2,3作ってあるどころの話ではない。オリヴァルトはあまり身体能力に自信はなかったが、それでも窓際から目の前の木まで届かすくらいの真似は気合でできた。

 本当は、昨日のことにも免じておとなしくしていようかとも思っていたのだが、彼にはどうしても確かめなければならないことがあった。向かった先は、ミュラーの居る士官学校だった。



 どうということはない。ただミュラーの姿が見られればそれでよかった。咄嗟に思い立ったせいで、さすがに忍び込むルートなどは手に入れていなかったため、ここは正面から突破するかと門番をしていたものに堂々と素性を明かして中に入った。広い敷地内を探して回ってようやくその姿を、何人かの同僚らしき人とともに認めることができた。それはオリヴァルトが初めて見る、オリヴァルトの居ないところでのミュラーの姿だった。






 
 こっそり、ばれないように退散して、彼はその日は真っ直ぐ離宮に帰った。帰ってすぐにピアノの蓋を開けた。やあ、またよろしく頼むよ、と慈しむように声をかけて目の前に座る。譜面は頭に全部入っているから開く必要はなかった。聴衆は誰一人としていない。昔のように、ただ自分が楽しんで弾くだけの演奏だった。

 どうして、とか、大した理由は思いつかない。かわいそうな監視役に抜擢されてしまったあの男を、憐れむ気持ちがないとはいえない。もしかしたら本当にオリヴァルトの元を離れてしまった方が彼にとってはいいのかもしれない。しかしそれも結局はわからない、オリヴァルトがそれを望んでいるのかいないのか、オリヴァルト自身も見きわめかねていた。












 エレボニアがリベールに対して侵略戦争を起こして以来、帝国の漫然とした階級社会の空気が、急に鉄のにおいを滲ませてきたことにオリヴァルトはいち早く気づいていた。しかしそれがある程度表面化してきたのは、彼が二十歳になる直前のことであった。

「先生、ひとつお願いがあるのだけども」
 それまでも教養を教わっていたゼクスに、オリヴァルトは、二十歳を迎えたら戦術を指南してほしいと頼んだ。はじめは大いに驚かれたが、ゼクスは特に苦言も漏らさず承諾してくれた。

 この時すでに、オリヴァルトはあるひとつの決心をつけていた。気に掛けられない、しかし表だって下手を打つことが許されないのなら、そこではない場所で為せばならないことがある。それはオリヴァルトが愛してやまない美しさを守るためでもあったし、またこの聴衆のいない離宮を抜け出すための格好の口実でもあった。どこまで行ってもオリヴァルトは楽観的だった。

 自前の導力銃と戦術オーブメントは、ゼクスから指南を受けたときに譲り受けたものをそのまま持って行った。まるでピクニックにでも出かけるかのような身軽さで、しかしやはりリュートだけは抱えて鼻歌交じりに帝都を出る。目指したのは小国との国境地帯、まさに今にも紛争を起こそうとしている地域の方面であった。











 疲れて、泥のように眠ったことさえ記憶にない。しかし目が覚めたら憎らしいあの部屋の天井が見えた。背中を柔らかく受け止める寝台の感覚が懐かしかった。少し目を左右に振れば、相変わらず綺麗なままのピアノが見えるからここは間違いなく自分の部屋なのだろう。『彼女』を見間違うことは、オリヴァルトには有りえないことだ。
「………」
 うまく思考が働いていないが、下手を打ったことだけは確かだった。それも、かつてゼゼクスに諭されたような類の失敗ではない。だが別になんということもなかった。それを行った目的自体は、ここにオリヴァルトが在ることで達成されていたからだ。

 オリヴァルトが横たわっている寝台のすぐ隣の椅子には、ミュラーが座っていた。座ったまま眠っていた。眠っているときまで眉間に皺を寄せて苦しそうな顔をしていた。否、その仏頂面がミュラーのいつもどおりなのだから、苦しそうに見えるのはオリヴァルトの偏見もあるだろう。


 オリヴァルトが目を覚ましたことに気付いて、ミュラーの目蓋もゆっくりと持ち上がった。まともに目線が合ってしまう。何を言うべきか、と咄嗟に考えて、オリヴァルトはいつものように、やぁミュラー、と笑って見せた。よく見るとミュラーは左腕を負傷しているようだった。
「君に怪我をさせるつもりはなかったのだけれど」
 そんなことを言おうとしたのではないのに、するっと口にしてしまう。みるみるミュラーの顔が険しいものになった。力を入れにくいであろうに左手で握りこぶしを作って、彼は椅子から勢いよく立ちあがった。
「貴様は……ッ!!」
 叫ぶようにそう口にしたのに、その先が続かない。感じているのは怒りなのだろう、それも明白に、目の前のオリヴァルトに対しての怒り。なのに何故か急に、何に対して怒りを感じているのか、ミュラーにはわからなくなっていた。

「…すまなかったね、ミュラー」
「……謝罪は要らん、反省をしろ」
「うん、次はもっとうまくやるよ」
「…ッ…!」

 今度こそ、ミュラーは怒りを顕にしてオリヴァルトの胸倉を、あの日のようにつかみあげた。オリヴァルトはわずかに呻き声を上げる。
「貴様は自分のしでかしたことがわかっているのか!!」
「わかっている、そこまで馬鹿じゃないさ。何なら頭から全部順番に口にしたって構わないよ。自分が何をしようとしていたか、そして何をしてきたか、それを把握できない程行き当たりばったりでやったんじゃないからね」

 普段の大仰な口ぶりを潜めて、できる限り感情を失くした声でオリヴァルトは返事をした。8割方はわざと、ミュラーの迷った怒りの矛先が自分に向くよう仕向けた。しかし予想以上に息がしにくくて苦しい、そこからミュラーの本気は痛いほど伝わった。

「叔父上にも言われていただろう!自分の立場を考えろ、それに相応しい言動を心掛けろ、貴様がしでかしたそれはそれ相応のものだったか!?今日という今日は許さんぞ!!」

 …いや、いつだってミュラーは本気だったに違いない。けれども不器用な彼は、恐らく何かをずっと、オリヴァルトに向けることを躊躇っていたのだ。



あの鮮烈に思い出せる光景のなか、参列した人々が次々と背を向けていくなか、黒い衣服を身に纏ったままその場に立ち尽くしていた幼いオリヴァルト。

ああ、と、首元をミュラーに掴まれたまま彼は思い出した。この苦しさはあの時のものに少し似ている。思わず咽込んだ、するとはっとしたようにミュラーがそろりと手を放した。寝台の上でえづいて、生理的涙の滲んだ目を擦る。しばらく沈黙があった。




「ミュラー」
 思ったよりもか細い声になったことが少し気に食わないが、仕方ない、それに今は騒音もなく、ただひたすらに静寂だ。小さな声でも十分すぎるくらいによく響いて聞こえた。
「そんなにこれは、大事にすべきものなのかな」
「それは……」
 勢いで何かを言いかけて、しかしミュラーは一度口を噤んだ。未だ少し咽るオリヴァルトの肩を押して寝台の上に倒してから、先ほど立ち上がった時に転がった椅子を直してそこに座り込む。相変わらず難しい顔をしていたが、その中には幾分か柔らかい感情も混じっていた。それがわかるくらいには長い間、オリヴァルトもミュラーと共に生きてきた。
「…そんなことは、人に聞くな。自分で決めろ」

 いいや、駄目だそれでは。そうしてしまうから、また忘れるんだ。

 形が無くなって目にも耳にもできなくなって、自分で何一つ確認できないものになった時から、全て時間という流れに逆らえないまま変貌を遂げる。必死になって誰かが守った自分を、また見失ってどこかに投げ捨てようとする。繰り返して膿んだ傷口はいつか麻酔にかかったように開いたままでも平気になるだろう?人間っていう生き物は慣れる生き物なんだ、だってそうでなければ。

 そこまで作った名分はしかし結局のところ言い訳にしかならないのだと、天井を見上げながらオリヴァルトは思った。嘘を吐く言い訳だ、誰かを納得させるために尤もらしい言葉を連ねているに過ぎない。例え事実は事実だったとしても、それで曲がり続けたこの身の潔白を証明するものには成り得ないし、成り得てはならないのだ。


 少し身を捩って、オリヴァルトはミュラーの座っている方向へ体を向けた。俯いていたミュラーの顔が持ち上がる。はじめて会った頃よりも、随分と大人になって体も驚くほど成長したのに、未だオリヴァルトの中でのミュラーはあの汚れなく美しい良心たる少年だった。何も言わないオリヴァルトにミュラーが訝しげな表情をする。ふいに、オリヴァルトが微笑んだ。打算のない、誤魔化そうと思ったわけでもない。ただ純粋に、目の前の男に向けて笑いかけてみせたのだった。冗談であれくだらない皮肉であれ、何かしらの応酬を覚悟していたらしいミュラーは、たったそれだけで額を弾かれたように呆けた顔をした。










「やあ」
 半年振りに撫でた『彼女』の体は、オリヴァルトがいない間も誰かが丁寧に手入れしてくれていたのだろう、埃ひとつ被らず黒く輝いていた。
「悪いね、ずっと会いに来なかったうえにこれからもしばらく構ってあげられそうにない」

 わざとらしく、いつものように演技掛かった調子で口にして、『彼女』の前に座った。白と黒の鍵盤も変わらず美しいままそこにある。叩いてみても調律はしっかりとなされていて、『彼女』はいくつになってもオリヴァルトの、否、オリビエの優しい味方だった。

「昔みたいに移動させても良かったんだが事情が事情でね。君は利口だから、きっと文句も言わずに此処で待っていてくれるのだと思うととても心苦しいものがあるが……ああ、心配しなくていい。必ずまた戻ってくるから。嘘じゃないよ、愛しい君に黙って逝くような真似はしないさ」
 よく回る舌が次々と軽く言葉を紡ぐのに反して、鍵盤に乗せた指とペダルを踏む足は妙に重たかった。弾き慣れた曲を、半ばのところで弾き違えた。まるで『彼女』が不機嫌を伝えたように不協和音が部屋に響いた。
「…すまない、ああ大丈夫だ。少し考え事をしてしまっていたよ。音を奏でるときは余計なことを考えるなと、あんなに教わったのにねえ」

 軽く目を瞑って、思い出すのは見晴らしのいい高台、そこに並べられた石、深い穴、閉じた蓋、悼む人々、祈りの声。黒い衣装に身を包んで、その渦中に居た自分。



 豪奢であるのに監獄のような閉塞感を持ったあの部屋で、誰にも知られないように泣いたこと。皆が周りを取り囲んでいた間は何の感慨もわかずただ茫然としていただけだったのに、誰も居なくなった途端に喉が痛んで床にうずくまった。何を悲しんでいたのか、何に苦しんでいたのか、簡単な話だった。亡くなるまでただの一度も気づかなかったのだ、愛されていたこと、自分も愛していると言えなかったこと。自由で不自由なこの身を、望んで受けたわけではないけれど、それでも貴方と生きてきたことは自分にとっての幸福であったと、不遇や雑音に気を取られて見失っていたことを。



 痛みを恐れて全てを忘れ、まるでひとりで生きてきたように両足をつけて、積み上げてきたものはもうどこにもやれないし誰にも渡せない。次は滑らかに弾ききった曲に、オリビエはひとり『彼女』に向かって笑んでみせて、でも大丈夫、大丈夫なんだよとつぶやいた。

「だってそれが、失くすってことだろう?」














 自分のできることをしよう、その為には利用できるものは利用しよう。例えば、自由で不自由なこの身とか。そう考えていたことを改めてミュラーに話した。…いや、正確に言えばミュラーから尋問を受けた。頑固で不器用なところはちっとも変わらない癖に、長い付き合いの中でミュラーもオリビエの表情の変化や会話の抑揚で、何かを察するようにはなってしまったらしい。

「…それで?」
「うん?」
「何をすればいい」

 内容に対する疑問や非難もなく(いや、非難はその間に何度かされていたが)、聞き返してきたのはそれだけだった。オリビエは困ったように笑って、てっきり先生のように諌めてくるかと思ったけど、と口にした。
「あれだけ散々言ってやったのにひとつも反省してないのだから、これ以上言っても無駄だろう。止めろと言われて止めるほど、利口なんかじゃないお前は」
「おや、これでも宮廷内ではおとなしくしていたつもりなんだがねぇ」
「どこがだ、人を喰ったような物言いしかせん癖に」

 ほんの少し、あの仏頂面のミュラーが口元に笑みを浮かべた。オリビエは一瞬目を丸くさせてそれを見たが、すぐに砕けて声をあげて笑った。そうだな、そうだったかもしれないなぁ、冗談を言うように明るい声色で言えば、ミュラーもわずかに声をあげて笑った。
「でも君が付き合う義理はないんだよ?」
「黙れ、お前ひとりで勝手に動き回られてこれ以上面倒事を増やさせてたまるか」
 ぴしゃりと言い当てられてオリビエもいつものように謝るしかなかった。ミュラーが、それに、と続けて口を開く。
「…ずっと手放しきれずにいたんだ、せめて此処まで来たことくらいは俺にも誇らせろ」




 生まれたときから敷かれた道の上を、理不尽だ、こんなものは望んでいないと、思い続けても不自由な世界のことだ。違う生き物のように、ずっと崇高で美しい生き物のように見えていたミュラーもまた、何かを呑み込んで今まで生きてきた。オリビエよりもずっと面倒な遠回りをしていたのだとしても、ある程度は同じものを見て、同じものを聴いて育ってきたのだと、その時はじめてオリビエは気付いた。





 一度音を鳴らし始めたら、それこそ気が狂ったみたいにずっと鳴り止まない。そんな音が不意に途切れたのを不審に思ってミュラーはオリビエの部屋まで足を運んだ。あまりにも部屋の中が静かだとつい、また抜け出したのではないかと疑ってしまうのだがそれはどう考えてもオリビエが悪い。一応軽く声をかけて不躾に扉を開ければ、中央に置かれた大きくて古いグランドピアノの前に座り、蓋を閉じた鍵盤の上に頭を乗せて、部屋の主が眠っていた。窓は開け放されたままで、少々肌寒い季節になったことを知らせる涼やかな風が、ピアノに置かれた譜面のページを2,3枚ほど捲り上げた。

「オリビエ、」

 起こそうと思ったわけではないが、狸寝入りではないことを確認するために声をかけて近づいた。僅かに肩を上下させるその近くまで寄れば、間抜けに思うくらい安らかな寝息が聞こえてきておもわずため息を漏らす。このいつまで続くのかと呆けるほど穏やかな時間が、失くし続けた感情を呼び覚ます唯一のときなのだと、オリビエが知ったら何というのだろうか。冗談のように笑い飛ばしてくれたらいいのに、きっと嬉しそうに微笑むのだろうと想像して、ミュラーは眉を顰めた。たいそうなことではない、ただ失ってしまうのはどうしても惜しいと思ってしまった、そんな話だった。








忘却旋律線上



なにこれ長い。
ありったけの帝国コンビ妄想詰め込んだらとんでもないことになりました。